『月が輝く静かな夜に』


 まだ、すべては見えてきてはいない。
 まだ、何かが終わってしまった訳ではない。
 それでも自分の知らないところで、時間はたゆまなく進み続けている。
 自分の手の届かないところで、変わっていく様々なものがある。
 そのことが恐ろしく、悔しく思えてならない――


◆   ◆   ◆


 寝台に入ったものの寝付くことが出来ず、シェルレはもぞもぞ動き続けていた。
 月の光が鎧戸を閉めた窓の隙間から射し込んでくるのを、ぼんやりと見つめる。
 今宵も空には赤の月が輝いており、シェルレを導くタマット神は、閃きという恩寵を与えてくれているはずだった。しかしシェルレは、己は真理を直観出来ていないと感じる。
 知らないこと。知りたいこと。知らなくてはならないこと。
 それらの謎を解く鍵が足りない。
 気になることは幾つかあるけど、それらの疑問は全てひとつに集約される。
 よく知っている――よく知っていたはずの男は、何をするつもりなのだろうか。
 曲者だとは思っていたけど、極悪人と明言していたけれど、外道とまでは思っていなかった男が、予想通りとんでもない騒ぎを起こすつもりなのか確認しなくてはならない。
 ――そして、選ばなければならないのだ。
 多くの人々を敵に回すことがあっても彼と同じ道を行くのか。多くの人々を傷つけることになっても彼と共に行くのか。それとも、この街で得た新しい仲間と共に、彼の野望を阻む道を選ぶのかを。
 まだ真相は何もわからないに等しくても、嫌な予感がしてならないから。
 旅立ちの前のゆっくり休べきむべき夜だというのに、眠れそうになかった。
 ――いつの頃からか、寝台に連れ込まれる仲になっていた。
 始めはいつも怒って嫌がっているものの、最後には懐柔されてしまう。
 照れくさかったから文句ばかり言っていたけれど、コトの終わりに触れ合う素肌の感触が、とても好きだった。
 重さなんて気にしてやらずに、男の上に乗っかって、うっとりと目を閉じる。
 触れ合う場所から伝わる暖かな熱が、溶けてひとつになったような錯覚を与えてくれて。
 優しい動きで男の手に髪を梳かれると、眠くなってきてしまう。
 ふわふわした淡い金色の奔流がお気に入りだったのか、彼はよく好んで長い髪を弄んでいたような気がする。
 気持ちよくて、されるがままになるシェルレに、男は何度もくちづけてくる。おとなしく触れることを許すと確認して、その手は更に下の方で再び動き始めて。その意味に気付いても、あえて止めようとは思わなかった。
 口では嫌だと言っていても、心の底では自分でも触れ合うことを望んでいるという自覚があったからだ。
 あの男は悪人だ、と思う。
 しかし、自分も悪事を働いたことはあるし、タマットの裏に深く関わる者だ。それだけでは彼を排斥する理由とはならない。程度はあるが裏帳簿の一件では、彼の行為を嫌悪することはない。
 あの男は悪い男だ、と思う。
 その性質はあまりによろしくない。にっこり笑いながら悪事を犯し、それに悪びれる意識がない男。悪意が無いのではなく、全てを承知の上で毒を撒いている。あれがガヤンの高司祭であると思うと人間不信に陥りそうだ。いや信仰不信だろうか。シェルレのガヤン嫌いの原因は、彼ひとりに集約している。
 腹が立って仕方ない男だが、一番腹が立つのは、彼に対してではない。
 一連の事件でいいように使われていると感じ、腹立たしく思っていたのに、彼と再会した時には、堪えようがなく心が揺れてしまった。彼よりも、自分自身に腹が立つ。
 玩具にされ、利用されていると考えながら、彼の姿を見た時に嬉しいと感じてしまった。
 初対面の振りをされた時、犯罪の証拠を渡された時、ためらいもなく彼の都合の良いように動いてしまった。
 何よりも、傷を負ったのかと手を伸ばされた時、心配されたことが嬉しくて、幸せな気持ちになってしまった。
 彼の手が頬に触れたとき、どきどきして、そのまま人目も憚らずに近くに行きたくなってしまって――
「――って、何を考えてるわけ!?」
 思わず自分が情けなくなって、罵倒の言葉が走り出る。
「どう考えても、あの男は何かあくどい事をしてるに決まってるんだから! ってゆーか、悪事の証拠をこの目で見たんだし……ってのもムカつくーっ! わたしがガヤンはともかくタマットにも裏帳簿を持ち込まないって舐めた事を思ってたワケねーっっ」
 握りこぶしも勇ましく、叫んだシェルレだったが。 
