衝撃が走った。
『竜の降った日 -2-』
激しい轟音と共に、爆風と振動がその場を席巻する。
吹き込んだ土の匂いのする突風に、ぴんと張られたリュートの弦を爪弾く指を止めて、ファータは震源であるらしい庭に目を向けた。
春の祭りの祝いに集まった人々の、渦巻く戸惑いの向こう側には、今日の陽気に相応しく、清爽と整えられた内庭を観賞する為に開け放された飾り窓が見える。だが、先ほどまで確かに豊かな緑を溢れさせていた筈の窓辺は、今や割れた硝子と濛々と上がる土煙ばかりが視界を遮る哀れな状態と成り果てていた。
ざわめきと共に、人々の間をゆっくりと不安が染み渡って行く。
正体の分からない危険は、多くの人間に恐怖と言う感情をばら撒き、一握りの変わり者に期待と閃きを与える物である。
高度な技術を誇る浮島で作られると言う“火薬”の爆発にも似ているが、それにしては焼け焦げる独特の匂いがしない。大体、あんな高価な物を使ってこんな山奥の村の村長宅を爆破しても、利がある人間などいないだろう。
だが、自然現象と考えるには、どうにも奇妙な事態もまた確か。
「・・・・・・何が起こったんだと思う?」
ちらりと、ファータは足元に座る大きな黒犬を見る。
ぴんと耳を立てて、土煙の向こう側を真っ直ぐに見詰めていたケセルは、目線を感じたように、主人とよく似た青い色をした瞳を泳がせた。
空中でぶつかった主人の瞳は、きらきらと輝く無邪気な変わり者のそれで。
不意と視線を逸らせた黒犬は、ぱたりと一度だけ長い尾を振った。
その様子が、まるで諦め模様の仕草に見えて、ファータはへら、と笑う。
余りにも唐突な出来事に、周囲の人間は浮き足立っている。皆の注目は一様に窓の外へと向かっており、ファータが演奏を止めた事にも気付いていないかのようだ。
今なら、この場を抜け出しても誰も咎めだてする者はいないだろう。
無論、このまま騒ぎの治まるのを待っても構わない。或いは、その方が利口なのだろうと言う事もよく分かっている。
だが、聞こえるではないか。
知らずに通り過ぎるより、心を満たすモノがあると、そう耳元で囁く声が。
ここで動いた方が、きっと何倍も面白い事になるに違いない。
「何かあったって言うならさ、見とかないと損ってもんだよな」
吟遊詩人としては、何事にも目を凝らさねば。
湧き上がる好奇心をそう言い訳して、ファータはひょいと舞台の椅子から飛び降りる。
もう一刻の我慢もならないと言わんばかりの、わくわくと言う文字が背後に踊って見えそうな、輝ける面持ち。
そんな主の行動に、ケセルは少し呆れた様に二、三度瞬きをして、それからのそりと立ち上がり、体を振るわせた。
頼もしい友人の無言の肯定に、少年は嬉しそうに頬を緩ませた。
こっそりと奥の扉から廊下へと忍び出し、ファータは家の中を素早く駆け抜ける。
殆んど足音を立てる事もない軽快なその動きは、本職の盗賊ですら舌を巻きそうなほどの妙技。壁に張り付くようにして曲がり角の向こうを伺う姿も、実に堂に入っている。
逆に余りにもそれらしすぎて、見つかれば即行であらぬ事を疑われそうだ、とも言えるだろうが。
言に従って背後を警戒しながら、ケセルは少々不満げに耳を動かして、目を輝かせた主の顔を見上げる。
「・・・・・・よし、来いよケセル」
人の気配がない事を確認して、少年は半開きにされたままの扉から部屋に入り込めば、そこは家の人間の居室らしき寝所。その開け放たれた窓をひらりと飛び越えると、身を潜めて壁伝いに移動する。そのまま庭の土煙が間近で確認出来る茂みの影に滑り込み、まじまじと目を凝らした。
