行きて、還りしもの
娘は必死に森の中を走っていた。
藪を掻き分け、木の根に蹴躓きながらも後ろを確かめ、這うように逃げ惑う。
背後からは、聞き苦しい罵声が絶えることなく響いてくる。彼女を追い詰める存在が、 すぐ近くにまで迫っているのだ。
茶褐色の長い髪を、緩く編んで背中に垂らした可愛らしい顔は、今は恐怖に歪んでいる。
薬草を採るため入った森の奥で数人の男達に囲まれた時、無力な娘は迷う危険を承知で、 深い森の奥へ逃げるしか手がなかった。けれど、それで男達が見逃してくれるはずもない。 終わりの見えない追いかけっこは、どれだけ続いたことだろう。
伸びた手に長い髪を鷲掴みにされ、救いを求めて叫び声を上げる。怖気の走るその感覚 は、しかし男の悲鳴と共に唐突に消失した。
「うわああああっ」
「何だ、この火は……っ!?」
手繰り寄せた髪を捕らえていた男に向かって、小さな火の玉が飛来する。
言うまでも無く、偶然起こるような現象ではない。自然発火が乱暴な男の顔にぶつかる 確率など、天文学的な低さだ。まるで手品か……魔法のような。仕掛けのわからぬ手妻に、 全員が色めきたった。助かった娘も、怯えたように周囲を見回す。
人間にとって、魔法とは遠い昔に失われた技術だ。天空にある浮島に棲む有翼人種だけ が、今でもその術を伝えるというが、実際にそれを見る機会など無いに等しい。誰もが息 を潜めて、『それ』を成した者を探る中、木陰から現れたのは、二十歳前後の若者だった。
「――やれやれ。どうやら手違いがあったらしいな」
溜め息を洩らしながらぼやくのは、肩に朱金の小鳥を乗せた青年だ。見慣れぬ服装だが、 容姿には何の変哲も無い。その背に翼は見えず、男達は外れた予想に安堵する。
むしろ着目すべきは肩の小鳥の方だろう。きらきらしいその色彩は美しく珍しく、高値 がつくのは間違いない。一部のぎらつく注視を知ってか知らずか、小鳥は青年に促されて 飛び立つと、近くの樹上に居場所を移す。彼の邪魔にならぬようにと。
初めから、部外者としてやり過ごす気はなかったらしい。髪を焦がした男を見ると、感 心しきりに何度も頷く。
「やっぱ、飛び道具としては便利なもんだな」
「てめえ……あの炎は、てめえがやったんだな!?」
「いったい何をしやがった」
直接被害を被った男は無言で後退るも、他の連中はいきり立って青年に噛み付く、が。
「――かえって来るなり、これか。こういう連中は、何処にでもいるよなあ」
当の青年は呆れるほど平然として、自信があるのか、愚かなだけか判然としない。
何処から来たのか、まとう異国風の衣装は布をたっぷりと使って手足を覆っており、動 きに障りありそうな代物だ。身体の線を隠す上着は光沢のある黒色で、糸を交差して織り 上げることで、地紋を描きだす上質の生地。その下には純白の衣を重ね着ており、首元か ら合わさった襟が覗いていた。
襟足で揃えられた、短くも柔らかそうな髪は鮮やかな金。楽しげな感情を窺わせる瞳は、 夜空の藍。顔立ちや人種こそ、娘や襲撃者と似通っているが、その衣装を生み出した文化 は明らかに異郷のものだ。
見る者が見ればその装束は、大国迦南の直属機関に属する者が、揃いで身に着けるもの とわかっただろう。理解できれば即刻逃げ出すほどの、類推できる彼の優秀さも。しかし それがわかる者は、この場にいない。
腰に巻かれた皮の剣帯と、そこから下がる長剣だけが、この地方でも一般的に使われる 品と同種の形状だ。反りの無い両刃の刃は丁寧に磨かれている。使い込まれたそれらは、 奇妙に異国の衣に調和していた。
「……ふざけやがって」
「いい度胸じゃねえかよお」
