『物騒な贈り物』


 玄都の冬には珍しく、夜通し雪が降った翌日の出来事である。
 スラムにある廃屋の中で、白く覆われた路上を眺める者達がいた。
 くしゅり、と小さなくしゃみを洩らした司蓮の頭上に、ふわりとマントが被せられる。黒くて随分大きなそれは、横に立つ青年のものだ。
 眼下の路地を見下ろすままでの無言の好意を、少女は有り難く受け入れた。ついでといっては何だが、足元に寝そべっていた大きな青い犬を抱き寄せ、湯たんぽの代わりにする。
 彼らがこのボロ屋の屋根裏に忍んでから、数時間が経っている。火もない屋内は、昼日中もかなり寒い。
 樹木の精霊の血を引くせいなのか、司蓮はどうも寒さに弱い。冬眠とまではいかないが、動きが鈍りがちになるので、仕事中は要注意だった。
 予定通りなら、目標はもうすぐ見張っている裏路地を通るはずだ。その時こそが、依頼を果たす唯一にして絶好の機会だった。
 目標と親しい相手から、運良く今日の予定を聞き出せた幸運を無駄には出来ない。今までの試行錯誤を考えるに、これを逃せば目標単体との接触は不可能だろう。
「最後の挑戦だから、気合を入れてきましょう!」
 司蓮の短いが柔らかな金糸に縁取られた愛らしい顔は、不退転の決意に彩られている。横目に少女の菫色の瞳に宿る闘志を確認して、青年は静かに諦めの息を吐いた。彼女の引き受けた物騒な仕事を手伝うと約束して以来、内心はともかく彼が口に出して不満を述べたことはない。
 仕事といっても彼女のそれは、常には生活費や学費を稼ぐ為のもの。今回の危険度の高い一件は、通常業務外の訳ありだ。
 彼はそれ故の助っ人であり、とはいえこの件は、彼にとっての専門からも外れた内容だった。それでも彼女一人で決行させる気はしない。
 やがて司蓮がマントを毛布代わりに、大型犬を枕にしてうとうとし始めた頃。犬がピクリと耳を震わせ、青年が剣を確かめながら動き出す。少女の目には未だ人影は見えていなかったが、狩りを得意とするイキモノ達は、獲物の気配を嗅ぎ取っていた。
「――では、予定通りに」
「蒼儀さん……気をつけて、下さいね」
 マントを返そうとするのを、微かに首を振って止めさせると、青年は三階の高さにある窓から、躊躇無く身を躍らせた。危なげない動きは、歴戦の戦士のそれだ。しかし見送る少女の方は、一転して不安な表情だった。
「……大丈夫、かなあ」
「あいつがそう簡単にやられるかよ」
 心配そうな少女に、不敵な声がかかる。
 その声は、おとなしく熱を提供していた獣から零れていた。身を起こした犬は、頭をすりりと司蓮の顎に押し付ける。その仕草は人懐こい犬のものだが、洩れた声は若々しい青年のものだ。
「そうじゃなくって……蒼儀さんがやり過ぎないか、心配」
「――あ、そう」
 犬が口を利いたことには、さも当然のように全く驚かず。
 自ら助けを頼んだとは思えぬ、少女の非常に失礼な発言は、犬としても二の句が告げなかった。銀と琥珀のオッドアイが、困ったように宙を泳ぐ。
「なにしろ蒼儀さんなんだよ。あの人が血を流さずに仕事を終えたのって、見たこと無いんだけど。天牙は、ある?」
「…………いいけどな、小娘。この会話は奴にも聞こえてるぜ? 俺とあいつが『繋がってる』のは知ってんだろーが」
「あ、そうだっけ? ……うーん、聞いてても、自重してくれないだろうなあ」
 あのひと、他人の視線を気にしなさすぎだよね。
 悪意のまるでない司蓮は、率直極まりない口を噤もうとはしない。
