こんなにも個人的なのに、こんなにも楽しい

                               ―――「なにものかへのレクイエム」展を見る(2011.4.17)

「なにものかへのレクイエム」は、森村泰昌が2006年から断続的に発表している「20世紀の男たち」に
森村がなりきる写真や映像のシリーズです。
すでに発表されている第一章「烈火の季節」、第二章「荒ぶる神々の黄昏」に、
第三章「創造の劇場」、第四章「1945・戦場の頂上の旗」を加えた完全版が、
2010年から2011年にかけた4か所の美術館で公開されました。
兵庫県立美術館での展覧会は、その最後の巡回展にあたります。

もともと、名画の中にこっそり忍び込むことで売り出した森村ですが、「実在の人物になりきる」というコンセプトと言えば、
どうしても、もう一人の奇人にして才人、南伸坊のことを思い起こさざるをえません。
南伸坊の「本人術」は、衣装や小道具から表情のつくり方まで本人になりきろうとすると、
「ごく自然に自分の文章とは違う(本人が憑依した)文が書ける」というものでした。

森村も、この南の「本人術」に大いに触発されたところはあるようで、
2004年の「コピーの時代」展の講演会 でも、南の「本人の人々」をとりあげておりました。
とはいえ、「なりきった本人が憑依した文章」の方を作品にできる南と違って、
森村は「なりきった本人がいる画面」のみで表現しなければなりません。

森村も作品制作の過程でいろいろな発見があるのかもしれませんが、
そんな発見の部分も含めて、森村は画面の中で表現してしまわねばならないのです。
それゆえ、森村の「なりきり」は細部にまで精緻を極めています。

よく見れば同じ森村なのに、なぜかその作品の中では、それぞれの「20世紀の男たち」の姿に見えてしまいます。
そして、鑑賞者は、どんな仕掛けになっているのだろうと画面を凝視することで「何か」を発見します。
そんな手続きを踏むことによって、鑑賞者は森村が「なりきる」ために作った仕掛けを追体験をします。

それは、髪型や衣装、ポーズだけではありません。
森村作品においては、背景にある小道具や表情の作り方、周囲の人物の視線に至るまでが森村の計算のもとで配置されており、
より正確にいうならば綿密に計算して配置していなければ作品として成立しえないのです。

このあたりが、文章を使える南の「本人術」との違いでもあり、
同じように髪型、衣装、背景、表情を作り込んでいても、
「名画」という、すでに鑑賞の枠組みが完成している作品を再現してきた過去の森村作品とも違っているところなのです。

では、展覧会の各章ごとに、作品を見て行きましょう。


  第一章「烈火の季節」

森村は、三島由紀夫にずいぶん影響を受けていたと自認しています。
まだ10代の後半だった1970年の「三島事件」には、ことさらに強い衝撃を受けたことでしょう。
それゆえ、「20世紀の男たち」を描いた展覧会の冒頭に、三島事件を題材にしたというのもわかります。

しかし、「三島事件」は、その最後の演説があまりに政治的であったがために、
単に「その姿になりきる」だけでは誤解も生じるし、言い尽くせないものがあると感じたのでしょう。
南伸坊が本人が「憑依」した文章を残したように、
「三島になりきった森村」は1970年の三島に成り換わって演説し、その姿を映像に残します。

森村が演説するのは、現代の芸術の姿です。

 芸術もまたマスコミに踊らされ、流行現象の片棒をかつぎ、
 世界戦略とやらにうつつをぬかし、コマーシャリズムと売名行為、
 経済効果が価値とばかり、精神的にからっぽに陥っている。

その演説は、ホンモノのの三島のように熱く激しいものがあるのですが、どこか上滑りしているようにも見えます。
それどころか、最後にカメラが「森村演ずる偽・三島」の後ろに回り込むと、
彼の前には聴衆どころか立ち止まる人の姿さえなく、目の前に広がるのは人々が行き来する静かな公園の風景なのでした。 
あれほど、偽・三島は「静聴せよ」と叫んでいたのに。

それは、結局、誰も行動をともにしなかった、あの日のホンモノの三島の置かれている状況に似ています。
森村は、人は時に三島のように演説をしたくなるときがあるということを、
三島を通じて「演じて見せた/演じてみたくなった」のでしょう。
もちろん、誰も行動を共にしないであろうことも含めて。

そして、そんな自分の中の「三島的な思い」を形にすることによって三島に寄り添い、
当時の「三島から受け取った思い」に自分なりの答えを返そうとしているのであり、
それゆえにこそ、この連作の副題には、「レクイエム」という名称が使われているのです。

