『闇を照らす月』 |
人の立ち入らぬ地には、恐ろしいものが潜んでいる。 そのことを知っていたけれど、りんはたとえば薄暗い森の中でも怖くはなかった。 たった独りでそこにいるならば、びくびくと周囲を見回して落ち着かないだろうけど、今は傍に大好きな人達がいるから。 誰よりも一番好きで、大事なひと。とっても強いひと。 独りで残される時でも、安全な場所を選んでくれていることを知っている。危ない場所でも、きっとあのひとが守ってくれる。 だから、何も怖がる必要はないのだ。 どんなに暗い闇の中でもきっと、三日月がりんのことを照らしてくれるから。 * * * 木々の隙間から、穏やかな春の日差しが差し込む森の中のこと。 ひらひらと群れ飛ぶ蝶を見つけて、りんは大きく目をみはっていた。その蝶は少女が今まで見たこともない色をしていた。 鮮やかな深い青を地の色に、雪のように白い斑点が散らばっている。 それらが群れて飛んでいる姿は、とても美しく幻想的なものだった。 りんは上空だけを見つめながら、夢中になって蝶たちを追いかける。 他のことは目に入らなくなっていた少女が我に返り、連れの姿が見えないところまで来てしまったことに気付いたのは、どれだけ経ってからだったろう。 ふと周囲を見回せば、そこに見知った人影はない。 殺生丸が腰をおろした木の傍から、どれだけ離れてしまったのだろうか。 しばらくは動かない様子だったから遊んでくるとはいったものの、邪見からは見えないところまでは行かないように、言われていたのに。 早く戻らねばと思うものの、上ばかり見ていた所為で、どちらから来たのか覚えていない。 すっかり心細くなった少女は、小さく身震いした。 もう蝶なんてどうでもいい。早く、帰らなくてはいけない。 困惑しながらきょろきょろと四方を見回す少女の目の前に、白いものが舞い落ちてくる。 陽の光を反射して、きらめきながら眼前をよぎるものに驚き、りんは空を見上げた。 ――空から、白く輝くものが降ってくる。 まるで氷のカケラが落ちてくるような、そんな錯覚。 いつのまにかますます数を増やしていた蝶が、青い羽をふるわせる度に、そこから季節外れの雪が降ってくる。 美しい夢を見ている心地で、大きな瞳をもっと大きくして見入っていたりんは、不意に激しい痛みを感じて悲鳴を上げた。 美しい花には毒があるように――美しい蝶にも毒があるのか。 目に飛び込んできた蝶の燐粉が、自身の瞳を侵しているのだと気がついた時には、痛みは目を開けていられぬほどになっていた。涙が零れ始め、視力を失いながらも、混乱した頭でここから離れなくてはと考える。これは無害な普通の蝶ではない。もっと危険な存在に違いなかった。 「きゃっ……」 どちらへ行けば戻れるかわからないまま、蝶から逃れようと動き出すものの、はたはたと軽い音を立てながら、蝶はりんにまとわりついてくる。 蝶の群れから明らかな悪意を感じて、りんは必死に手を振り回す。 しかし目を閉じたままのりんの動きは、蝶たちにとっては儚い抵抗に過ぎないらしい。その手に蝶が触れることはなく、その数はまるで減る気配がなかった。目が見えていたとしても、りんには蝶を追い払えなかったかもしれない。 「せ……殺生丸さまぁっ!!」 泣きそうな声を上げると、口の中にも燐粉が飛び込んできて、ごほごほと咳き込む。 目を開けていられなかったのは、もしかすると幸いだったのかもしれない。 何処に隠れていたのか、蝶の数は膨大なものとなり、りんの身体を覆い隠すなほどになっている。それが見えていたら、とっくに恐慌状態に陥っていただろう。 やがて燐粉が触れたところから、ゆっくりと身体が痺れるような感覚が広がり、りんが地に膝をついた時のことだった。 ――どこからともなく、一陣の風が吹く。 その風は銀色をしており、蝶たちのかよわい羽を、吹き散らしていく。 