 正直なら、それで許されるというものでもないが。流れ込む己の主人の感情は、特に揺らぎもなく。どうもこの手の発言は、慣れっこになっているらしい。
 蒼儀に寄生し情報を共有する異形は、大げさに頭を振って嘆かわしさを訴える。
「……ったく。あの死神にこんな依頼をするのも、おまけにあいつがそれを引き受けるのも、おまえくらいのもんだぜ」
 主人の恐ろしさを熟知した天牙としては、暴言を後悔しない司蓮には、呆れ果てるしかない。聞いているだけで、肝が冷える。彼女にしてみれば陰口のつもりはないのだろうし、改善する可能性に賭けて、延々と語りかねないが。
 攻撃の手が自分に向いたりしないと、確信できるからの暴言なのだろうし、このくだらない仕事に手を貸している以上は、何も言えることはない。
「まあ、いいんだけどな」
 のそりと動き出した犬は、ふさふさの尻尾を大きく振った。
 それは彼が気合を入れる際に見せる動き。これからの仕事は、それなりに注意深さが必要とされるのだ。
「んじゃ、うまくやれよ」
 器用にも片目を瞑ってみせた犬は、細い壁の切れ間をすり抜けるようにして、外に飛び出していく。通れるはずもない穴を潜れるのは、彼が半ばは実体の無い存在だからだ。
 そうもいかない少女の方は、地道に階段から降りるべく行動を開始した。


                * * * * * *


「――少しよろしいでしょうか」
 目的の一行は、目標を中心として五人の男が周囲を取り巻いていた。五人とも、一瞥で堅気ではないと断言できるご面相だ。
 一体何と言えばいいか思いつかなかったので、蒼儀はごく適当に声をかける。
 たとえ気配を殺して物陰から現れようとも、既に右手には長剣が抜き放たれていようとも、彼にしてみれば精一杯の妥協であり、愛想を振り撒いた結果だった……のかも、しれない。付き合いの長い天牙に問えば、多分に天然系確信犯だと返答しただろうが。 
いきなり現れ、道を塞いだ黒衣の青年に、武装した男達の間に緊張が走る。
 不意の風で靡いた肩まで長さの黒髪を、蒼儀はうっとうしげに左手で押さえたが、その動きにさえ護衛達は色めきたった。
 当然至極の反応だが、青年としては実は不本意だった。
 今回の仕事は事態の推移によっては、最後に控える司蓮にまでお鉢が回らない可能性があったのだが、この様子だと彼女まで荒事が余るかもしれない。 
 目標は、金髪長身の二十代後半の男。一行で一番の優男だが、刃のような鋭さを思わす美貌に浮かぶのは、面倒な事態を疎んじる色ばかりで、恐怖は微塵も無い。その度胸も頭に相応しい。
 人気が少なく、どんな騒ぎが起こっても――それが流血沙汰であってさえ見て見ぬ振りをする危険地域で、この男の護衛がこの数まで減ることは滅多にない。あちこちで『仕事』が重なった結果らしいが、そこに司蓮達のつけ込む隙があった。
 玄都の裏を統括するのは<緑林の朋友>と呼ばれる組織だ。そして彼は<緑林>を統べる六人の盟友のひとり。この闇深き都市玄都の裏社会を統べる者なのだ。それも最も暗き部分を――諜報に始まり、拷問や暗殺を司る男。
 敵は数え切れず、しかして報復を考えず手出しする者は愚者と呼ばれ。それでいて、狙われて撃退しても狙われて撃退しても狙われて撃退しても…………掃いて捨てるほど、次々に襲われる立場に在る男だった。
 さほどその顔を知られていない点が、スラムで難に遭っても余計な介入者は出ない理由だ。顔を知っていれば、この辺りの住人は恩を売る機会を逃さぬだろう。