第一部の「烈火の季節」には、三島事件の映像のほかに、
その気味悪い肉体美までも再現した三島由紀夫の写真集「薔薇刑」の連作、
右翼少年による 浅沼稲次郎社会党委員長刺殺事件(1) ケネディ暗殺事件の犯人とされたリー・オズワルドの暗殺事件
「サイゴンでの処刑」で知られる南ベトナム警察長官によるベトコン兵士の射殺がとりあげられています。

これらは、いずれも1960年代におこった出来事であり、その年代は、そのままに森村泰昌の10代と重なります。
しかも、「薔薇刑」を除けば、時代を象徴する政治的な意図を持った殺人事件であることを考えると、
多感な10代の森村が、(「薔薇刑」の出版も含めた)これらの事件に、強い衝撃を受けたことは十分に想像できることです。

さらに、これらの事件が、森村にどれほど身近なものと感じていたかは、
「サイゴンでの処刑」の背景に、1968年のサイゴンの街並みのかわりに、
関西人なら誰でも知ってる心斎橋の大丸百貨店前が選ばれていることでもわかります。
つまり、大阪生まれの森村にとって、
あのベトコンの兵士は、森村が歩いていけるような場所で殺されたも同然だったということなのです。

「烈火の季節」とは、世界が激しく怒りに満ちあふれた10年であるとともに、
森村泰昌の怒りに満ちあふれたであろう10代をも意味しているのです。


  第二章「荒ぶる神々の黄昏」

第二章では、さらに広い時代の世界の偉人たちがとりあげられます。
キューバ革命のヒーロー、チェ・ゲバラ、相対性理論で知られる物理学者・アルベルト・アインシュタイン、
ロシア革命の立役者であるが追放され暗殺されたレフ・トロツキー、そして、中国革命から文化大革命までも指導した毛沢東。
このうち、 ゲバラ アインシュタイン 毛沢東については、良く知られている写真を下敷きにしており、
まるで肖像画のように仕上げられています。

作品タイトルも、「遠い夢」(ゲバラ)、「宙の夢」(アインシュタイン)、「赤い夢」(毛沢東)と共通して「夢」という言葉を使っています。
それは、彼らが20世紀において何らかの大きな夢を見続けてきた人々であり、
アインシュタインを含めて、その夢を成し遂げた「革命家」であると言えそうです。

異色なのは、トロツキーがとりあげられていることで、
タイトルの「レフの星雲」を見ても、私には誰の肖像なのかわかりませんでした。
しかも、このタイトルは、「1932.11.27」という具体的な日付が入っています。
調べると、この日、トロツキーはコペンハーゲンで演説を行っています。
しかも、その姿を密かに撮影することに成功したのが若き日のキャパで、
キャパの出世作となったこの日のトロツキーの姿が、森村の手本となっています。

キャパの作品があったからこそ、「この日」になったのかもしれませんが、
すでにソ連から追放されているトロツキーの姿を、他の偉人たちと並ばせるあたりに、森村の特別な思いが感じられます。

この章には、二つの映像作品があります。
一つは 「ヒトラーを演ずるチャップリン」に、もう一つは 「演説するレーニン」になりきります。

ヒトラーには「独裁者を笑え」というサブタイトルがつけられ、
チャップリンがダブルクロスを用いた帽章のハーケン・クロイツの位置に、森村は「笑」という漢字を使用しています。

映像には、二人の「独裁者」の顔が大写しになっており、
一人は「笑」の帽子をかぷり、表情も険しくドイツ語のようで実は違う「罵倒の言葉」を吐き続けています。
もう一人は、帽子をとった姿で温和な表情で、快適な暮らしをしている私たちの人生が、
「自分がよければそれでいいという独裁者の人生に限りなく似てはいないか?」と問いかけます。
それは、チャップリンの映画「独裁者」のヒンケルとチャーリーにも、
実在のヒトラーとチャップリン演ずる独裁者との対比にも通じるようにも見えます。

しかし、映像の最後になって、森村の仕掛けが明らかになります。
実は、対称的な二本の映像と見えたものは、一本の映像の前半と後半であり、
一方の映像が終了すると同時にもう一方の映像が始まり、左右が入れ替わったままエンドレスで二人の映像が続いていくのです。
つまり、罵倒する独裁者と「独裁者にはなりたくない」と語る善良な男は一人の人間の別の側面にすぎないのであり、
人は与えられた場所によって、どんなものにでもなりうると言うことを描いていたのです。