煉瓦敷きの小回廊――と言うにはおこがましいほどの、ささやかな庭ではあったが――は先ほどの衝撃の原因によってか無残にも破壊され、辺り一面に赤い破片と芝の付いた土塊を飛散させている。爆風に薙ぎ倒されたらしい木々の残骸も周囲に散らばった色とりどりの花弁も、実に痛々しい有様に思われた。
依然衰える様子のない土煙の向こうに、初めに確認出来たのは何かの青い影。
煙に紛れて転がったそれは、どうやら爆発の中心にあるらしく、そこから放射線状に吹き飛んだ諸々の破片が転がっている。
火薬でないのなら、何かの激突による衝撃だろうか。だとしたら、相当な速度でかなりの高度からぶつかった事になるが、見回してみても周囲にはそんな高さの建物はない。
一体、青い影の正体はなんであるのかと、少年は身を乗り出すように目を凝らして、茂みの向こうを覗き込み。
「へ?」
青く見えたのは、身に着けた衣服と水色をした長い髪。
投げ出された手足は細く、身じろぎをする様子もないそれは。
――明らかに、人の娘であるように見えた。
「な、何だァ!?」
慌てて傍に駆け寄ってみれば、それは明らかに人の姿をしている。
透き通るような白い肌は土にまみれ、黒く汚れてはいるが、どう見てもただの娘にしか見えない。年の頃は十六、七だろうか。衝撃の強さに目を回しているようだが、額に瘤が出来ている程度で、どうやら目立った外傷がある様子はない。
「ウソだろぉ・・・・・・」
先ほど体感したあの腹に響くほどの衝撃が、人が地面に激突して起こった物だなどと、そう簡単に信じられる事ではない。ましてや、ぶつかった者が全くの無傷など、どう考えても有り得る話ではない筈だ。
あれだけの勢いでぶつかったのだとしたら、今頃か弱い人の体など粉々に吹き飛んでしまっている。無論、周囲は今以上に見られた物ではない、実に凄惨な状態になっているに違いない。
もし、この少女があの衝撃の原因であるとしたら、彼女は巨石よりも固く丈夫な体躯を持っている事になってしまう。
「そんなバカな」
はは、と笑って、少年はそこに横たわる少女を揺り起こそうと手を伸ばす。
その時だった。
家の中、それほど遠くない場所で、悲鳴が上がる。
甲高い声は明らかに年若い女性の物。
何事かと振り返って、それからファータははっとする。
確か、村長には年頃の娘がいると聞かなかっただろうか。
「やばっ」
ひょっとしたら、何か忍び込み(?)の痕跡でも見られたか。
家人の部屋を通り抜けたのは少々拙かったかも知れない。下手をすると、泥棒か何かに間違われかねない。この状況では、騒動の犯人扱いされる事だって有り得るだろう。
旅の吟遊詩人など、最終的には何処の馬の骨とも知れない怪しい余所者である。
疑いを向けられない為にも、ここは早く広間に戻らねば。
「ケセル、行くぞ」
黒い毛並みの相棒に一声かけて、少年は庭を駆け抜けようと一歩を踏み出した。
身を隠せそうな茂みの中から、姿勢を低くして走り出す。
それが、いけなかった。
「うわっ!」
「うぎゃっ!!」
潰されたような声を上げて、ファータは鼻から地面に突っ込んだ。
その上に覆い被さるようにして若い男が一人、猛烈な勢いで転倒しその場に転がる。
「ッてぇ――っ!」
激しく蹴り飛ばされた頭とぶつけた鼻面を押さえて、ファータは飛び起きた。
「ぁにすんだよ、アンタっ」
ぶつかってきた男を振り返り、指を指して声を上げるが、立ち上がれば目の前はちかちかと点滅して、世界がぐらぐらと回る。
平衡感覚をつかめないまま再びひっくり返りそうになって、思わず地面に手を突いた。
その手の中に、ふと冷たい感触を感じる。
何かと思って拾い上げてみれば、それは金のペンダントトップ。
