超越した職人がたどりついた芸術

                          ―― 「フェルメールとその時代」展を観る(2000.6.2)


午後から休暇をとり大阪市立美術館「フェルメールとその時代」展に行ってきました。

実は、フェルメールという作家については、それまでまったく知りませんでした。
今年の正月だったと思いますが、毎日新聞が巨大な「青いターバンの少女」の写真を使って
「幻の作家フェルメールの作品が5点も集まるめったにない機会」とこの展覧会を紹介しているのを見ても、
それほどの興味は持てませんでした。

正直、17世紀の(古臭い)美術ということで「それで?」とか「別に」という感覚だったのですが、
それでもあやしい少女の瞳がどうにも気にかかりました。
その後、やたらと繰り返される雑誌やテレビでのフェルメール特集や紹介を見る中で、
「せっかくだから一応見とかなきゃいけないかなぁ」という気にはなっていたのでした。

平日の朝一番と午後3時以降は比較的すいているという言葉を信じて天王寺駅を公園側に出ると、
そこはもうDEEP-OSAKAな世界で、人だかりは縁台将棋、遠くからは青空カラオケの声、
なぜか突然「早よせいや、早よ」とどなるマイクの声がしたりします。

そんな「現地の人々」の間を、明らかに「美術鑑賞」というスノッブな趣味を満足させようとする「よそいきの人たち」が行き交います。
フェルメールを見るために大阪までやってきた「旅行者」もいるようで、
有料になって妙に手入れの行き届いた花壇と塀で区切られた公園とその外側との落差に重なります。
平日のせいか、外側の風景になじむ美術学生の姿はあまりなく、
むしろノート片手の高校生が目につくあたりが「正統派」の展覧会ということなのでしょうか。
一応、午後3時ごろに到着した美術館正面は、新聞で報道されたような行列があるわけでもなく、
普通によく人のいる美術館という様相で安心したのでありました。

ところが、館内に入ると、まず驚かされるのが巨大な「ロッカー部屋」。
正面左手の展示室に囲まれるこの空間は(もう何年も行っていないのでうろ覚えですが)
以前に常設展示をしていたことがある部屋だったはずで、
ひょっと0すると、この展覧会のためだけに大量のコインロッカーとカサ立てが配置されたんじゃないかと邪推するだけでも、
「大型プロジェクト」というものを意識させられます。

さらに驚かされるのは、作品解説などの文章が写植シールで作られており、
しかも、パネルに貼るというのでもなく、直接壁面に貼り付けてあったことです。
ただでさえ、壁面の塗料と接着剤とは相性が悪い上に(たぶん、展覧会の後は文字の部分だけ変色しているんじゃないか)、
それも主だった絵画の全てについているという作業量を考えると、
「大型プロジェクト」というものの持っている力をなおさらに思い知らされます。

まぁ、全世界から作品を集めてくること自体にお金がかかっているような展覧会ですから
(たぶん数千万円とか億とかいう単位の事業です)、きっとトータルの予算からすれば微々たる額なのでしょう。
それでも、飾り付けすぎた下品な空間にならないのは、やはり大阪市立美術館の持っている伝統の力というべきなのかもしれません。

さて、展覧会本体ですが、英語タイトルは「The Public and the Private in the Age of Vermeer」となっています。
「フェルメール時代の公的絵画と私的絵画」といったところでしょうか。
実際、この展覧会は、中央部のフェルメールの部屋をはさんで、「公」の絵のコーナーと「私」の絵のコーナーに分かれています。
そして、その「公私」にわたる同時代の絵画をみつめる中で、この時代におけるフェルメールという画家が、
どれほど特異な、また突出した作家であったのかというものを改めて感じさせてくれたのでした。

43歳で没したフェルメールが作家活動を行っていたのは、1655-75のほぼ20年間になります。
同時に展示された約30点の作品は、1615年から1678年というほぼ同時代に、
それも彼が生涯のほとんど出ることのなかったと言われる都市、デルフトで描かれた作品が中心になっています。

この時代のオランダというと、カトリック教国のスペインからようやく独立したプロテスタントの共和国として、
都市とそれを支える市民というものが力を持つようになった国家でありました。
つまり、当時のオランダの画家にとって、絵を買ってくれるスポンサーとは、
王侯貴族ではなく、都市、そしてそこで暮らす富裕な商業者層であったということなのです。

「公的」な面からいきましょうか。
たとえば、「デルフトの眺望」という作品があります。
運河(というより堀に見える)と城壁に囲まれた都市・デルフトの全景が描かれています。
美術史的にいうと、こうした都市景観図は、
それまで歴史画や海洋画(って、何のことかわかっていない)の背景に描かれるのみであったとカタログには書いてあります。
この作品は、デルフト市に寄贈され(実は市の注文を受けて描かれたという説もあるようですが)、
長く市庁舎に飾られ、都市・デルフトの姿を誇示していました。

あるいは、当時、主だった都市におかれていた市警団の等身大の肖像画があります。
彼らは都市を防衛する存在として市民の尊敬を受けた(と自認していた)のであり、
こうした作品はその市警団の依頼により描かれ、その集会所に掲げられていました。