「――蒼闇の死神、か。何の用だ」
冷ややかな盟友の言葉に、護衛の間にどよめきが起こる。
 仮にも裏社会に生きる以上、その名を聞いたことがあるのだろう。
 夜の内でなお暗き、闇を狩る死神。
 蒼き剣を振るい、罪人に死をもたらす者。
 裏の住人にさえも忌まれる邪を駆逐し、畏怖と共にその名を囁かれる存在。
 いかなる組織にも属さずして、未だ生きているという事実そのものが、彼の実力を物語っている。
 一行の目の前に立つのは痩身優美な優男にしか見えなかったが、気圧された様に男の一人が、じりと後ろに下がった。
 恐怖の匂いを嗅いだ青年が、口角を微かに釣り上げる。それば怯懦なる愚か者を裁くべく、振り上げられた死の鎌のように優雅な曲線だった。
「これはこれは。お見知りおき頂けたとは、光栄です」
 微笑みと共に、うやうやしく一礼を送る。
 暗がりに棲む同類項でありながら、彼らの立場は光と闇ほどにも対立していたが、眼前の相手は素直に敬意を払いたくなるほどに、清冽なる気を帯びていた。
 単なる獲物として記憶するには、この男の闇には澱みがない。
 盟友という存在の故に、裏側の均衡が保たれているのも事実だった。堂々と誇れる地位ではなくとも、人を束ねる者としての意志と実力を所持している男。
 互いに目元は笑わぬまま、しばし彼らは対峙する。既に周囲は眼中にない。
 氷の如く冷たく、炎の様に熱い意志の衝突に呑まれて、両者の間に立つ護衛達の息が乱れる。圧倒的な格の差が、そこにあった。
 沈黙に耐え切れなくなった護衛の一人の突進によって、戦いの幕は切って落とされた。
 話し合いで済ます気がないのも双方承知で、制止の声は上がらない。
 最初の一人を難なく見切ってかわした蒼儀は、流れるような動作で二人目に向かう。下された死の裁きを、護衛はなんとか受け止めた。
 この少人数で盟友の護衛を任されるくらいなのだから、相応の精鋭なのだろうが、いささか相手が悪い。
 二人を盟友の左右に残して、三人がかりで立ち向かうが、一撃を打ち込むことすら出来ぬまま戦況は膠着し、剣戟は高らかに響き続ける。人数差をものともせずに、場の支配権はあくまで蒼儀が握っていた。打ち合いに決着がつかぬのは青年の作為だと、気付くことも出来ないほどに。
 少しずつ下がる青年を追って、三人は足場を前方に移していく。
 勢いづき、追い詰め仕留めようとする男達は、死神を囲むように場を展開する。それを意図されたと察知せぬままに、中心から引き離されていく。
 やがて状態を激変させたのも、蒼儀の行動だった。彼の二の腕を剣先が掠め、鮮血が雪を赤く染め上げる。それを見て一瞬だけ動きを停滞させた青年は、背を向けて逃走を計った。無謀としか思えぬが、これほど大胆な襲撃を行ったにも関わらず、あっさりと。
 乗せられて追いすがる配下の後姿に、盟友は密かに眉を顰めるが、あえて声をかけようとはしない。
 襲撃者は冷静に殺気を押さえ込んでいるように見えた。
 まるで、追っ手を誘い込むかのように。
 そもそも噂に聞く死神は、もっと手際が良いはずだ。あの程度の男数人相手にてこずるようでは、ここに至るまでに千回は死んでいるだろう。ならば、本命の策の為に護衛を引き離したと考える方が納得がいく。
 釣られたかとは思ったが、罠ならば嵌まって潰せばいいだけのこと。
