流れゆくままに。 「これは相当上質の金ですなあ」 「……ああ」 両替商の感嘆の声にも、女は表情を緩めはしない。まるで当然だと言いたげに。 痩身優美な異国の女は相当の美人だが、愛想の無さも折り紙つきだった。 紹介も無しに突然現れた女は、無頼の徒と大差なく思えた。扮装が珍しいのはまだしも、腰に武器を差しているのがいただけない。しかし差し出してきた粒状の金は、混じりけない極上品だ。何処で手に入れたのか、訝しいくらいに。 「このマークは、なんですかな」 指を差すのは、円形に丸められた金の全てに刻まれた『迦』という文字。いや、青い眼の商人には、その印が字だとは判別できない。同様に彼女の方も、両替のレートだと言って差し出された曲線を描く文字は、意味不明の記号に見えている。それでも淡々として、 知識が噛みあわぬ者達の商談は進んでいた。 「それは迦南で発行した金子である証明だ」 「カナン、というと?」 「……私の生国の近くだ」 「それは、かなりの遠方なのでしょうなあ」 抜け目のない商人の眼差しが、女を窺う。小太りの男は、若い頃は各地を旅をした経験がある。その彼をしても、彼女が属する国の見当はつかなかった。 漆黒の髪と同色の瞳。象牙色の肌は、きめ細かく。そもそも彼女と同じ人種自体を見たことがない。年の頃は二十歳になるかならぬか、幼いという程ではない。 流れ者に特有のすれた気配は薄く、物腰や顔立ちには気品すら感じさせる。妙に袖口の広い上着の下には、何枚か同じ型の衣を着ているらしい。襟元に見える、寒色を基調として重なる色目が美しい。これでも動きやすい旅装なのだろうが、裾の長い型は優雅な動作を要求するだろう。粗忽な振る舞いでは着こなせぬ衣装だった。 腰に差し込まれた細身の剣も、見覚えのない形状だ。長さはともかくあれだけ薄くては、力のぶつかり合う実戦では、容易く折れてしまいそうだ。柄の拵えは一財産になりそうな華麗さで、飾りなのかと疑いたくなる。 「言葉もいささか、訛りがおありのようだ」 女の言葉は、何処かおかしな響きが混じって聞き取りにくい。ところがそれは、却って奇妙に音楽的な響きとなって耳を打つ。まるで酒に酔うような、麻薬に溺れるような心地よさ。おとぎ話に出てくる、その歌声で男を魅了する魔物のように。 「こちらには、何か目的が?」 「――いや。特にあてはない」 「よろしければ、仕事を紹介しますが……?」 「この金が無くなるまでは、不自由はしない」 お節介と知りつつも離れ難く。弱みを突いて撒いたつもりの餌への、静かだが絶対の拒絶に、男が口ごもる。 「その……余計なことでしょうが、これからどうするおつもりです」 「……さあな」 さすがは商売人と言うべきか、すぐさま立ち直り尚も言い募るも。 応えて短く答にならぬ言葉を残すと、女は身を翻した。全く未練無き態度には、取り付くしまもない。 「お待ちを……! 貴女のお名前は?」 「――エンキ、だ」 彼女が扉を開いた瞬間、差し込んだ光に男の目が眩む。薄暗い店内に慣れた瞳には、激しい陽光は毒だった。痛む目を凝らして見つめた後ろ姿は、逆光の中へと真っ直ぐに進んでいく。 白光に溶け込むようにして姿を消した女の行く手は、栄光に満ちたまばゆい光に溢れているようにも――真白に虚ろで何も無いようにも、思えた。 |
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エンキ――――遠稀。 おまえは其の名にかなうもの。 遠くより来たるもの。厭われて忌まれるもの。援けられるべき稀なるもの。 その生まれを知らず、その行方を知らず、その辿る先を知らず。 未来を言祝ぎ、呪われながら戴いた名前は、彼女を守り、縛りつける。 彼女が如何なるイキモノと成るか、未だ誰も知らない。 流れゆくまま生き続けて、どんな己を見出すのだろうか。 彼女の生まれた意味の有無すら、理解するものはない。 両替したコインを入れた財布を、懐へと仕舞いながら溜め息を吐く。丸く厚みある貨幣はずっしりと重く、その重みは懐を暖めるより先に精神を疲労させる。 幸か不幸か、あまり顔に感情が出ない遠稀であるが、実は結構まいっていた。 目の前に在るのは町の中心へと続く道だ。当然のように賑わう雑踏を歩く人々の格好に、再び大きな溜め息が洩れた。『アレ』から数日経つものの、どうにも辺りの風景を見慣れることが出来ない。 大通りを行く者の大半は、金や赤や茶色の――黒以外の髪の色をしている。時折見かける黒髪の人間も、その肌は白い。彼等がこの地方の代表的な人種らしい。 ならば至極平凡と言い切っていい、変哲もない人々の姿は、彼女の感覚では違和感に溢れまくっていた。 女でさえも、身体の線がはっきりわかる衣を纏い、妙齢ながら断髪の乙女すらいる。遠稀にとっては無頼者の証明たる、頭部高めに長い髪を結い上げた型も、娘の間で流行ってさえいるらしい。男達は平均して頭ひとつ分は背丈が高く、袴のように裾の広がる下履きをはくことはない。 立ち並ぶ家並みは、これまで……数日前まで、見たこともない造りの家ばかりだ。 木の香りのまるでない、石造りの重厚な建築。ほとんどの家は平屋ではなく、道さえも石で覆われており、均等にならされている。 袖口の印籠から丸薬を取り出すと、腰の竹筒に汲んだ水で流し込む。