「教会内部図」というジャンルもあります。
あの天井の高い、広々とした空間を人々は歩き回り、あるいは友人と語り合い、また、一人休んだりしています。
そして、その壁面の一角や巨大な柱には、地元にゆかりの人物の墓碑があり、家族連れが眺めていたりします。

こうした作品は、一部は遺族の依頼により制作されましたが、多くは人の命のうつろいやすさを教訓的に描いたものだといいます。
より「私的」なものでは、花瓶にいけられた花の静物画があります。
高価であった生花のかわりに飾られたとも言いますが、
さりげなく横におかれた懐中時計が、花の美しさがすぐに去っていくことを教えているとされます。
食卓の上の豪華な料理を描いた作品、亡くなった提督の功績を描いた文書や遺品を並べた作品にも同じ意味が封じ込められています。
当時の富裕な市民たちは、そうした教訓を読み取るための道具として絵画 を手元に置いたということであるらしいのです。

「風俗画」と呼ばれる分野では、そうしたことがさらに顕著です。
「立ち聞き」という作品で描かれているのは、
パーティーが行われている家でメイドと客の一人が密かに話しているのを女主人が見つけるという図です。
女主人は「やれやれ」というか「仕方ないか」という表情とともに、今で言うカメラ目線を見る側にむけています。
そこには「怠慢なメイドには注意せよ」というメッセージがあります。

「医師の訪問」という作品は、女性を診断する医師と、もう医師を必要としないほどに元気を取戻した女性、
足元の手紙と戸口から覗き込む男性の姿を描いてい ます。
そして、この送られた手紙によって解決した恋煩いをめぐるドラマは、当時の医師の尊大さという文脈で理解されているのです。

そして、このような読み解かれる当時の絵画の背景には、
神という絶対的存在と現世での繁栄に価値を認める元祖「プロテスタンティズムの倫理」があるようで す。
そして、そのような制作にいたる背景を含めると、当時の絵画は、ただ作品としてあるのではなく、
何かの「ために」作られた職人技というようなものを感じざるをえない部分があるのでした。

そして、フェルメールです。
「リュートを調弦する女」は、(実は、私には現物はおろかカタログでも発見できていない)もう一つの楽器と女性の持つリュート、
この二つの楽器の共鳴と壁の地図から、外国に旅立った男性と心が響きあっている女性というメッセージを読み取る、とされています。
しかし、そんな図式的な解釈を超えた緊張感がこの作品全体をおおっています。
それは、よくできた「職人技」であったのかもしれませんが、当時の「読み取り方」を知らない後世の者にも訴えてくる強さを持っています。

それは、「最後の審判」を画中画にもつ「天秤を持つ女」でも同様です。
単なる肖像を超えて、聖母マリアを意識したのでは、とまで解釈される女性の姿は、
「節制と均衡のとれた判断を旨とする生活を送るべきである」というメッセージに押し込めてしまえるものではありません。
その力の違いは、同時に並べられた風俗画が「絵物語の挿し絵」に見えてくるようなと表現しましょうか。

まして、「青いターバンの少女」です。 漆黒の画面の中に浮かび上がった振り向く少女の姿に、寓意を探す余地などありません。
むしろ、「北のモナリザ」とも呼ばれるこの作品が、「注文を受けた商品」や「道徳訓のための道具」であったこの時代のこの場所で、
なぜ描くことができたのかさえ不思議であると感じられるほどです。

それほどにフェルメールは違っていました。
もちろん、いっしょにならんだ他の作家たちが特別劣った画家ではないでしょうし、
描写の細密さにはまさに「職人技」と思わせる作品もありました。
しかし、その職人技の弱さといいましょうか。
なぜかフェルメールが到達していた(かに見える)精神的な高みを感じられることはありませんでした。

そんなわけで、普通に人が多い美術館だった会場は、フェルメールの初期作品「聖プラクセディス」にはやはり人がかたまっていて、
その次のフェルメール作品4点が並べられた部屋となると、もう人の山。どの作品にも、三重、四重に人の列ができています。
正面に1点だけ置かれた「青いターバンの少女」の壁面は、人に埋まって何があるのかさえよくわからないほどです。

壁面に一番近い(しかし、絵からは一番遠い)列に並び、ときおり半歩ずつ移動する列に従ってフェルメール4点は鑑賞しました。
おかげで「ゆっくり」いろんな角度から見ることができました。4点とも意外なほど絵が小さく(「51cm*45cm」とか「39cm*35cm」とか)、
あの小さな画面によくこれだけの要素を凝縮したもの、とさらに感動が深まります。

おかげで、出口まで到達したころに4時30分になっていました。
閉館予告の案内が入る中を、もう一度フェルメールの部屋に戻ると、やはりずいぶん人が減っています。
全体をもう一度見渡しながら、今度は少しゆとりをもってフェルメールも見せてもらいました。

もともと寡作であり、現在残されている作品がわずか36点という作家であるにもかかわらず、
美術史上忘れることのできない作家となっているフェルメール。
この「謎の」といっていい作家の作品の一端を感じることができたのは貴重な時間でした。
でも、もうすこしゆったり見ることができた方がよかったのだけれど。
 


    Wikipedia「ヨハネス・フェルメール」ページ
    Wikipedia「フェルメールの作品」ページ

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