 尤も、あの男に無能な護衛を退場させる為の囮を任せるなど、無駄としか思えない。それが活きる良策があるのというのか。あれが本気ならば、相当の苦戦を強いられたろうに。
 歩き出すことなく警戒を命じる男の前後を守りながら、残る護衛達は周辺を探索する。
 伏兵が潜んでいると踏んだのだが、人の気配は特にない。
 そこへ唸り声を上げながら現れた青い犬を、護衛達は僅かに視線を向けただけで、ただの野良犬かと、すぐに意識を逸らす。
 己に自負がある天牙としては、非常に腹の立つ行動だった。いかに闇の深き地であろうとも、普通の人間に過ぎぬ男達に獣の正体を見抜けという方が無理なのだが、それでも念入りに虐めてやろうと心に決める。
 ただの暗殺ならば無視されるのも好都合だが、この襲撃の目的はそうではないのだから。
「油断するな。あの男には、守護の獣がいたはず……」
 声を大きくする獣への注意を促したのは、護衛される盟友自身だった。
 人を模してはいるが闇の気を放つ男は、暗い藍の毛並みの生き物が、人の世で産した存在ではないと気付いたのかもしれない。男の命令に護衛達が意識を向けたところで、一声吠えると青い犬は残った護衛達に襲い掛かる。
 動けなくするなら、目線近い足を狙う方が早いが、それはしない。単独では話にならず、二人がかかりきりになるまで遊んでやると、こちらもわざと引き離しにかかる。
 即座に応戦した反応は見事だったが、誘導に釣られる様はお粗末だ。これが最後とは限らない以上、そんなことでは護衛の任を果たせぬのだが、実力の差は圧倒的だった。
 密集した霧のように実体定かでない天牙は、切られても突かれても堪えない。それで彼の方からは攻撃可能とあっては、精鋭とはいえ、ただの人間の集団に打つ手は無い。蒼き獣を留めることなど出来はしない。
 一応は、多分ただの人間であるはずの彼の主人の方も、並みの人間では相手にならない。
 それらを知悉した上で、司蓮は彼らに協力を求めたのだ。この結果を出してもらえねば意味はなかった。盟友が一人となったところで話をする――それが一番の狙いなのだから。
 潜んでいた物陰から、ゆっくりと姿を現す。別に不意を討つつもりは無いし、驚かせて問答無用で攻撃されては困るのだ。
 そこに彼女が真打として控えた理由がある。彼女が先に出たとして、護衛を引き離すのが可能としても、最後に出て来たのが蒼儀では、平和的に話が進むはずがない。
 ざくりと踏みしめた雪がたてた音に、剣の柄に手を掛けた男が静かにこちらに向き直る。
 長い金の髪を風に靡かせ、得体が知れぬほどに深い青の瞳が司蓮の姿を捉える。
 まるで底なしの沼を覗き込んでいるようだと、寒さにではなく身体が震える気がした。


     ***          ***          ***      


「こんにちは、アーシュアン様」
「――何者かは知らぬが、俺を襲撃するには力不足だな」
 薄っすらと笑みさえ浮かべる男に動揺の気配は欠片もない。
 それもそのはず、この男に護衛など本当は必要ない。彼の周囲を守る誰よりも、本人の実力は抜きん出ている。
 男としては、蒼儀や天牙が向かってきた方が遥かに脅威だった。まるっきり戦闘訓練を受けていない少女では、触れれば消える雪の一片にも等しい。
 最後に現れた少女は、魔術士なのか幾つも護符や魔具を身につけてはいたが、纏う魔力は大きくも不安定で、練り上げられていない。将来性はあっても今は未熟な魔法使い。
