始まりの、始まり






「・・・・・・じゃあね、爺ちゃん。オレ、もう行くよ」
 そう言って、少年は破顔した。
 まだ変声期に入ったばかりの、子供時代の名残を残した声高な呼び掛けに応じるように、草原を渡る風がざざぁあ、と音を立てる。
 実り豊かな麦畑の色をした髪が揺れ、身に纏った使い古しの防塵布が、まるで翼を広げるように宙を舞った。
「本当に、後悔はせんのだな?」
 少年を見送りに来た、唯一人の人物である老爺は、節くれ立った手を少年の肩に掛けて名残惜しそうに少年の顔を見た。
「大丈夫だよ、爺ちゃん。これでも、もう十五なんだからさ」
 胸を張って答えた少年は、ほんの少し誇らしげに、日々の作業で皮の厚くなった指で鼻の下を擦った。
 十五と言えば、流浪を続けるキャラバンの民にとっては、一つの節目を表す年である。
 彼ら、キャラバンの民には血族と言う概念が薄い。
 休まる事のない延々と続く旅をするうちに親を亡くす子も多かったし、逆に親を亡くして行き場を失った子を引き取って芸を仕込む事も多かった。
 親子と言う単位ではなく、商隊と言う枠組みで、流浪の民は子育てをする。
 常に若さが物を言う旅の一行にとって、子供は貴重な財産である。
 生きて行く為に彼らがしなければならない事はたくさんあったし、子供でもこなせる仕事も山の様にあった。それに、今日育てた子供は、いずれ成人したあかつきには、自分達の生活を支える貴重な人手となる。
 だからこそ彼らは子供を育て、自分達の仕来りを教え込み、そうして育てられた子もまた、流浪の民となるのである。
 キャラバンの結束は、血の絆よりも固い。
 だが、同時に彼らは流れて行く事を好む民でもある。
 強者に媚びる事もなく、何者にも縛られる事のない、自分達の流雲のような歩みを彼らは誇りに思っている。
 だからこそ、キャラバンの子供達にとって、十五と言う年は特別な節目であるのだ。
 十五は成人の年。
 男も女も十五になれば一人前と認められ、自分の足で好きな所へ流れて行く権利を与えられる。キャラバンと言う親の庇護と束縛の許を離れ、一人の人間として自分の居場所を選ぶ事が出来るようになる。
 十五とは、子供が大人へと変わる年。
 そして今、まさに旅立たんとしている彼の少年もまた、この日、十五の誕生日を迎えたばかりなのであった。
「本当に・・・・・・」
 自分よりも、まだ随分と背の低い少年の姿を見て、老爺は目を細めた。
 暦と仕来りの上では、彼は確かに成人の日を迎えた。
 だが、この澄んだ蒼海の色をした瞳はどうだろう。昨日までの保護者を、未だに濁りを知らぬ幼子のそれと、同じ輝きを宿しているではないか。
 肌理細やかな褐色の頬も、この膝に抱いてあやした昔と、何ら変わらぬ柔らかさを湛えているではないか。
 実際に生きた年よりも幾許か幼く見える小柄な身体は、まだまだ発展途上の薄い肉付きしか持ち合わせておらず、それが今日の門出を見送る者にしては実に頼りなさげに思われて仕方がない。
 ――果たしてこの子が、世間の荒波に放り出されて生きていけるのだろうか。
 そんな事を考えていると知ったら、きっと彼は心配性だと言って笑うのだろうが。

× × ×


 それは、今を去る事十一年前の出来事である。
 水の黒の月、第一の赤の日――草の上を渡る風も温みを帯びて来た、早春の昼下がりであった。
 長く果てのない旅を続ける幌馬車の御者台の上から、ぼんやりと道行きを眺めていたゼキ老人―その頃、すでに彼は老人と呼べるような年齢の男であった―は、道端に転がる何かの塊を見つけた。
 初めは、誰かが荷の入った頭陀袋でも落としたのかと思った。
 だが徐々に距離が近付くに連れ、ゼキはそれが人の子である事に気が付いた。
 飛び上がるほどに驚いて手綱を引き、御者台を降りて駆け寄れば、微かに身動ぎする気配があって、それで子供が生きているのだと知った。
 褐色の肌を剥き出しに、衣の一枚も身に着けず。
その子は、生れ落ちたままの姿で、ぽつねんと道端に仰向けに転がっていた。
 年の頃は四つか五つ。浅い褐色の肌に、柔らかそうな金の髪。空の色を移したかのような、透き通る蒼い瞳。
 周囲に見回しても親らしき人の姿はなく、子供の物らしき荷も一つとして落ちてもない。
どうやら置き去りにされたらしいと哀れに思う一方で、ゼキ老人はその子を手放そうとした人物に対して妙に納得する物を感じた。
 実に――、実に不思議な子供であった。
 こんな場所に一人、しかも全裸で放置されれば、普通なら泣くか喚くかするであろう筈の幼子は、しかし泣き声一つ上げる事もせず、その瞳をぽっかりと開けたまま、唯々空を仰いで居るばかりだった。
 まるでそうする事しか知らぬように、子供はいつまでも空ばかりを見ていた。
 何を問い掛けても応える事もなく、連れ帰った幌馬車で、じりじりと日を過ごしながら声を掛け続け。それでようやっと聞き出す事が出来たのは、彼が自分自身に関する一切の記憶を、どうやら持ち合わせていないらしいと言う事実であった。
 物忘れの病だろうと、医に通じる所のあるキャラバンの隊長は判断を下した。
 治る見込みは皆無ではない。だが、どれだけの時間が掛かるか分かる物ではなく、また、子供を打ち捨てた者の行方も杳として知れなかった。
 老人は隊長と話し合い、その子を引き取ってセラップと名付け、商隊の子として育てる事にした。
 他の子らに対すると同様に、キャラバンの大人達は鷹揚な態度で彼を受け入れた。
 そうして生活を始めてみれば、思いの外セラップは、手の掛かる事のない子であった。
 思いの外ゼキの事を気に入ったのか、彼の顔を見れば喜びはしたが、同じくらいの年の子供のように、何かを訴えて泣くと言う事は決してなかった。
 初めはゼキ以外の人間を避ける様子があったが、それも日が経つに連れて徐々に解消され、彼は周囲を取り巻く者達とも意思を疎通させるようになった。
 利発で飲み込みが早く、仕事を教えれば何でもそつなくこなして見せた。
 そうする内に春が終わり、夏も終わりに近付く頃になると、ついぞ泣くと言う事を知らなかった幼子は人好きのする子供らしい笑みを覚え、失っていた言葉も何不自由なく操る事が出来る様になっていた。
 愛らしく懐っこい犬のような子供は、周囲を取り巻く誰からも愛された。
 こうして彼は流浪の民となり、生きる為の場所と輝いた瞳を手に入れたのである。

