願っても構わないのだろうか。
どうか待っていて欲しいと。

爪弾く想いを、告げられるようになるまで。


琴線


 母は、琴の上手な女性であった。
 母の奏でる琴の音を大層気に入っていたと言う父は、二人の間にたった一人恵まれた娘に、幼い頃から琴を爪弾かせていた。娘もまた、母の琴の音を子守唄に聞いて育ったものであるから、物心着いた時から自然と琴に触れるようになっていた。
 同じ年頃の姫と比べれば、その技量は一歩抜きん出て。
 それでも、幼く小さな手で絃をしっかりと押さえるのはまだ難しく。
 母が愛用した形見の琴は、彼女にとって未だ憧れの品でしかなかった。
「・・・・・・母様・・・・・・」
 ぽろりと爪弾けば、琴は柔らかで伸びのある音を奏でる。
 日々欠かさない手入れによって保たれた絃は、しなやかに揺らぎ、振幅を繰り返す。
 一つ、一つ――桜色をした少女の指先に押さえられ、爪弾かれる音は美しい。
 事在る毎に触れ、嗜んできた楽器はその身を震わせて、少女の意図した通りの音色を響かせ、弾き手の心を和ませる。
 だが悲しいかな、彼女の指は未だ十分な成長を遂げておらず、幅広い琴に張られた絃の全てを押さえる事は出来なかった。
 ビィン・・・・・・。
 無理に弾かれた絃が、不恰好な音を発する。
 その聞き辛さに、藤姫は思わずその手を己が身に引き寄せた。
「・・・・・・やっぱり、上手く弾けない」
 ほう、と一つ溜息をついて、少女は目の前の琴にそっと手を置いた。
 龍神の神子を助ける星の一族、その末裔として亡母から役目を引き継ぎ、それから懸命に己に課された事を成してきたつもりだった。
 今、こうして現実に神子を戴き、その為に更なる尽力を惜しまぬ覚悟で務めている。
 積み重ねられたその事実は、確かに周囲の認める所だ。
 父などは、少し真面目にやり過ぎだ、肩の力を抜いた方がいい、などと藤姫の勤勉振りを揶揄するような事まで言う。
 だが、実際はどうだろう。
 歴とした神通力を持ち、その戦いの場で神子の役に立ってみせる八葉。
 その半分――否、三分の一でも、自分は神子の役に立てているのだろうか。
 神子が住んでいた天の国では、神子や天真、詩紋はまだ成人を迎えぬ子供だったと言う。
 だが、こちらの習慣に照らし合わせれば三人の中で一番年若い詩紋でさえ、元服を済ましておかしくない年だ。そうでなくとも、彼らには外へ駆けて行くだけの力がある。
 一人で走る事の出来る彼らは、もう十分な大人で。
 それに引き換え、自分はなんと幼い、取るに足らない存在なのだろうか。
 誰かの庇護の下でしか動く事も叶わない、ひ弱な子供。
 どれだけ背伸びをしても、どれだけ大人を装っても、それだけは覆す事の出来ない深い――深い溝。
 ビィン、と音にならない爪弾きを鳴らして、藤姫はきゅっと臍を噛む。
 もどかしさを、噛み締めるように。
 はたりと御簾が揺れて、男が顔を覗かせたのは、正にその時であった。
「これはこれは。浮かない顔だね、姫君」
「友雅殿」
 声に出して相手の名を呼んで、それから藤姫ははっと顔を赤らめた。
 その様子に、友雅は小さく口元を緩める。
「どうかしたのかね?」
「み、御簾を」
 両方の袖で染めてしまった頬を隠しながら、少女は男に向かって声を荒らげた。
「御簾を降ろして下さいませ、友雅殿」
「なるほど。姫君に対して、これは不躾だったかな」
 幼い姫の愛らしい懇願に、友雅は柔らかな間仕切りを擡げていた扇を、するりとその手元へ引き寄せた。
「姫の御尊顔を拝せないのは残念だが、致し方ないようだ。姫のたっての頼みとあらば、今日はこちらで我慢するとしよう」
「また、御冗談ばかり・・・・・・」
 ほう、と安堵とも苦悩ともつかない息を吐いて、藤姫はその場に座り直した。
 地の白虎を司り、『兌』の八卦で表されるこの男は、その卦の告げる通りの人物で、一筋縄では捉える事さえも出来ない。
 帝の信任厚い人物でありながら、その仕事ぶりたるや職務怠慢もいい所だし。
 他の八葉がどれほど真面目に行動していても、彼だけは何処か面白がっているようにしか見えないし。
 かと思えば、思いも掛けず大局を見渡し、人に先んじるその明は、年長者の貫禄ぶりさえも伺えて、どれが本当の彼の姿なのかすら藤姫には理解し難い物がある。
 だが返して見れば、それこそが彼の有能さを証明している訳でもあって。
 逆にそれだけの才を持ちながら、橘と言う家に生まれついた不運こそが、彼を享楽へと走らせる原因の一つであるのかも知れない。
 せめて、血筋の良い女を妻に迎えれば、話は多少変わって来るのだろうが。
 そんな事を考えていたからだろうか。
「友雅殿は・・・・・・」
 言葉は、思わず口を付いて出た。
「北の方をお決めにはならないのですか」