 小柄な体躯は固さが残り、女に為りきれぬ幼いもの。短い金髪は闊達な印象を与え、菫色の瞳は全てを見透かせそうな強い意志に輝いている。長すぎる黒い長衣を引き摺っているのは不恰好だったが、まず見てくれは一級と言っていい。
 それでも彼には、青い果実に思い入れる気の長さは持ち合わせが無かったし、己に逆らう者の存在を楽しむ酔狂さも無かった。
 <緑林の朋友>に逆らった者は、即日どこぞの運河に浮かぶというのは有名な末路だが、彼はその九割以上の実行を指示し、その内の大物の五割以上は自ら手を下していると言う噂がある、嫌な意味で勤勉な人物なのだ。
 しかし司蓮も動じない。それは彼女が蒼儀達の援護を期待しているからではなく、ましてや自分の腕に自信があるからでもない。
 彼女には自分は殺されないと言う自信があるのだ。蒼儀や天牙は半信半疑だったが、この物騒極まりない盟友は、自分を傷つけたりしない。司蓮が『どうして』彼の前に現れたかを知れば、そうする理由は無くなる。
 とはいっても、この状況に辿り着くまでには、一言で言い表せないほど苦労したのだが。
「――このような形でお時間を取らせて申し訳ありません。おそらく我々の共通の知人である、カティア嬢からの預かり物を受け取っては頂けないでしょうか」
「…………なんだと?」
 愛想よく微笑むと、綺麗に包装された小さな包みを差し出す。
 恐らくは託してきた友人自身が選んで包んだそれは、彼の瞳と同じ鮮やかな青色の紙で覆われて、彼の髪と同じ柔らかそうな金色のりぼんが結ばれていた。
「本日がお誕生日だそうで、間に合ってよかった。警邏隊の一員である彼女が、あなたに近付くのは無理だということで、代理で参りました」
 玄都の治安を守る警邏隊に所属する生真面目な友人は、諸々の顛末の末に恩を受けたこの盟友を、ほのかに慕っていたりするようなのだが、それを認めるには葛藤があるらしい。
 また、立場的にも盟友とこっそり接触するなどとんでもないと、頑なに主張する。
 だからといって、裏に伝手のある知人に贈り物配達代理人を頼むのは、接触の内には入らないのかとか、ちょっと恩がある程度で裏社会の黒幕の誕生日を祝おうと思うだろうかとか、色々言いたいことはある。
 危ないところを助けられたとか、一言でいえば一目惚れだったとか云々の果てに、この顔と腕は良いらしいが愛想と性格と行動に多々問題ある男と縁が出来て数ヶ月。
 何処で彼の誕生日なんて知ったのかとか、うだうだと立場の違いに悩んでいるのはともかく、自分から連絡も取れないような相手はどうだろうとか、最初に危なかったのも原因を突き詰めれば、この盟友が悪いんじゃないかとも聞いてみたい。
 誰にも贈り物をしたことを知られたくない、という気持ちはわかるが、この男が単独行動する事態って無いんだけど……あるなら配下にも知られては困るほどヤバい時だけなんですけど、とか。
 本来は、多少危ない仕事でも引き受ける関係上、裏にも伝手のある司蓮に頼んだのであって、カティアがこの仕事の遂行内容を聞いたなら引き付けを起こして倒れかねないが、それはこの際棚に上げる。どこからか、黒衣の青年の視線が圧し掛かって来る気もするが、それも無視しておく。
 ちょっと突っ込みたい部分も多々あるものの、自分もあまり人様に堂々と言い難い付き合いの多い司蓮としては、出来る限りの協力はしてあげたいかなあ、とか思ったりもしたので。今回の件を仕事として引き受けたのだ。
 警邏隊隊員と、盟友の恋の橋渡し。
 まさに身分違いの恋!