「――……う、る、さ、い!」
 同じ寝台の隣に寝ていた魔術師に寝ぼけ眼で凄まれ、焦って頭を下げる。
 安全の為に泊まっていけと言う親子の言葉に従った結果、ガヤンの坊やの部屋を奪い、女三人で眠ることにしたのだ。
 青少年の寝台にシェルレと魔術師。元から屋内で休む習慣のないエルファは、大事な木を抱え込むようにして、床で丸くなっている。自分でいうのもなんだが、あの声で起きない辺り、疲れているのか信用があるのか。それとも寝たふりをしているだけなのか。
 敵意は無いと信じていられるから、こうやって無防備に眠る姿を晒してくれるのだろう。
 こんな風に、彼を信じることが出来ればいいのに。
「どしたの、眠れないのぉ〜?」
 幼い少女の舌ったらずな甘い声が、謝りもせずに思考に沈むシェルレの意識を引き戻す。
「……うるさくしてごめん。水でも飲んでくるから」
 確かにこのままでは眠れない。
 諦めて起き出し、二人の気に障らないように居間へと移動する。
 問題は、彼が自分にとって許せる範囲の行動を取っているかどうかだ。
 裏帳簿くらいは構わないけれど、例えば青い石欲しさに殺人を犯していたら。
 麻薬密売犯の情報をたれこんだのも、きっと彼だろうけど、その目的は生命の果樹だったのだろうか。そもそも緑の森からアレを盗んだ犯人も、彼の指示で動いていたのか? 
 それにしては森に果樹を返すことに文句がなさそうだったが、彼はあの果実で何をしたかったのか。
 判然としない事柄が多すぎて、頭が一杯になってくる。タマットの信者に相応しく、己の感じるままに動くことを好むシェルレにしても、事の過程が不鮮明すぎてどう動いたらいいものやらわからない。
 けれど平和なソイルに騒乱を巻き起こそうとしているのだとしたら。自分は彼の行動を肯定出来るだろうか。
 平和主義・人道主義というわけじゃない。単に面倒くさいからだろうかもしれないが、戦争を起こそうなんて考えには絶対に賛同できない。
 その姓が意味するところが予想通りだったなら、どうしたらいいのか。
 彼が失われた七番目の王家に連なる者だとしたら……
 もしかして利用されているだけなのかと思うと、ゾクリと身震いするが、そこまでの利用価値が自分にあるとも思えない。いっそ敵対者だと確信が持てたなら、切り捨てることも出来るだろうに、どちらともとれる彼等の行動が、ためらいばかり生み出していく。
 好意的に考えることも出来なくはないのだ。
 最悪の事態を食い止めるべく、麻薬の密売を密告し、身内に生命の果樹を確保させて。青い石も聞いた通り、偶然預かっていただけなのかもしれない。
 どんどん後ろ向きになっていく思考を振り払って、希望を持って思考を巡らせたシェルレだったが。
 どうしようもなく矛盾するというか、嘘っぽいというか。
 すぐ傍の部屋で眠っているはずの曲者ペローマ信者を叩き起こして、真実を問い詰めたくなるが、あまり収穫はないような気がする。
 溜め息を吐いたシェルレは、不意に最近覚えた呪文のことを思い出す。
 よく知った相手を、その居場所まで明らかにすることが出来る呪文。
 あれを使えば、出発の前に彼にもう一度会って、その意志を確認することが出来る。
 人をはぐらかす事が大得意な男に再び会ったからと言って、事態が解決するかはかなり疑問だったのだが、することがないまま新たな情報も無く、暗い思索に耽っていても不健康だろうし。
 ――ちょっぴり、会えばもっと不健全なことになるような気もするのだが、それは意識の隅にほっぽっておくことにして。
 意識を集中して『彼』の居場所をつかんだ娘は、背中に流していた金色の髪を、いつものように頭頂近くで纏め上げた。その髪型によって豪奢で華やかな印象が抑えられることを惜しむ知人もいたが、当人にとっては大歓迎だ。少し動くだけで、ベールのようにまとわりつく自分の髪を、彼女自身は正直言って邪魔に思っていた。
 うっとおしいだけの細い金糸細工を自慢に思わせてくれる相手がいるから、この髪を短く切ってしまおうとは思わないけれど。
 ゆるやかに波打つ煌きを、心ゆくまで楽しむことを許した相手は一人だけ。
 彼に触れられることを、どこかで望んでいる自分がいる。けれど、だからこそ。
 いくら快くても、苦しくても、はっきりさせなくてはいけない事がある――
 腰まで届く髪を結びなおした娘は、決意も新たに夜の街へと歩み出していった。



《終》