常に平静に見える乏しい表情とは裏腹に、彼女は意外と胃が弱い。繊細な心を落ち着かせる生薬は、こちらでも手に入るだろうか。残りの数が気になったが、これ以上精神を痛めつける空想に耽るのは控えておく。 このまま事態の打開が出来ねば、遠からず血を吐きそうな予感に怯えつつも、どうするあても無い。あくまで表面上は落ち着いた物腰で周囲を見回しつつ、ふらふらと歩き出した。いつまでも店の前で立ち竦んでいては、営業妨害になってしまう。 まだ長くも無い人生だが、その大半を流れ歩いて来た彼女には、自分の故郷だと言い切れる土地はない。自分の親の顔も名も知らず、そんなものがいた記憶も無い。己はいつの間にか存在し、その名はいつしか傍らにあった。愛着がある場所も特に無く、言ってみれば如何なる土地にも郷愁など感じないが、さすがに見知った風俗が皆無では、落ち着く事が出来ない。 いや、そもそも。 この地に到った経緯こそ、問題だった。 落ち着いてなど、いる場合ではない。 すぐ横を、荷馬車が地響きを立てて走っていく。その振動にビクリと身を震わせて、自分の動揺具合を自覚する。おそらく事の元凶たる、あの『揺れ』以来、すっかり地震に敏感になってしまった。 あれは、ほんの数日前のことだ。 遠稀は一仕事を終えて、粒金で潤った懐に満足しながら、迦南の首都へ到る山道を歩いていた。周囲に人影は無く、木々に覆われた道は昼間でも薄暗い。けれど峠を越えれば、すぐに街並が見えてくるはずだった。 今晩は久々にゆっくりと休もうと、そう思っていた時にその揺れは起こった。滅多にない激しさの、滅多にないほど――奇妙な地震は。 大きく地面が動き出した瞬間も、焦りはしなかった。世慣れぬ小娘ではあるまいし、地震だからと騒いでも仕方ない。実時間ではほんのしばらくの事と割り切り、その場で揺れが収まるのを待っていた。 しかし、どれだけ経っても地揺れは鎮まる気配もなく、それどころかどんどん酷くなっていく。さすがに危機感を感じて、それでもどうする事も出来ずに周囲を見回す。その足元にぽっかりと穴が開いた――と思ったのは、気のせいではなかったはずだ。 地割れが出来たとかいう、可愛らしくも自然な現象ではなかった。何度思い返しても、不可解だ。なにしろ、真っ黒な底なしの穴に飲み込まれ……これで終わりかと思いつつ眼を閉じた遠稀が、次に気がついた時には、見知らぬ異国の街角にいたのだから。 すぐ傍を真っ赤な髪の大男が通り過ぎたときには、すわ赤鬼かと、本当に驚いた。その後も見るもの全てが驚愕の対象で、気が変になったかと己を省みたのは一度ではない。錯乱して、幻覚を見ているのかと――その方がマシなのにと。 なんとか言葉が通じたのは救いだったが、文字は読めず習慣もわからず、持っていた銅銭は思った通り使えない。大戦の褒賞である粒金を、当座の金子に替えられたものの。両替商が迦南の刻印を知らぬなど、彼女の常識では有り得ない話だった。 やはりここは、『知っている』場所ではない。 さて、ここは何処なのか。 密かに顔色を青くしながら、ふらふらと脇道に逸れる。 どこかの目立たぬ片隅で、こっそりと動揺を静めたかった。うっかり馬車に跳ねられる趣味はないが、現在の精神状態では洒落にならない。 入り込んだ先は薄汚れた細い路地で、目ばかりぎらつかせた男が数人たむろしていた。 侵入者が敵なのか、カモなのか。それとも距離をおいて過ぎ行く『同類』かと値踏みする視線が、柔らかな肢体にまとわりつく。女だとわかってか、そこには性的な意識もこめられている。 潔癖で純粋な、普通の娘ならば蒼白になって表通りへ戻るところだが、彼女はむしろほっと息を吐く。 この種の人間は、何処へ行っても存在する。明るい陽射しの中に在っても、闇の内で生きる存在。世界の表側だけを見ていれば、一生関わることのない生き方。それは程度の違いこそあれ、『彼女』と同じ側の存在だ。 だからといって、好ましくは勿論ないのだが、金色の髪でも緑の瞳でも、中味は同じ『人間』なのだと実感する事は、彼女に落ち着きをもたらしてくれた。 隙の無い足取りで通り過ぎれば、彼らも無闇とちょっかいを出してはこない。そんな所も今までと何も変わらない。 そう。自分は、何処ででも生きていける。生きていくしか、ない。 己の身に何が起こったかはわからない。けれど、如何なる運命がこの地に導いたのだとしても、自分は最早ここで生きていくしかないのだ。戻る術は、無いのだから。 それとも、自分は帰りたいのだろうか。 ふっと自問して、すぐさま自嘲する。 待つ人もなく、住むべき家もなく。 そんな自分が何処に帰ればいいというのか。何処へ還れるというのだろう。 「還る場所を持たぬ無頼には、似合いの道行きか……」 いっそ晴れやかな笑みを浮かべ、遠稀はゆったりと歩き出す。偽りの仮面ではなく、平常心を取り戻して。そこに宿る、若さに似合わぬ諦観は、静穏なる表情に紛れて目立つことはない。 ここが何処であろうと、この先に何があろうと、進む以外に術はない。 決して自暴自棄になるのではなく、ひどく自然にそう思う。 「さて、これから何処へ流れようか」 これも変わらぬ青い空を見上げながら、ひどく楽しげに言葉が洩れる。 独りで生きるのは大変だけど、何もかも簡単に手に入ったら退屈してしまう。 ――――さあ、これから何処まで流れようか? |
《終》 |