この季節特有の長雨は、夜になっても降り続けていた。
瓦をぽつぽつと叩く水音に、いくらか暑気が払われる錯覚を覚える。
しんしんと夜が更けゆく中、闇に沈む山海堂の店内で、醒花は行灯の明かりを頼りに本を読んでいた。
手元だけを照らす火は、心細くなるほど小さいが、夜目の利く彼にとっては大して気にもならない。むしろ全てを明々とさらけ出す電灯の方が、落ち着かぬものを感じる。こんな風に、近代文明の利器を忘れて過ごすのも悪くない。
京都という土地は、意図的なまでに日本情緒溢れる土地柄である。
文物は勿論だが気候も例外ではなく、冬は寒いし夏は暑い。梅雨の時節は湿度が高く、実は年中を通して暮らし易い風土とは言えない。しかし四季の移ろいが生み出す種々の変化は、千歳を経ても生き厭きぬほどの、新鮮な喜びと驚きをもたらしてくれる。
都会とはいえ、観光客の訪れが昼間の人口を大きく増加させる土地柄であり、繁華街以外では、夜間の車の数はどっと減少する。
ましてや山海堂は、京の一角に在りながら、位相を異にする場所に構えられた店だ。酷く性能の良い耳を持つ醒花でも、聴こえてくるのは屋根を叩く雨音だけだった。
こうやって独りぼんやりと過ごす夜も、良いものだ。
人間ほど顕著に寒暖に敏感な体質ではないが、一時の涼をもたらす夜の読書は心身に心地いいし、昼の賑やかな楽しさとは違う喜びを感じさせる。
店の奥にある高台、畳敷きの部位の端に備え付けた勘定台兼用の文机の前で、醒花はゆっくりと書物を繰る。一目で年代物とわかる文書は、黄ばんだ和紙を紐で綴じた代物だ。流れるような筆致で書かれた墨蹟を、男は一瞬の停滞も無く読み進んでいく。彼にとっては活字より、よほど長年見慣れた文字なのだ。のたくる蚯蚓の造形を千通り記録したような字も、醒花の目には美しく整って映る。
奇妙に落ち着く、雨音の不規則な合奏だけを聴きながら、書を嗜んでいた醒花が視線を上げたのは、こんな時刻に常宵小路に響く足音を聞きつけたせいだった。
それは馴染みある気配。よく知った者が生み出す音。人の容に似せてはいても、まるで異なる感覚器官を所持する醒花には、間違えるはずがないもの。
図らずも口元に微笑を浮かべた男は、店の引き戸が軋んだ唸りを上げるのを待った。
* * *
どこから来たのか、ぐっしょりと着物を湿らせた男は、傘を持っていなかったらしい。ここのところ連日雨が降り止まぬというのに、暢気な話である。
湿った髪を手遊びに弄ると、水滴が垂れてくる。商品を濡らしては拙いと、訪問者は焦って髪を撫で付ける。思ったより雨は激しかったようだ。雨に打たれるのも好きだとはいえ、すぐ乾く程度で済ませるつもりだったのだが。
半濡れの袖口で髪を拭った拍子に、幾滴か雫が飛んで、醒花が文机に伏せた書に、狙ったように染みを作った。
「…………見たか?」
「――見えたな」
袂を絞れば水が滴らんばかりの友へ、醒花が手ぬぐいを放り投げる。その顔が呆れ気味なのは、書に滲んだ水滴が原因ではない。自業自得の男が、神経質に濡れた着物を気にしているからでもなく、彼の手に握られている大輪の紫陽花の束が、その理由だ。
「……つかさ、それは何だ?」
「これは紫陽花だ」
「………………それは見ればわかる」
打てば響いて返ってくる、天然まる出しの言葉。慣れという有り難い宝で、脱力感を回避しながらも、小さく洩れる溜息を抑えようとは思わない。どこか養い子と通じる、率直過ぎてふざけた言葉は、彼と彼女が師弟である因果関係を思い起こさせた。
穐月つかさは、醒花にとって随分古くからの友人だ。良くも悪くも付き合いが長すぎて、淳也などに対するのとは違った意味で遠慮のない、気の置けない関係だといえる。
類が友を呼ぶ相手は、色々な意味で常識を達観した人物だ。夜中に花を持って現れるくらいは平常の内だが、包装もしていない花は買った品とも思えないし、それを濡れ鼠になってまで運んでくるとはどうしたことか。