 問われた瞬間、相手は目を丸くしたようであった。
 問い掛けの内容を考えれば、あまりに当然の反応だったが、それは言ってしまった此方にしても同じ事だった。
(わ、私・・・・・・っ! 今、一体何を!?)
 何と言う、はしたない問い掛けだったのだろう。
 こんな話、普通、絶対、姫の方から振って良い話題ではない。
 いくら子供の言う事だとしても、気分を害して当然だ。そうでなくともこの男は、人当たりのいい外面に相反して、傍に置く人間の取捨に手厳しい。ほんの僅かな事でさえ、彼の気に障る言動を垣間見せれば、途端に掌を返されてしまう。
 振り向けられる好意の上に胡坐を掛けない――橘友雅とは、そう言う男であった。
(・・・・・・気を、悪くされたかしら)
 そう思うと、急に胸の奥がどきりと鳴った。
 無作法な問い掛けに、怒っただろうか。自分の事を、嫌いになっただろうか。
 ひょっとしたら、もう尋ねて来てはくれないかも知れない。
 ぐっと、喉の底が締まるような錯覚を覚えた。
 考えれば考えるほど、想像は悪い方にしか働かなくて、無意識の内に藤姫はぎゅっと衣の袖を握り締める。
 だが、そんな藤姫の思案を吹き飛ばしたのは、他ならぬ友雅の声だった。
「随分と、思い切りのいい事をお尋ねになる」
 ぱちり、と扇を鳴らして、男は微笑んだようだった。
「私の通い路が、気になりますか」
「それは・・・・・・」
 問い返されて、藤姫は思わず言い淀んだ。
 ――彼は、気を悪くしなかったのだろうか。
「彼方此方から、噂ばかりが春先の花の香のように流れてくるからですわ」
「姿はなくとも・・・・・・と言う事ですか」
「お噂を聞かない日などありませんもの。また、この対屋の女房の所へも通っておいでだそうですわね」
 平静を装って、溜息を一つ突いてみせる。
 わざとらしい仕草に、男は少し笑った。
「もう少し、長く御一方の所へ通おうとは、御思いにならないのですか」
「これは手厳しい」
 困ったような表情を作って、男は御簾の内側を返り見る。
「私にも事情と言うものがあるのですよ。少しは大目に見て貰えますまいか、姫君」
「まぁ」
 ふっと表情を緩めかけて、不意に藤姫は押し黙った。
 それは、唐突な理解だった。
 ――少しは大目に見て貰えますまいか。
 そう言った男の声が、すとんと鎮まった胸の中に納まる。つまりは、そう言う事だったのではあるまいか。
 彼は、大目に見てくれたのだ。
 それが、子供の言う事だから。
 自分が、子供だから。
「藤姫?」
 思考の海に埋没していた意識に、声が舞い落ちる。
 それは油断だったのかも知れない。
 或いは――。
「・・・・・・藤姫?」
 返事は愚か、身動ぎすらしなくなった幼い姫の、御簾の外から見える淡い影に、友雅はもう一度声を掛ける。
 声音にいぶかしむ色が出たのは、この場合、致し方のない事だろう。
 先程まで朗らかだった相手に急に押し黙られては、事態の急変を予測せずにいられない。
 だが、全ての予想に反して再び彼の耳朶を打ったのは、聞きなれた幼い人の物ではなく、滲み、掠れた、震える声であった。
「琴・・・・・・が」
 ぱたりと、頬を伝った雫が、少女の手の甲を打った。
「琴が、上手く弾けないのです」
 絞り出すような声が、戸惑いながら言葉を綴る。
 急に動いた話題と少女の心に、友雅は御簾の外に座したまま、その向こうに潜む女君を凝視した。
「どれだけ弾き続けても、どうしても弾けないのです。母様のように、母様が弾かれたように、上手くは弾けないのです」
「・・・・・・母君は、琴の上手い女性であったと聞きましたよ」
 対屋の女房達が噂していた話を思い起こしながら、友雅は少女に声を掛けた。
「貴女もあと数年もすれば、母君のような弾き手におなりでしょう。焦らずとも」
「それでは、いけないのです!」
 宥める男の声を振り払うように、少女は声を荒らげた。
「それでは、いけないのです。それでは間に合わない。私は、今、琴が弾けるようになりたい。今すぐに・・・・・・」
 先を行く、あの人達に追いつく為に。
 あの人達の『仲間』として、恥ずかしくないように。
 共に戦う事は出来なくとも。出来る事など何もないとしても。
 せめて、共に歩いて行けるように。
 彼らに――彼に。
「私には、何も出来ない・・・・・・」
 零れ落ちる涙が、その温もりを増す。濡れ始めた袖を気にする事さえ忘れて、藤姫は小さくその肩を震わせた。
 もどかしさと苦しさの中で、行く先の見えない不安に、幼い心は悲鳴を上げる。
 それを伝える術も、伝えるべき言葉さえも見つけられないまま、理解してしまった事実に、少女は嘆きを覚えていた。
 どれだけ努力をしようとも、これだけは変えられない。