緻密で繊細な細工を施したそれには、引き千切ったような不自然な切れ方をした鎖が垂れ下がっている。
「なんだ、これ」
一体なんなのかと注目して、不意にどきりと胸が高鳴った。
視界が、その一点に収束する。
体の底から湧き上がる、不可思議な高揚感。
その正体は分からない、けれど決して不快ではない、遠く近い暖かな感覚。
懐かしいようでいて、いつも共に在ったようにも感じる、親しみとも似た。
それは。
――――――だ。
「バウ!」
一際激しい吠え声が上がった。
叱咤するようなその声に、ファータの意識は急速に現実へと引き戻される。
地面の上にへたり込んだまま目線を上げれば、正に自分を襲わんとしている男のその腕に、ケセルが飛び掛る姿が見えた。
「何だ、この犬ッ!」
唸り声を上げながら腕に咬み付いて離れようとしない大きな犬に、男は恐怖さえ覚えて腕を振り動かす。
己のそれより大きい体を難なく押さえ込んで、ケセルは男を地面に転がすと、馬乗りになるようにしてそれを捕らえた。深く牙を突き立てて、あわよくば噛み千切らんとせんばかりの猛犬の形相に、流石の男も目じりに涙を浮かべて力ない抵抗を試みる。
「ケセル、もういい止めろっ」
声を掛ければ、刃の名を持つ犬は主人の顔を振り返り、大人しく男の上から身を避けた。
解放されるや否や、男は情けない声を上げてその場を駆け去って行く。
それを一声威嚇してから、ケセルはそっと主人の肩に頬を摺り寄せた。
気遣うように見上げた青い瞳が、微かに揺れる。
「守ってくれたんだな。・・・・・・あンがとな」
ぽんぽんと、その首筋を叩いて礼を言い、ファータは笑う。
くーんと鼻を鳴らした相棒の声に、揺れた心が少しだけほっとする。
さっきのあの感覚がなんなのかは分からない。悪い物ではない気はするが、前後不覚に陥るのは困りモノだ。
手の中に残されたペンダントを掲げて見て、ファータは眉根を寄せた。
さて、どうするか。
そう考えていた所に、声は降って来た。
「あれです! あそこ!」
悲鳴じみた若い女の声に家の方を振り向けば、まっすぐにこちらを指差した一人の少女が今にも泣き出しそうな悲痛な顔で何事かを叫んでいる。
「あのペンダントです! 誰か取り返してっ!」
「・・・・・・へ?」
あのペンダントとはつまり。
ファータが手にしている、金細工のペンダントの事で。
たらりと、額を汗が伝い落ちた。
その声が聞こえた時、遠稀は道を歩いていた。
当てのない旅路を流れながら、ふらりと辿り着いた山間の村は春祭りの賑わいに沸いていて、少女はひとつ溜息を突く。
青く広がる空を仰いで、再び歩み出そうとしたその視界を、ふいと何かが遮った。
人の背よりも頭二つ分ほど高い石造りの塀――その上を、鳥と見まごう身軽さでひらりと飛び越える何かの姿。
(猿か)
一瞬そう思ってから、否と思考を否定する。
猿は洋服を着てはいない。
「わっ!」
飛び降りた所に誰かいるとは思わなかったのか、その場に舞い降りた少年は遠稀の存在に声を上げる。
それだけでも驚きに値する所であるのに、少年を追いかけるかのように、立ち上がれば人の大きさほどもあるだろう大きな黒犬までもが、どのような方法でか塀を飛び越えて来た時には、さしもの遠稀も思わず動きを止めてしまう。
視線が交わされたのは、僅かに一瞬か。
「泥棒ですっ! 誰か捕まえてっ!!」
傍の家の中から叫ぶ声が聞こえて。
咄嗟に少女は、手を伸ばす。
ぐい、と引き寄せたその手の中には、今にも逃げ出そうとしていた少年の腕がしっかりと捕まえられていた。
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