つかさの常の住処は、大きな庭がある市中の屋敷だ。家から直接来たのなら、一日中雨が降る日に傘を忘れたりはするまい。濡れるのが好きだとしても限度があるし、家人が制止するだろう。この謎を、うっかり気にせず流してしまうと、後日とんでもない事情を聞いて、煩悶する可能性がある。
歪んではいるが球体に似た形状を作る花は、深青から赤紫まで、様々に仄かに色を移り変えていた。千差万別に移ろう彩りは、人の手で生まれる芸術品とは違う美を有する。例えば金糸銀糸をかがった鞠にも勝る、瑞々しい美しさだ。
「どうだ、見事だろう。七変化とはよく言ったものだ。七通りでは追いつかぬほどの色の変化じゃないか」
紫陽花の別名を述べながら、嬉しそうに目を細め、持参した花を自慢する。その意見自体には賛同するが、醒花が求めた事実は全く不明のままだった。
「私が知りたいのは、その見事な紫陽花の出所だ。買ってきたものでは無いんだろう?」
「うむ。とある寺の庭先から手折ってきた」
「…………何でまた、そんなことを」
どうしようもない深い沈黙を乗り越え、溜め息混じりに尋ねてきた友人へ、つかさは満面の笑みを向ける。
「ある地方に伝わる、面白い伝承を聞いてな。誰にも――何処の何者にも見咎められることなく、他人の庭の紫陽花を手折って家に持ち帰れば、その年の厄除けになり、金にも不自由しないというのだ」
「それで何故、此処に来るんだ」
「別におまえが金に困っているとは思わんが、この寂びれた店に『本当の』客が来るよう、祈ってみてもよかろう」
醒花が金を得られるかどうかは、山海堂の繁盛にかかっている。この店に客人が少ないのは、隠しようもない事実だし、数少ない客も金を持たぬイキモノが多い。つかさの意図はわかるし、好意だとも思うのだが――
「――大きなお世話だ」
そもそも店主に商売っ気が無いのが、流行らぬ理由の第一だ。
こんな通りに店を構える以上は、採算を取る意志は最初からない。ここに来る者達は、大半が訳あって迷い込む者なのだから。近頃の骨董ブームに便乗する気があれば、疾うに場所を変えている。
「わざわざ人に見つかりにくいように、傘もささずに花を手折ってきたのだぞ?」
「礼でも言えというのか」
「そうは言わんが、飾るくらいはしてくれても良かろう」
差し出された花を、肩を竦めながらも素直に受け取る。確かに雨に濡れた花は美しく、見ているだけで梅雨の鬱陶しさも薄れてくるようだ。醒花としても、紫陽花に恨みがある訳ではない――が、しかし。
「…………どこか勘違いしているように、思うんだが」
「何がだ」
「他人に見られなければ、その家に福が来るというなら。おまえがこの店に来た時点で、何か間違っていないか?」
「なに?」
男がきょとんと首を傾げる。確信犯ではなく、本当によくわかっていないらしい。自然と醒花の口調にも、呆れた気配が漂う。
「花を盗ってきたのはおまえで。そしてここは、おまえの家では無い。ならば私に――他人に見られたのだから、厄除けも金運も得られぬのでは?」
「………………そういえば、そうか」
困ったような――面白そうな。
何とも言いがたい顔をした醒花に告げられ、しばし沈黙した男は、すぐに立ち直ると、あっけらかんとした様子で、朗らかに笑ってみせた。大らか……というより、大雑把という方が正しいかもしれない。
「まあ、気にするな。どうせこんなまじないをした所で、この店の廃れっぷりに拍車がかかることもあるまい」
「当たり前だ、更に悪化させてどうする」
自棄になった訳でなく、他人事のように清々しくきっぱりと意識を切り替えた男は、醒花のぼやきを意に介することもない。この程度は何時もの言葉遊びの延長なのだ。
「まったく。花盗人が罪にならぬというのは、所詮は戯言だ。これほど見事な枝を失っては、持ち主の嘆きも深いだろうに」
「それは心配いらぬよ。その為に住職が植えたという紫陽花をもらってきたからな」
少しばかり本気で咎める気になったのを、ぬかりはないと笑って応える。
つかさの聞いた所によると、昔から人々が他人の庭を窺い、花を盗みあう姿を見かねた近隣の寺の住職が、庭に紫陽花を植えたのだという。摘まれるとわかって植えた花ならば、罪も軽くなるのだろうか?