男達の反応がやや遅れたのは、青年の風変わりな格好より、あまりに堂々とした態度が 原因だ。それでも、相手が一人きりと知り、新たな獲物の登場に舌なめずりを始める。恐 れを知らぬ物言いも、勇気と無謀の区別がつかぬ愚挙としか映らない。訳のわからぬ姑息 な細工は、不意を討たれて驚いたものの、実害は無いに等しい。
「――なめてんじゃねえぞ」
「やっちまえ!」
多少妖しげな手品が得意だろうと、相手は優男がひとりきり。数に頼んで、一斉にかか った男達は、手痛い勉強をするはめになった。
線が細く甘い容貌の青年は、その印象とは裏腹に歴戦の巧者だった。
動きにくい格好をものともせず、その身がしなやかに動く度に、声も無く地に伏す人影 が量産される。彼の武器は、いまだ鞘に収まったままだというのに。死者が出ないのは幸 いだが、屈辱的ともいえる。手足に纏わり附く衣装をハンデとしても、なお技量の差は圧 倒的なのだ。
まるで舞の如く優雅に裳裾が翻り、後には地に倒れ付す男達が残される。
群がってきた大半を薙ぎ払うと、動けず凍り付いていた残りにちろりと視線を向けた。
「まったく……目障りだな」
呟きは酷薄な響きを宿し、瞳には怜悧な光がきらめく。ただしそんな顔を見せたのは、 ほんの一瞬だけだ。注意深く隠している本質を、彼は素早く取り繕ってみせた。誰よりも その存在を忌避する、己自身の意志によって。
「……そうだ、お前らに面白い手品をみせてやろう」
何を思いついたのか、にっこりと笑うと懐に手を突っ込む。再びその手が表に現れたと き、指先には薄っぺらな紙切れが挟まれていた。
「へっ。そんな紙切れで何が出来るってんだ」
「うんうん。俺も昔はそう思ったよ」
小憎らしい表情は、嫌味でしかない。何かたくらんでいるのを察して、とっくに腰が引 けた男達は、虚勢を張りつつじりじりと後ろに下がった。
さすがに彼らも、自分達が手に余る相手に喧嘩を売ってしまった事実を認識していた。
その口から聞き覚えの無い言葉が零れ出すと、うろたえて忙しなく視線を交わす。そこで 逃げ出さぬ辺りが、彼等の最も愚かな点だ。引き際を悟れぬ者は、早死にするしかない。
『――流韻!』
唐突な警告の悲鳴は、離れた樹上に退避していた鳥から放たれた。ほぼ同時に、青年の 姿勢が大きく崩れる。
倒れ伏していた男のひとりが、必死に青年の足を掴んだのだ。更には靡いた長い袖を握 りしめ、自由を封じる。動きを捕られてよろめいた青年は、驚いた顔をしながらも、面白 がる色も浮かべた。無駄とわかっても努力を重ねる、幼い子供を見る眼差しで。馬鹿な子 ほど可愛いとでも言いたげに。
しかしその表情を認識したのは、足元にいたひとりだけ。他の男はこれを最後の好機と して、必死の形相で殺到する。迫る抜き身の刃を見ながら、青年は冷静に迎撃を計るが、 体勢が酷く悪い。懐に忍ばせた腕が動いているのを見逃した多くの者は、次の瞬間その胸 に刃が埋まると、思った。
『だめ――っ!』
事態の推移を静観していた小鳥が、幼児のような甲高い声を上げる。意味のわからぬ異 国のものだが、そこに確かに宿る知性を感じて、同じく傍観者に徹していた娘だけが目を 丸くして驚く。
同行者の窮状を見た小鳥は、我が身に構わず剣を振りかざす男へと突っ込んだ。小さな 体躯での無謀な体当たりは、意外なほどの効果を表し、男は悲鳴を上げて尻餅をつく。 よく見れば、いつのまにか小鳥は黄金に輝く炎をまとっている。平凡な生物にはありえ ざる現象ながら、実在するそれは普通の火よりも遥かな高温で、男の肌を焼いていた。
『だめだったら! 流韻からはなれてっ!!』
「なんだコイツはあああっ!?」
