龍門を登る

 青年は辺りを見回し、視線の有無を慎重に見定めていた。
 能天気なまでに晴れた青空は初夏の色に近付いており、遠く山を霞ませる雲の姿が見えるものの、頭の上は海よりも明るい青が広がっている。
 空の青に映えているのは、小学校の白い校舎だ。休日なので、当然のように人の気配は無い。それでも青年は、注意深く周囲を確認する。
 白いシャツに黒のボトムを履いた青年は、二十代半ばのごく普通の若者に見える。だが小学校に侵入するには、あまりに怪しい年頃である。昨今では即座に通報されても文句は言えない。
 周囲を見回し自分にとっての安全を確めると、校舎横にある非常階段を使って屋上まで登る。指定された時間にはまだ間があるはずだが――案の定そこには既に人影があった。
「――よお、早いな」
「おまえもな、篠青」
 屋上の柵近くから、天を眩しげに仰ぎ見ている女。淡い灰色のパンツスーツを着こなす長い黒髪の娘こそが、彼を――篠青を呼び出した張本人だ。
 一見すれば篠青と同年代の娘。尻尾や角も見えていないが、彼等の付き合いは人間には測り難いほど長く深い。つまりは彼女も篠青の同類項のイキモノである。
「こんな時間に悪いな」
「いや、椿のお誘いならいつでも大喜びで来るけどさ」
「――風の使い手に、頼みたいことがあったもので」
「おまえ、無茶苦茶さらっと流したな……いいけど」
 満面の笑みで愛想良く応えたというのに、呆気なく無視される。悲しくはあるが彼女が――椿がつれないのはいつものコトなので、篠青も延々と嘆いたりはしない。
「こんなとこで、何をするんだ……ってか、何だソレ」
「鯉だ」
「…………あー……そうみたいだな」
 指差されたモノを、女は大きく掲げてみせる。
 却って率直過ぎる返答への反応に困り、篠青は思わず口ごもった。
 きっぱりはっきりわかりやすく目の前で広げられたのは、いわゆる『鯉のぼり』だ。それも一番大きな黒い鯉が一匹だけ。大きな真鯉のお父さん、という奴である。
 今時らしいナイロンその他の化学繊維製品ではなく、木綿に手描きされた年代モノ。サイズも平均より小さいし、何度もゴシゴシ洗われて来たのか、色あせてボロボロで……はっきり言ってしまえば汚い。
「PTAが子供達の為に寄付金を募って、新しく大きな鯉のぼりを購入したそうでね。このボロキレは不要になったらしい」
「んじゃあ、燃えないゴミにでも出せばいいじゃん」
「――ゴミに出すなら、可燃物だ」
「………………まあ、な」
 ところによっては粗大ゴミだ、などとのたまう女は限りなく真面目な様子だが、天然にボケているだけではない。
 その瞳の奥に揺らぐのは、微かな嘆き。大切にされて来た品が、一瞬で新しいモノにその場所を奪われ、打ち捨てられることへの憤りだ。
「これから何をするのかはわかった気がするけどさあ――鯉のぼりの供養ってのは、お前の担当分野かあ?」
 人形供養はよく聞くが、鯉のぼりを供養する話は少ない。寺に頼んでも引き受けて貰えぬ場合も多いという。地域によってはまとめて河に流したりしているらしいが……
「どちらかといえば専門外だな」
「そうだよな、そりゃ坊主の仕事だろ?」
 こくりと頷き同意しつつ、娘の視線が手元に落ちる。
 鯉のぼりのボロボロっぷりは相当なものだが、耐久年数を考えれば非常に大切にされて来のだとわかる。だけど子供達は新しく大きな鯉に喜んで、きっとすぐ古くて小さな鯉を忘れてしまうだろう。それが哀れでならない。
 無意味な感傷と思いつつも情動に流されてみせたのは、自分もまた古くから在るイキモノだからかもしれない。もう要らないと言われる辛さを知っているから。
「ここの校長としては、長く使われてきた鯉を適当に処分するのは忍びなかったらしい」
「ふうん……いいコトだよな、そりゃ」
 それでどうしておまえの所にたどりつくのか謎だけど。
 呟かれた当然の疑問には、女としても首を傾げるしかない。いかなる経緯で自分にお鉢がまわったのかは、いまいち不明だ。
「よろず禍事引き受けます、だったっけ」
「何でも屋ではないけど、たらい回しにするにも忍びなくてね」
 ぽろりと洩れたのは、偽りなき本音だ。