「つまり、花盗人も罪には違いないと認識されている訳か」
「……言われてみれば、そうだな」
逆説的な突っ込みは、正論なだけに言い逃れようもない。誤魔化すように、つかさの視線が宙を泳ぐ。
「なに、忘れられかけた伝承を思い出すには丁度よかったろう」
「その挙句に、勘違いで持ち込み先を誤られては、立つ瀬がないと思うが」
苦笑したものの、それ以上の追求はしない。あらゆる意味で無駄だと悟っているのだ。紫陽花を切る前に戻せはしないし、つかさに罪悪感を求めても意味がない。
もはや何も言う気にならず、醒花は黙って花を文机に置くと、戸棚をごそごそ漁り始める。やがて彼が取り出して来たのは、青味の美しい花色の水盤だった。紫陽花の青色と相まって、涼やかな印象を与える。
せっかくの贈り物を、早く生けようと花に伸ばした手を、つかさが不意に制止する。
「待て、醒花。それは玄関先に逆さ吊りにするものだ」
「――なんだ、それは」
「伝承ではそういうものだと聞いているんだが……嫌なのか?」
慣れぬ者には見て取れまいが、醒花は微妙に不服そうな様子だった。
紫陽花は水分無しでは数日と持たない。枯れて形を残す種でも無く、散り様はいっそ無残と言っても過言ではない。今はこれほど綺麗な花も、水分を奪って玄関先に吊るしておけば、すぐに駄目になってしまう。それは酷く哀れだった。
「まあ、俗信には違いないがな。せっかくだし効き目があると信じてみないか?」
「信じる者が救われるとは限らない……嫌というほど知っているはずだろうに」
過去の幾つかの事例を思い出し、目を眇めた男達の顔が翳る。
長い付き合いの内には、思い出したくない話も数え切れないほどにある。迷信とわかって縋りたい瞬間も、確かにある。ただ、今が紫陽花を犠牲に捧げたいほど切羽詰っていないのも、有り難い事実だった。
用意した剣山を片手に花を見つめていた男から、くすくすと笑いが零れだす。
効き目の定かでないまじないの触媒としてではなく、心浮き立たせる贈り物として、花を見ると決意を固める。こじつけの理由をたった今、思いついたから。
「なあ、つかさ。誰かに見られてはいけないんだったな?」
「そうだが――ちゃんと目撃者には気をつけたぞ」
「残念ながら、初めからおまえの罪を知る者がいたようだぞ……ここに」
笑いながら指し示された先には、小さなカタツムリの姿がある。
「……彼か彼女も、目撃者に含まれるのか?」
雌雄同体の生物を見ながら、つかさは悩ましげな表情になる。人間以外は無効だと言い切れないのは、自分達もまたヒトではないからだ。
訳のわからない我が侭を言い出した友人が、そうまで花を普通に愛でたいのなら、それでも一向に構わない。喜ばせるつもりの贈り物で揉めたのでは、まさに本末転倒だ。
「さて、な。いいじゃないか、これで名分も立つというものだ。こんな見事な紫陽花を、愛でるのではなく逆さに吊るすなど勿体無い。どうだ、花を肴に一杯やらないか?」
「やれやれ……おまえ、名目を仕立てて飲みたいだけじゃないのか?」
呆れた素振りも格好をつけているだけ。互いの好みは熟知しているから、今更取り繕っても意味がない。腐れ果てた縁の長さは、断られるか否かくらい簡単に読める。
応えも求めず奥へ引込んだ家主が酒を用意している間に、つかさはどっかりと行灯の横に座り込む。薄暗い店内に有る品々には、店主の粋な好みがよく反映されていて、見ているだけでも目に楽しい。まとまりが無いようでも落ち着き有る風情は、これも年の功の一種なのやら。しんみりと夜更けに飲む場所としては悪くない。
やがて用意された徳利とお猪口には、今宵に相応しく鮮やかな紫陽花が絵付けされていた。新しい工芸品らしいが、上品でこれまた涼しげにそそる風情である。
きんと冷えた冷酒を口に運びながら、更けた夜が明ける頃まで、密やかでささやかな酒宴は続いた。多くを語らぬまま、静かに花と酒と雨を愉しむ。夜に隠れるようにして。
――紫陽花と雨音を肴に酒盃を重ねる二人の前で、雨粒に濡れた葉の上を、蝸牛がのたりのたりと動いていた。
《終》