 ――自分が、子供であると言う事実。

 ぱさり、と。
 何処かで何かが揺れる音がした。
 ふわりと漂って来た侍従の香に、藤姫は視線を彷徨わせた。
 唐突に、その細い手首が誰かの手に捕らえられた。何事かと思う間もなく、強い力で引き寄せられる。
 濡れた頬が、誰かの身体に触れた。
 暖かい衣に包まれて、それから藤姫は、自分を掻き抱いたのが誰であるのかを悟る。
「と、友雅殿?」
 見上げたのは、反射だったろうか。
 その唇に、ふ、と触れた熱に、藤姫は息を止めた。
 それは、ほんの僅かな時間だったろう。
 だからだろうか。
 少女は、今行われた行為が何であるのか、すぐには理解する事が出来なかった。
「今すぐに、上手くなる必要などないのだよ」
 諭すように。
 穏やかな声が、少女の耳に届く。
「貴女は、貴女のあるがままで居ればいい。人は皆、等しく大人になるものだ。だからこそ、子供である時間を、恥じる必要など何一つない」
「友雅殿?」
 問い掛けた少女の大きな瞳に、男は微笑んだ。
「貴女は、貴女に相応しい速度で、一歩ずつ大人になればいいのだから」
 触れる指先が、ゆっくりと髪を梳く。その感触を惜しむように、友雅は幼い姫の御髪に唇を落とした。
「それでも上手く琴が弾きたいというのならば、姫。いつでも、私を呼びなさい」
「呼ぶの、ですか?」
 ぐす、と子供らしく鼻を鳴らして、少女は男に問うた。
「そう」
 頷いて、男は藤姫の、皓く小さな手を取った。
 自分のそれを重ね合わせ、ぴんと張られた琴の絃の上に、そっと伏せる。
「貴女の指が届かないと言うのなら、私の指を使えばいい。これを、貴女の指だと思えばいい」
「友雅殿の、指を?」
「私の手は、貴女の手よりずっと大きいのだから。貴女の為に、この琴の絃を押さえるなど雑作もない」
 そう言うと、男は少女のこめかみに額づいた。
「貴女に足りない物を、私は補おう。貴女が求める物を、私もまた求めよう。だから――涙を拭ってはくれまいか」
 促されて、藤姫はその袖で自分の目尻を擦る。
 そのたどたどしい仕草に、友雅は柔らかく微笑んだ。
 優しい動きで少女の髪を撫で、男の手がすい、と離れる。
「友雅殿?」
 御簾が揺れた音にはっとして、藤姫は声を上げた。

「名取川 瀬ぜのむもれ木 あらはれば いかにせむとか あひ見そめけむ」

 向こう側へと戻ってしまった男を名残惜しむように、衣の香が空白を埋める。
 静かに落ちた声に、その意図を測りかねて少女は視線を泳がせた。
「・・・・・・また、参りますよ。藤姫」
 そう言うと、友雅はいつもと変わらぬ様子で縁へと姿を消して行く。
 一人その場に残されて、藤姫は、男が紡いだ古き人の言葉を口に乗せた。
「名取川・・・・・・」

 名取川の瀬に埋もれた木が露わになるように、
 二人の間が世間に知れたらどうするつもりで、私達は親しくなったのでしょうか。

 ぽろりと、指先が琴の絃を弾いた。
 緩やかに広がるその音に、少女は目を細める。
 零れたのは涙ではなく、けれど微笑みでもなく。
 ただ胸の奥には、今までに感じた事のない温かな物が宿っている。
 その感情を何と呼べばいいのかすら、今の藤姫には理解する事も難しかったが、それでも先程までの悲嘆は、彼女の中から消え去っていた。


 爪弾かれた琴の音が、春の匂いを携えて土御門邸の一角に流れる。
 音はまるで歌うように、何処か満ち足りた穏やかな色を孕んで宙を舞う。
 だが、その音色の訳を知る者は。
 館の中には一人として存在しないのであった。


―了―