慌てて空に逃れようと羽ばたく蝶を許さず、その爪は幾多の羽を引き裂いていった。 またたくまに少女の周囲からは、彼女を脅かすものの姿は消えうせ、目を閉じたままのりんは、まとわりつく気配の消失にあっけにとられるしかなかった。 風は――風を起こした正体である殺生丸は、助けた少女に何を言うでもなく、黙ったまま白く汚されたりんの姿を見つめていた。 そこへようやく主に追いついてきた邪見が、事が片付いていると見て取ると、早速りんのお説教にかかる。 「こりゃ、りんっ! 独りで勝手に動くから、こんな小物の妖怪に襲われるんじゃっ!」 何事が起こったのかと、身を硬くしていた少女は、聞き覚えのある声に、かえって泣き出しそうになる。視覚は相変わらず奪われたままで、彼等の存在を目で見てはっきりと確認できないのが悲しい。おまけにりんにとって、苦難はまだ過ぎ去った訳ではなかった。 「……殺生丸さま、邪見さまぁ。りん、すごく目が痒いよう」 燐粉が入り込んだ瞳は、痛みよりも痒みが耐え難いものとなってきていた。 ごしごしと目をこする、その手にも燐粉が降り積もっていることに気付いて、殺生丸は僅かに眉を寄せる。 「――手を下ろせ。こするな」 「あ、はい」 本当に痒くてたまらなかったのだけど、殺生丸の言葉は絶対だから、りんは必死に我慢して、手を膝の上に下ろす。 すると誰かが近づいてきて、屈みこんで自分の顔を覗き込む気配がする。 長い髪がりんの頬を掠めたのがわかり、殺生丸が自分を見つめているのだと気付く。そう考えると、なんだかどきどきしてきてしまう。 微かに頬を赤らめながらも、りんはじっと座っていた。 自分の言葉に従い、おとなしくしている少女を観察する大妖は、常の平静な表情を動かしたりはしなかったが、内心で確かに安堵を覚えていた。 取るに足りぬほどの小物の妖の気配を感じ、その傍にりんの匂いがあると気付いた瞬間に、己の体はすかさず動き始めていた。 案の定、少女は周囲を目障りなものに囲まれており、今にも崩れ落ちそうな有様だった。 もう少し来るのが遅かったらどうなっていたことか、考えたくもない。 そして、妖怪は滅ぼしたものの、まだ危機は去ってはいないようだった。 少女の体中についてしまった燐粉は、人間にとっては毒にしかならない。早く洗い落とさせねば危険だ。 「……邪見、着るものを調達してこい」 「はあ……」 主の言葉に、小妖怪が去っていく足音がする。邪見も燐粉まみれの衣をそのままにはしておけぬと思ったのだろう。反問は何もなかった。 「……殺生丸さま?」 不安そうなりんに答えてやることはせず、殺生丸はそのまま少女の体を抱き上げた。 いきなり体が宙に浮いた事に驚き、傍にあるはずの殺生丸にすがりつこうと、その手が伸ばされる。殺生丸の方も拒むつもりは無く、好きにさせるつもりだったというのに。その動きは、突然ぴたりと止まった。 どうしたのかと殺生丸は不審がるが、りんには切実な理由があった。 抱き上げてもらうのは嬉しいし、殺生丸の首にしがみついていいなら、それだけで幸せなのだが、しかし。 「あのっ、汚れちゃいますっ」 「……いらぬ心配だ」 それが害のあるものだとは自覚していた少女は、自分についた燐粉が殺生丸の体にまで移ることを恐れて、降ろしてくれと訴える。その願いを、大妖は一蹴した。 燐粉は確かに彼に触れていたが、この程度の毒では殺生丸に効くはずもない。 無言のままで、しっかりと少女を抱えると、水の匂いを追って移動する。 始めは困っていたりんも、やがておずおずと殺生丸にしがみついた。 森の更なる奥で、小さな泉を見つけた殺生丸は、片手だけで、手際よくりんの衣を脱がしていく。 「殺生丸さまっ……やっ……」 恥ずかしさにもがき、桃色に肌を染める少女を簡単に押さえ込むと、柔らかな身体を抱きかかえて、泉の中に足を踏み入れる。 