 ……ちょっと語弊があるかもしれないし、助力を頼んで具体的な話をすると、蒼儀と天牙が深く深く沈黙していたけれど。
 つまりは彼女がアーシュアンを襲撃した理由は、彼の命を望んだのではなく、彼の時間を少しばかり割いてもらいたかっただけ。
 熱心な護衛のいないところで、ちょっとばかりお話したかったのだ。
 幾度かの挑戦の度に、護衛に見つかったり、殺る気満々で追いまわされたりと、嫌な経験が怒涛の勢いで増えたが、こうして目的が達成された今は、それも喉元過ぎた思い出だ。
 その為にわざわざ、護衛を殺さずとも翻弄できる腕前の知人を頼ったのだから。
「お誕生日、おめでとうございます♪ よろしければ、彼女に代わってお祝いの歌も奉げさせて頂きますけど?」
「…………遠慮する」
 いささかの逡巡の後、それでも手を伸ばしてきた男に、結果として物騒なオマケのついた品物を差し出す。
 にっこりと笑った少女の瞳は悪戯っぽく光っていたが、彼が『やれるものならやってみろ』などと言おうものなら、堂々と大声で歌い出したはずだ。むしろその場合に恥をかくのは、口封じに手を出すことも出来ない男の方だったろう。
 どっと疲れたような気がして溜め息を吐いた男は、ふと動物のような仕草で背後を窺った。頭は動かさず、目だけが気配を追う。
 現れたのは黒衣の青年だった。さくさくと雪を踏みしだき、今度は気配を隠す様子も無く、去ったのとは反対方向から戻って来る。
 見たところ先程のかすり傷以外に血の痕も無く、予定通り撒いて来たのか、この早さは気絶でもさせたのか。姿の見えない護衛達も、命には別状無く済んだらしい。
 一陣の風が吹いたかと思えば、大きな青い犬が青年の足元に纏わりつくようにして現れる。こちらも艶やかな毛並みに赤い染みは無かった。
「あ、蒼儀さん。お帰りなさい、ありがとうございました」
 少女がにこりと警戒心の欠片もない笑顔を浮かべ、これまた身の危険を感じぬ様子で男の横を身構えもせずに通り抜けて青年に近づく。
 盟友と擦れ違う一瞬、青年と獣が密かに構えた気配を感じ取り、男は口元を緩めた。
 あまり他人の事を言えた立場でも無いが、おもしろくも愚かにも思う。
「――蒼闇の死神が、精霊の血を引く小娘に蹴躓いたという噂は聞いていたがな」
「うわあ、なんだか失礼な言い草ですね」
 言外にくだらぬ手伝いをしたものだと非難されて。
 不本意な言葉に肩を竦めるが、嘲られた当の本人は微かに笑ったきりで何も言おうとはしない。その足元に寄り添った大きな犬も、口を開こうとはしなかった。
 少女が自分の手の届く位置まで戻って来たことを確認すると、青年は無言のまま来た道を戻り始めた。犬は勿論、司蓮もそのまま後に続く。
 司蓮が一度だけ振り返ってみれば、その視線に気付かなかったのか、盟友は早速手元の贈り物の包装を剥がしていた。その手つきが妙に丁寧で、紙を破らぬよう気を使っている風情があったのが、微笑ましい……かもしれない。
「……蒼儀さん、怪我は大丈夫ですか?」
 心臓に悪い記憶を思い出し、袖をひっぱって確認する。滅多に見れない光景には、悲鳴が上がりそうだった。
 覗き込んだ少女に僅かに腕を上げて、傷口を見せる。薄皮を切られただけの傷は、既に乾いて塞がりかけていた。
「こいつが、んなヘマするかよ」    
「わざとだろうとは思っても、心配なのは心配なの!」
 安心したのをからかわれ、むっとした司蓮は犬とのじゃれ合いに入る。
 いつも通りのその光景を見ていた青年は、ふと肩越しに視線を投げた。
 そこには男の姿は既に無い。転がしておいた護衛を探しに行ったのか。それほど親切な男とも思えないから、次の予定を消化しに移動したのか。
 冷酷無比とうたわれる男が、ある娘からの贈り物を受け取った時、刹那の間だけ浮かべた当惑の――それでいて優しげな表情は、当分忘れられそうになかった。
 あんな顔も出来るのだと……ただの平凡な男のように、幸せを感じることもあるのだと。
 同じ感情を覚えてしまっては危険だと、どこかで鳴る警鐘を意識しつつも。ひょっとしたら自分にも、彼と似た顔をする日が来るのだろうかと。そう考えずにはいられない。
 いつの間にか再び降り出した雪が、闇の都を白く変えていく。
 降りしきる雪に、子供のようにはしゃぐ少女と獣を見ながら、青年は無意識の内に、微かに目元を和ませた。


                                          《終》