 日頃から妙な仕事を引き受けてはいるが、彼女の生業はもっと物騒な厄介事の解決である。本来は陰陽の理を操る術士であり、妖を退けるのが本業なのだ。この件は彼女の職分を逸脱している――というか、むしろ職務に反している。
「こういう付喪を宥めるのは、むしろ醒花の専門じゃねえのか?」
「あのひとが得意な分野ではあるだろうが……なんだ、おまえは協力するのが嫌なのか?」
「そうじゃねえって! 単にあいつのが役に立つかなとか……」
「頼めば、手伝ってくださるだろうけどね」
 肩をすくめた女の言葉からして、一考したものの協力の要請はしなかったらしい。
 歳経た器物が妖と化したる付喪神に関わる話ならば、醒花の助力も望みやすい。が、コレは未だ古くてぼろぼろなだけの布きれだ。
「私にとっては仕事でも、醒花にとっては趣味なのだろうし」
 彼は興味の湧かない話には関わりたがらない。
 きっぱりと言い切る女は、結構ミもフタもない性格をしている。
「おまえさあ、仮にも養い親に対して容赦ないよな」
「確かに、おまえの方が彼に余程遠慮しているとは思う」
「だって怖いじゃねーかよ、あいつ」
「…………ノーコメントだ」
 限りなく脱線していく会話を切り上げ、椿は空の具合を確認する。見晴かす先には、彼女の思惑通りの雲が涌き起こっていた。
 何をするのか肝心なところを聞いていない篠青は、訳がわからず空を眺め、鯉を眺めて怪訝そうに首を捻るばかりだ。
 僧に頼んで経をあげるも、いっそ燃やしてしまうだけでも。
 古びた鯉を浄化するだけなら、どうしようと問題はない。
 校長にとっても、単に気持ちの問題なのだろう。現場に立ち会うでもなく、知人に紹介された胡散臭い女に任せた時点で、彼の中の整理はついたらしい。だからこの先のお節介は、純粋に椿の気持ちの問題だ。
「……なんの因果か私の元に来た以上、私の流儀で送ってやろうと思ったまでだよ」
「おまえのやり方で?」
「――私達にしか出来ぬ方法で、ね」
 鯉を、丁寧に屋上に広げて。
 視線を上げた女はにやりと――いささか人のよくない笑みを浮かべる。
 それは彼女の養い親と同種のモノで、こんな時は親子なんだなあと実感させられる。言ったら当分口を利いてもらえぬだろうから、絶対に内緒だが。
 彼方に見える雲を指し、彼女は尚も微笑む。
「あれは滝雲。鯉の門出に相応しき代物だ」
 山の向こうからの雲は、山頂の急斜面を滝の如く滑り落ちてきている。
 まさしく名前の通りに滝のようにも見える、大きな白き奔流。雲の大半が水分であると考えれば、まさしくアレは天空にある滝ともいえるのかもしれない。
「なるほど……滝を登りし鯉は龍へと変ずる、か。歳経た鯉に相応しい行く末だな」
 謎めいた女の言葉の意図を、風の使い手たる男は正しく察する。
 おもむろに振り上げられた彼の右手を取り巻くように、白い光が乱舞したかと思うと、生まれ出でた風が激しく屋上に吹き荒れた。荒ぶる風は二人の衣服と髪を乱すが、鯉はぴくとも動かない。篠青の意図の下に、大気は完璧に制されている。
 そして閃く指先と、かそけき囁きの命ずるままに――宙へ、青々とした大空へと、鯉は静かに舞い上がる。
 大きく口を開き、風をはらんで。
 彼方へと強く優しく吹く風に乗って。
 鯉はゆうらりと泳ぎ始める。真っ青な大河の中を、どこまでも。明るく広き青河の先に見える、登るべき関門へと向かって。
 緩やかに送られ続ける風を感じながら、段々と小さくなる姿を二人は黙って見守った。
 校区の子供達は見ただろうか。長きに渡り、自分達を……子から親、その更に親までも見つめてきたモノが綱から解き放たれ、自由に天空を泳ぐ姿を。
 やがて至る滝に似た雲を、風の後押しを得て力強く登る果て、白い瀑布に呑まれて消える最期の瞬間に、天地を繋ぐ閃光が走る。
 龍身を思わせる晴天の霹靂に眩む目を閉じて。
 やがて再び仰いだ天に、優雅に雲間に遊ぶ龍の姿が見えたのは――幻であったのか。


『龍門を登る』
 俗に言う登竜門。中国の故事に由来。
 黄河の急流に《龍門》という難所がある。
 その流れは厳しく、どんな魚も登ることは出来ないと言われているが、時に龍門を登った鯉が龍に転生すると伝えられている。


2004/05/09脱稿
2005/07/01改稿
2006/05/25改稿


山海堂談義