小さくて白い身体は、大妖の心を刺激する危うさをも秘めていたが、今はそれに気を取られている場合ではない。隠していた肌が見えた一瞬、殺生丸の動きが止まったが、りんが気付く間もなく右手は再び動きだしていた。 寒い季節ではないが、水がぬるい時節でもない。 昼の明るさの中で、殺生丸に肌をさらす羞恥に身を縮めていたりんは、突然足に冷たさを感じて、小さい叫びを上げると共に殺生丸に擦り寄った。 素肌に触れる青年の腕や衣は暖かく、ほっと一息をつく。同時に自分が今、どんな格好を見られているのかと考えてしまい、俯いてしまう。 それに気付いているのか否か、りんの反応は気にせずに、殺生丸は少女を染めている白い燐粉を洗い流し始めた。 水中に屈みこむと、膝の上に少女を座らせ、右手でその素肌に触れる。 着物の外に出ていた部分だけではなく、胸や背中にもその手は伸ばされる。 優しく愛撫するようなその動きに、目を閉じたままのりんの顔はますます赤くなった。 手足は仕方のないことだが、おそらく燐粉がついてはいないはずの部分まで触れられている気がする。自分が隅々まで見られていると感じて、恥ずかしくてたまらない。殺生丸はきっと、いつもと同じ冷静な表情をしているのだろうが、相手の反応がわからないということも不安の一因だった。 髪の毛と顔も洗ってもらい、痒いままの瞳は、殺生丸の掌にすくわれた水ですすぐように言われたりんは、目を開けた途端に動揺の声を上げた。 「せ……殺生丸さま、どうしよう。目が見えないよう」 焦って目をこすろうと上げた手は、先程の殺生丸の言葉を思い出して、動きを止める。 しかしどうしたらいいのかわからずに、見えぬままに殺生丸を見上げたりんの瞳からは、ぽろぽろと涙が零れていた。 「どうしよう。りん、このまま目が見えなくなっちゃうのかなあ?」 尋ねながらも本格的に泣きじゃくりだした少女の顎に手をかけ、顔を上げさせる。 逆らわずに殺生丸を見上げるりんの目は、真っ赤になっていた。 しばらく黙って少女の顔を見つめていた大妖だったが、ゆっくりと顔を近づけると、ぺろりと少女の涙をなめる。 柔らかく濡れたものに頬をぬぐわれ、びっくりして涙も止まった様子を確かめながら、次には瞳の周囲、まつげにまだ残る燐粉を舌で舐めとった。 「――それほど強い毒ではない」 少女が囁かれた言葉の意味を理解するには、少しの時間が必要だった。 殺生丸の行為への衝撃が覚めたところで、ようやくその言葉が自分への返答だと気付く。そこでりんは、安堵の息をついた。 己の言葉を信じ、すぐに泣くのを止めて笑顔になったりんを見下ろしながら、殺生丸は珍しくも表情を揺るがせていた。 少しだけ味わった少女からは、甘い匂いがした。肌もあらわな姿で、無防備に自分に擦り寄る少女は、それがどれだけの誘惑になっているか、正しい認識がないのだろう。素肌を見せることへの羞恥はあるようだが、自分の姿態が殺生丸の理性を失わせる可能性があるなどとは、考えたこともないらしかった。 しばらく黙ってりんの顔を見つめていた殺生丸は、きょとんとしている少女の顔を、更に水で清めてやる。痒みが治まるまで何度も瞳を洗わせると、もう一度瞼を閉じるように命じた。 「これでいい――しばらくは、目を開けるな」 「はあい」 まだ瞳は霞んでいたけれど、殺生丸が大丈夫だと言ってくれたから、怖くはない。 そうやって見えない目のことから意識が逸れると、今度は急に寒くなってきて、りんはくしゃみを洩らした。 「――寒いのか」 「え…っと、すこしだけ」 濡れた髪を絞るようにして、水気を落としながらも、りんは段々と体が震え出すのを止められなかった。 用のなくなった泉から上がっても、りんの震えは収まる様子がない。