暁とは夜深い刻限をさす。
もしくは待ち望んでいたことが実現する、その際を示す言葉だ。


『 夜 の 暁 』


 大きな邸宅の窓際に立ち、青年は空を眺めていた。
 歳の頃は二十代半ばの、線の細い青年である。淡い金髪は首元にかかる長さで、フレーム無しの眼鏡の奥は薄い水色の瞳をしている。その表情は落ち着いてはいるが、厭世的ともいえる陰りが窺える。全てに倦んでいるような、過去を懐かしんでいるような、静かな眼差し。
 昼過ぎから住み慣れた部屋の窓辺に立っていた青年は、午後から夜へと移ろう陽射しをじっと見つめていた。抜けるような青からわずかに赤味を帯び始め、青紫に暮れなずんでいく空の色。
 幼い頃から、何度独りで夕陽を見つめただろうか。
 夜になると密やかに華やかさを増す邸宅にあって、陽射しが眩しい時刻は休息の時だ。同時に常に襲撃を警戒して、緊張を孕む時間でもあった。保護者たる彼らと生きる闇の刻を愛してはいる。だけど目映く美しく色付く世界をも愛している。
 そして今日のこの空は、彼が受ける生涯で最後の光――最期の残照。
 陽の光が失われて夜の闇が眼を覚ませば、今宵限りに彼は闇の眷属となる。明日の朝に太陽が輝く時刻には、陽を恐れて身を潜めねばならない。移り変わる空の色を楽しむ日は、二度とやって来ない。
 名残を惜しむように、藍色に変わり始めた空を見上げる青年は、口元に笑みを浮かべた。
 すがしく晴れた今日の空は、最期に見る光としては悪くなかった。喪失を受け入れたものへと、それでも愛惜の念を覚えて眼を細める。
 今なら未だ抗うことも出来る。逃亡は許されぬだろうが、人間のままであろうと望むのならば足掻く機会はあった。例えすぐさま死に捕えられるとしても、呪われた生からは逃れられたはずだ。決して闇を渇望する訳ではない。それでも自分を此処に留まらせているものは何なのか。
 不意に激しく風が激しく吹き付け、不意に傍の窓枠を揺らす。微かに眼を見開いた姿は、端からは突風に驚いたとしか思えなかっただろう。だが青年の心を動かしたのは、風に乗せられた精霊の囁きだった。もしくは呼び覚まされた記憶の内の死霊の叫び。闇を畏れる者、闇に消えた者、今まさに闇に飲まれ行く者達の泣く声。
 青年を闇に導くきっかけとなったもの。
 幼きより傍らに在り、この先もすぐ隣に在り続けるもの。
 他の誰にも――闇の者達であってさえも気付かぬ、嘆きの言葉。
 彼らは行くなと囁いているように思えたが、その忠告に従うつもりは無かった。もはや、己の前に敷かれた道はひとつしかない。瞬き始めた星の数が両手で足りぬほどになると、青年はゆっくりとカーテンを閉める。『父』を待たす訳にはいかない。
 閉ざされた窓の向こうに、これまで生きてきた全てを隠して――青年は闇に沈む部屋から、明かりの灯る廊下へと歩みを進める。
 窓を叩く風の音は、未だ止む気配もない。
 それでも彼は、再び振り返ることはしなかった。