マリリン・モンローからセザンヌの静物画のオレンジにまでなって見せたのですから、
人が「どんなものにでもなりうる」という立場は、森村にしてみれば当たり前すぎることなのかもしれません。
そして、あの「善良な男」でさえ「恐ろしい独裁者」に変貌することを踏まえるなら、
あの独裁者がもともと何を夢見ていた人物だったのかが気になってきます。
彼もまた、世界から憎まれる独裁者になりたくて生きてきたわけではないのだろうから。

もう一つのレーニンの映像は、10月革命時のペトログラード演説を下敷きにしています。
今も日雇い労働者の町である大阪・あいりん地区に演台を作り、実際に、今もそこで生活している労働者たちを前にして、
森村・レーニンは、演説の冒頭、振り絞るような声で叫びます。

 人間は悲しいくらいにむなしい

レーニンが1920年に世界で初めて社会主義革命に成功したことは言うまでもありません。
しかし、彼が成立させたソビエト連邦は、90年後の今、この世界には存在せず、
彼が夢見たはずの労働者が幸せになる世界は、ついにやってきませんでした。
「森村・レーニン」は、その後も何をやっても「人間はむなしい」というようなことを繰り返しながら、
やがて演説原稿を破り捨て、あたりに撒き散らし始めます。いつのまにか、労働者たちは、静かに彼の周囲から立ち去っていきます。

はたして、21世紀の今、レーニンが日本の労働者の姿を目の当たりにして、どんな言葉を発することができるでしょうか。
まさか、今さら「社会主義革命」の大義を声高に言うわけにもいかないでしょうし、
実はロシア革命を誰かが歪めたのだというような釈明しても意味はありますまい。
とはいえ、あの時代のあの場所でレーニンが社会主義革命を志し、
あの演説をしたたことに対して、誰もけっして誤りと決めつけることはできないはずです。
たとえ、当の本人が、その後に「人間は悲しいくらいにむなしい」と叫びたいような気持ちになるような結末に至ったとしても。
 
そして、その想いは、けっしてレーニンだけのものというではなく、
ゲバラもアインシュタインもトロツキーも毛沢東もヒトラーも、あるいはチャップリンも含む、
どこかにいるはずの「荒ぶる神々」たちに巻き込まれるとともに多くの人を巻き込んだ夢の残骸を見るなら、
そこには「悲しいほどにむなしい」としか表現できないような「人間の黄昏」を感じさせてくれるのでした。


  第三章「創造の劇場」

続く第三章は、アートの世界の人々です。

20世紀を代表する美の巨人「ピカソ」、エコール・ド・パリの日本人「藤田嗣治」、マンガの神様「手塚治虫」、
モンタージュ理論の映画監督「エイゼンシュテイン」、アクションペインティングの「ポロック」、
ポップアートの奇人「ウォーホル」、レディメイドの才人「デュシャン」、モノクロームとパフォーマンスの「イヴ・クライン」、
不思議系の怪人「ダリ」理論系の重鎮「ボイス」。
もう、まさに現代美術の教科書のような人々が並びます。

「○○○としての私」という淡白なタイトルからも、
「その人と同化すること」に高い価値を見出しているかのような、森村の素直なリスペクトが感じられます。

ちなみに、ピカソは 「ビカソのパン」という名で知られている写真を再現しており、
手がパンに置き換わっているのは「お手本」からの趣向です。
森村作品の食卓の上には、画集のゲルニカが広げられ、皿の代わりにゲルニカの中の人の顔が置かれ、燭台もピカソ風です。

藤田嗣治は、 中山岩太によるポートレイトから来ているのですが、背景になっている裸婦像も森村が再現しています。
手塚治虫の元ネタは発見できませんでしたが、鉄腕アトムを描く森村・手塚の後ろには、16mmの映写機が置かれ、
かたわらに置かれた雑誌には、大きく「理想」と書いてあります。

砂糖で作られたドクロを持つエイゼンシュテインも実際にある写真で、
この砂糖菓子は「メキシコ万歳」という映画で使われたもののようです。
ポロックの制作風景 もよく見ます。森村・ポロックの背景に置かれたのは森村自身の昔の作品だそうで、
その作品を見る限り、若いころの森村はポロックさながらの濃密さで画面を埋め尽くしていました。

ウォーホール作品は動画なので元ネタは発見できなかったのですが、
撮影するウォーホールと撮影される女性モデルの動きを再現しているので、
その時に撮影したであろう写真は手本としてあるのかもしれません。

デュシャンは、実際に、自作 「大ガラス」の前で裸女とチェスに興じるというパフォーマンスをしています。
もちろん裸女も森村が演じます。

クラインについては、 「空虚への跳躍」という写真作品を再現しています。
もとになった作品は、2階の窓からから街に飛び出すクライン自身を写したもので、
この作品を撮影した際にクラインが大けがをしたとも、実は合成写真だとも言われています。