口を利いたことにか、鳥が燃えていることにか。
恐怖に引きつりながら振り回される剣を、小鳥はわたわたと必死に避ける。混乱した男 は青年に無防備に背を向けているのも気付かず、恐慌状態でひたすら鳥を追った。
「下がれ、アグニ!」
小さく舌打ちした青年が、指示と共に抜剣する。それまでの体捌きとは一線を隔した動 きからは、彼の本気と底知れなさが窺える。
切りつける様な指示に応じるや否や、それまで小鳥がいた場所へと、剣が叩きつけられ る。神速の一閃は、小鳥を襲う脅威を一瞬で取り除き、残されていた者達の意識をも、次 々に断ち切っていく。それでも命は奪わぬままに、最後の男まで順調にお休みさせても、 彼は息ひとつ乱してはいなかった。
『りゅーいん、へーき?』
『大丈夫だ。おまえこそ、怪我はないな』
ばさばさと鳥がじゃれ付いてくるのに応え、左肩に落ち着かせる。不思議なことに、ち ろちろと燃え続ける尾羽の火に晒されても、衣が燃える様子はない。なんらかの耐火の策 が施してあるのだろう。
聞き慣れぬ言葉を操った青年は、倒れた男達を見て、にまりと性質の良くない笑みを浮 かべた。即座に戦いの余韻を振り切り、次の段階に移る。
「ちょっと待ってくれ。折角だから、調達したいものがある」
さっさと剣を鞘に収めた青年には、どこかへらへらとした楽しげな表情が浮かんでいた。
先程一瞬だけ見せた、鋭い眼光が嘘のように。嫌な予感に小鳥は思わず沈黙する。彼の次 なる行動が、碌でもないと確信できるくらいには、ひとりと一羽の付き合いは長い。
「ああ、これこれ。帰って来たって気がするよなあ」
倒れ伏す男の胸元を探り、取り出したのはケースに入った紙煙草だ。
慣れた仕草で肩に止まる鳥から火をもらうと、ふうっとばかりに煙を吐き出す。それは 彼にとって、久方ぶりの味だった。
「この毒っぽい、体温の下がる感覚がイイんだよな〜」
いや、それは駄目なとこだろうとか。
素朴に突っ込むような人物は、残念ながらここにはいなかった。
何か言いたげだった小鳥も、にっこりと微笑みかけられて、沈黙する。
ひとしきり喫煙のヨロコビを満喫すると、ついでとばかりに盗賊から当座の必需品を奪 い取る。どう考えても、襲われたのを幸いと、追剥ぎ返しているとしか思えない。
煙草や財布を手始めに、マントや短剣、携帯食料などを懐にしまい込むと、助けられた ものの、礼を言い出せずに茫然としていた娘に向き直る。
「あ、あの……助けて頂いて、ありがとうございました」
格好良い青年にあわやというところで助けられ、娘は心から感謝していた。この際、奇 妙なあれこれには、眼を瞑ることにする。
おずおずと礼を述べる娘に、青年はにっこりと笑ってみせる。
「危なかったね。怪我はないかい?」
「はい! ……あの、よろしければお名前を教えていただけませんか?」
優しげな微笑に力づけられ、娘ははにかみながら恩人の名を尋ねた。その問いに、ほん の少し青年がためらったのには気付かない。
「――流韻、だ」
「リューインさん、ですか……」
鸚鵡返しに音を呟く娘は、微妙な違いを区別できなかった。青年もあえて発音を正しは しない。むしろ誤解を好むかのように。
「お嬢さん、ちょっと聞きたいんだけど。どうやら道に迷ってしまったみたいなんだが、 ここはどの辺りで、ついでに今は何年の何時だったかなあ?」
にっこりと向けられた天真爛漫なホホエミは、純粋無垢な子供のようで。
とても強盗傷害直後とは思えない。
うら若き乙女は頬を染めさえして、青年の問い掛けに答えた。
何故そんな、誰もが知る事柄を聞くのかと、疑問を感じることもなしに――
《終》