黙ったまま、少女の凍える姿を見つめていた殺生丸は、脱がした衣に視線を向ける。 燐粉にまみれたそれは、乾いてはいるものの、そのままで役に立ちそうにはなかった。 洗えば着用しても害はないだろうが、今から濡らしてしまっては問題の解決にならない。 彼自身は水の冷たさなど問題にならないので、衣服をまとったままで水に入っていたが、 少女の身体には冷たすぎたのだろう。己は風邪を引いたことなどなかったが、人間が寒さに弱い生き物だということは理解していた。 ひとまずは乾いた袖口で、ざっと身体をぬぐってやる。 再び目の当たりにした、柔らかく白い肢体は、やはり殺生丸の血を騒がせる何かが潜んでいるようだったが、動きに停滞はない。 いつも肩にかけている毛皮で、りんを包み込んでやると、地面が乾燥した日の当たる木陰に腰を下ろす。 ふわふわとした毛皮にくるみこまれ、りんは安堵の息を吐いた。 暖かくて、殺生丸の匂いがするような気がして。 気がつくと、りんはうとうとしていたらしかった。もこもこの毛皮の枕は艶やかな手触りで、素肌に心地いい。 意識が遠のいていたのは一瞬だったと思うのだが、次に気付いた時には、殺生丸本人の気配が感じられなくて、りんは焦って飛び起きた。 りんは殺生丸のように鼻がよくはない。彼はいつも静かで気配を感じさせないから、視覚なしでは存在を感じることができない。 「殺生丸さま……?」 たまらなく不安になって、泣きそうな表情で手をさまよわせる。 まさかとは思うが、自分をおいて何処かへ行ってしまったのだろうか。 小さな手は空をつかむばかりで、心細さに涙が潤み始めたときのことだった。 「……どうした」 背後から低い声が聞こえて、りんは顔を輝かせた。その体が、振り向くまでもなく、温かな物に包まれる。 いつのまにか近づいていた殺生丸に、後ろから抱き込まれたことに気付いて、りんは幸せそうな笑みを浮かべた。 「――私は、ここにいる」 囁かれる言葉は、単に事実を述べているだけのものだったが、りんには甘い睦言のようにも聞こえて。 ふと、ぱさりと衣擦れの音が続いたと思うと、ふわりと身体が持ち上げられ、殺生丸の傍へと抱き寄せられる。 りんの肌に触れた熱が、殺生丸の素肌から感じられるものであることに気付き、りんは少し驚いて、見えない目で彼を仰ぎ見た。 「……濡れていたからな」 無言の問いを察した青年は、簡潔に答を返す。 それも事実だったけれど、彼はその程度では体調にまったく問題はないだろう。 だから、衣を脱いだのは、触れ合うりんが凍えることがないように。少女の為に、わざわざ動いてくれたのだと、そう思えてならない。 「へへっ……あったかあい」 しなやかな張りのある身体に、ぴっとりとくっつきながら、りんは満面の笑みを浮かべる。目が見えなくても、こんな風に触れ合っていられるのなら、何も怖くない。不安など何処かへいってしまった。 ――殺生丸の顔が見えないことだけが、少し不満だったけれど。 再び呼吸が穏やかなものに変わり、少女は寝息を洩らし始める。 それを確認して、殺生丸は微かに口元に笑みを刷いた。 小さくて柔らかくて温かな生き物が、己の傍にいるということ。 それは今までに知らなかった穏やかな気持ちと、荒々しい昂揚感を大妖にもたらす。 己の中に眠っていたのは、死を振り撒き、血を見るときにも感じないほどの激しい感情。 その揺らぎは、冷たく凍り付いていた殺生丸の理性を破壊しようとする反面、穏やかな安らぎを運んでくることもある。 殺生丸にもたれて、今度こそ心底安心しきってうとうとし始めた少女は、邪見が衣を持って帰ってきた時、腰を抜かしそうなほど驚いたのを知ることはなかった。 残念ながらりんは、自分を見つめる殺生丸の眼差しが、長年仕えてきた下僕を凍りつかせるほどに、穏やかで優しかったことを、とうとう知ることはなかったのである。 |