ダリも動画で、例のヒゲが画面いっぱいに広がるような超アップで撮影されており、
目をギョロリと動かすあたりは、いかにもダリでした。

ボイスはの元ネタ写真は発見できませんでしたが、大量の文字を書いた黒板を背景にした講演の場面を撮った写真はあるので、
きっと捜せば、手本となる写真があるのでしょう。

また、個々の作品をじっくり見て行くと、元ネタとなる写真を再生する過程で、
背景に置かれている小道具やモデルとなった作家の描かれ方の中に、
森村がその作家から何を得たのか、どんな影響を受けたのかが見てとれるようにも思います。

わかりやすいのは、手塚治虫の片割れにおかれた「希望」という名の架空の雑誌で、
この一枚の写真からは、手塚治虫が「希望」というテーマを持ち続けた作家であるとともに、
その思いを森村泰昌がしっかりと受け取っていることを示しているのです。


  第四章「1945・戦場の頂上の旗」

この第四章のタイトルは、「1945年」をテーマにした数点の写真と、
展覧会を代表する23分の映像作品「海の幸・戦場の頂上の旗」を受けているものです。

「思わぬ来客/1945年日本」は、マッカーサーと昭和天皇が横に並び、正面を向いている写真を再現しています。
大きなアメリカ軍人の横で、神であったはずの昭和天皇が小さく写され、
当時の日本人が大きな衝撃を受けたと言われている有名な写真です。

森村作品では背景に茶箱がずいぶん並んでいたのですが、撮影場所である御茶屋は森村の実家だと言います。
古風な日本の商家に、礼服姿の天皇が意外と似合っているのに対して、軍服姿のマッカーサーは何とも場違いな感じがします。
日本の戦後が文化のアメリカ化とともにあったことをふまえると、
アメリカ文化という「思わぬ来客」が占領下の日本を席巻し、森村家もまた、その例外ではなかったのだということを感じさせます。

「記憶のパレード/1945年アメリカ」は、
「勝者のキス」として知られている戦勝国アメリカの水兵が看護婦とキスをしている写真を再現します。
しかし、この作品には皮肉な仕掛けが施してあり、森村が扮する別の水兵は、
「DEC.8.1941」「AUG.6.1945」「AUG.9.1945」と書かれたプラカードを持っており、床に散った紙には 「SEP.11.2001」とあります。
1941年12月8日はともかく、1945年8月5日、1945年8月9日には、「勝者のキス」が何によってもたらされたかを示しており、
1945年から始まるアメリカ中心主義的な世界が行き着いた場所が2001年9月11日なのではないかと暗示しているようです。

「傍観者は捻れた髪の毛を戻せない/1945年ドイツ」は知らなかった写真なのですが、
調べると ブレッソンが撮った強制収容所からの解放時の写真でした。
写真中央の女性は収容者の一人で、自分を密告した女性を糾弾しています。
森村が言う「傍観者」とは、時代に流されるままナチスに協力した密告者のことを指しているのでしょうか。
「捻れた髪の毛を戻せない」という言葉からは、ナチスの犯罪対する森村の強い憤りが感じられます。
ちなみに、周辺にいる人たちを演ずるのは、実は学芸員などの美術関係者であるそうです。

もう一枚、ファシズムからアメリカへという時代の流れに一石を投じるように、
「光と地の間を紡ぐ人・1946年インド」という作品があります。
そこに は、半裸で糸車の前で座る「森村・ガンジー」の姿がありました。
下敷きとなった写真はこれ。 植民地の独立。それもまた、1945年以降の出来事です。

そして、展覧会を最後を飾るのが、「海の幸・戦場の頂上の旗」。23分にも及ぶ長大な映像作品です。
冒頭、マリリン・モンローに扮した森村が舞台上でピアノを弾いています。
楽屋に戻った森村がモンローの扮装をとると、画面は一転して兵士の格好をした森村が砂浜で自転車を押しているシーンに変わります。
いかにも使いこんだ風だが頑丈な自転車の荷台には、カンバスやイーゼル、T型定規、図面ケースなど、
いかにも画学生が持ちそうなものがくくりつけられています。
アコーディオンやヒマワリの花などは、静物画の題材に使うのでしょうか。

力尽きて倒れた「兵士」が夢でも見ているかのように古い映像が挿入され、森村の実家であるお茶屋が正面から写されます。
森村の父親らしい人物が押しているのは、「兵士」が押すのと同じ自転車です。