× × ×


「まァた心配してるだろ?」
 ひょいと老爺の顔を覗き込んで、少年は悪戯そうに口端を吊り上げた。
「ホントに大丈夫だよ。ケセルだって居るし」
 な、ケセル、と声を掛けると、足元に座っていた一匹の黒犬が、嬉しそうに一声吠える。
 忠実で頼もしい相棒の毛並みを軽く撫でてから、少年はじっと養い親の姿を見、そして肩を抱いた。
 幼い頃は大きく思えたあの背中も、ここ何年かで急に小さくなったような気がする。
 彼は、懸命に自分を育ててくれた。
 その恩を、忘れるつもりも返したつもりも、少年にはない。いつか必ずここに帰って、自分なりのやり方でこの人に何かを返したい。
 後ろ髪を引かれる思いがする。だが、それでも今は旅に出るのだ。
 自分の足で旅立たねばならない――他ならぬ自らの心が、そう囁き続けるから。
「ごめんな、爺ちゃん」
「セラップ・・・・・・」
「親不孝で、ごめん」
 ぽそりと呟く様に落とされた言葉には、これまで老爺がこの息子に見た事のない、涙にも似た響きがあった。
 ああ、と老爺は思う。
 縋りつく腕は、もう子供の物ではないのだろう。
 行かせたくないと思う気持ちは深い。一人旅立とうとする少年の旅路は、きっと辛く大変な物になるだろう。
 親ならばこそ、子を思うが故に手放したくないと、そう思う事もある。
 だがこの雛鳥は、羽ばたく事の出来る立派な両翼を、最早備えてしまったのだ。
「・・・・・・行ってこい、この馬鹿者が」
 少年の肩を力強く叩いて、老爺は目尻を細める。
「行って、お前の思う世界を見てくればいい。それが、本当にお前の望みだと、そう言うんならな」
「うん」
 頷いて、少年は顔を上げ、笑う。
「ありがとな、爺ちゃん」
「気を付けて行くんだぞ」
「分かってるよ」
 言うが早いか、少年は身を翻した。
 地面をタッと蹴って、黒い毛並みの大きな犬も主の後を追って走り出す。
「・・・・・・気を付けて・・・・・・っ」
 声を掛けようとして、老爺は言葉を止めた。
 走り始めた少年は、もう彼の幼子ではなくなってしまった。
 彼に出来る事は、その旅立ちを見守ってやる事しかない。
 少年の背中を、見届けてやる事でしかない。
「――・・・・・・爺ちゃあん!」
 不意に、セラップは振り返った。
 道の真ん中に立って、老爺に向かい大きく手を振る。
 その足元に寄り添ったケセルが、ウォン、と一声吠えた。
「行ってくるからっ!」
 口に手を当てて、少年は力の限りに声を飛ばす。
 行ってくる――そして必ず帰る。
 だから、どうかその時まで、こうして待っていて欲しい。
 身勝手だと、我侭だと分かっていても、そう願わずにはいられない。
 クゥン、とケセルが物言いたげな目線で主人を見上げる。目線を合わせてふっと破顔し、少年は再び前を向いた。
「行こう、ケセル」
 踏み出す一歩は、明日の為の一歩だ。

 それから暫くして、大きな黒い犬を連れた褐色の肌の歌い手が、ある街に現れた。彼は自らをファータ・モルガナと名乗る。
 ファータ・モルガナ――その意味を「蜃気楼」。
 流浪の民が用いる言葉で「蜃気楼」とは、セラップと言うのである。

《終》