やがて気がついた「兵士」の目の前には、「マリリン・モンロー」が立っています。
モンローは、はらりと白いドレス脱ぎ捨てると消え去り、残された白いドレスは見る見るうちに真っ赤に染まっていきます。
「兵士」は、赤く染まったドレスを海の水で洗い、真っ白な布を手に入れます。
そこに、アメリカ兵らしい「敵兵」が数名登場すると、「兵士」はモンローが残した白い布をかざし投降します。
自転車にくくりつけられた道具類は、戦利品として奪われますが、
戦利品をぶら下げた長い棒をかつぐ兵士たちは、まるで 青木繁の「海の幸」のようです。

この展覧会で発表されている「何ものかへのレクイエム」と題された作品群は、
いずれも、森村泰昌の個人的な体験を背景にしながら、
戦後の世界、それもアメリカが政治的に世界をリードするようになり、
文化的にも日本にも大きく影響するようになった時代をテーマにしています。

そのことを踏まえるならば、冒頭のマリリン・モンローに扮する森村泰昌は、
アメリカ文化という衣装をまとった現代の日本人を象徴しているようです。
対する自転車を押す兵士は、森村の父親世代の日本人でしょうか。
砂に足をとられながら、必死で古い自転車を押していたかつての日本人は、
確かに戦後のある時期、マリリンモンローに象徴されるようなまばゆいばかりに輝き豊かさにあふれたアメリカ文化に、
驚き、圧倒され、やがて受容していったのでした。
脱ぎ捨てられたモンローのドレスを拾い上げた、あの「兵士」のように。

白いドレスが徐々に赤く染まっていく様子は、一瞬、日の丸のようにも見えましたが、
赤い色で覆い尽くされていくにつれて、血塗られた過去の歴史のようにも見えてきました。
「兵士」は、その因縁のような赤い色を洗い流し「白い布」を自分のものとしたのでした。

敵兵との遭遇から「海の幸」にかけての場面については、
図録にあった学芸員の解説では荷台に乗せていた芸術に関する品々を介してアメリカ兵らと和解するとしていますが、
私には戦利品を奪われたとしか読み取れませんでした。
常に、森村がいろいろな役で登場するため、「物語」を追うことは困難ですが、
この展覧会の森村の視点を見る限り、古い日本人を象徴する「兵士」がアメリカと「和解する」とは思えないのでした。

さて、最後に、兵士たちは小高い丘の上に進み、一本の旗を立てます。
それは、 第二次世界大戦末のアメリカ軍による硫黄島占領を記録した「硫黄島の星条旗掲揚」が下敷きになっています。
森村が選んだのは、あの「白い布」でした。次の言葉から始まる、英語による森村のコメントが流れます。

 私達は、戦場の頂上に旗を掲げます
 意気揚々たる、勝ち誇る旗ではありません

 一枚の薄っぺらな画用紙
 平々凡々たるカンバス
 私の旗は
 白い旗です

確かに、戦争の場面では降伏を表す「白い旗」ですが、
薄っぺらな画用紙も平凡なカンバスも、芸術の場面では創造に向かう出発点を象徴するものでもあります。

この旗を掲げたのは誰なのか、「兵士」とアメリカ兵の関係は、と問われると、
「和解した」ということにした方が考えやすいのでしょうが、
戦争の場面では白い旗を掲げて降伏した「兵士」が今度は、
芸術の場面で創造への意気込みを宣言しつつ、改めて「白い旗」を掲揚したと解釈したいと思います。

気がつくと、ずっと背景に流れていたピアノ曲を演奏するシーンに戻っており、
しかも、その演奏者は、あの「兵士」になっています。

「モンロー」であったはずの演奏者が、実は「兵士」でもあった。
このことは、その「兵士」がアメリカと戦争をしたかつての日本人ではなく、
戦後のアメリカ文化の象徴である「モンロー」と出会い、
芸術の旗としての「白い旗」を掲げた戦後の日本人としての兵士なのであることを表しているようです。
そして、それは、モンローにも扮し、兵士にも扮する森村自身のことなのである、と。

それにしても、こんなにも個人的でありながら、こんなにも楽しませてくれる展覧会は、いつ以来でしょうか。
それは、森村泰昌が人としても十分に魅力的であり、かつ、芸術家としても素晴らしいということに尽きることによるでしょう。 すごい展覧会をやってくれたものだと思います。
 森村泰昌さん、ありがとうございました。そんなことを言いたいような気分になった展覧会でした。


 (1) 以下のリンク先は、森村泰昌の作品ではなく、その手本となったと思われる20世紀の男たちの写真である。 


     兵庫県立美術館サイト内「なにものかへのレクイエム」展ページ     
     森村泰昌公式サイト
 
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