卯月・櫻の樹の下には。 <後>

 櫻の樹の下には、死体が埋まっている。
 櫻の樹の根元には、鬼が棲んでいる。
 櫻の樹の上、その梢は――神の坐す場所だ。
 それは遠い遠い昔から、ずっと伝わるおはなし。


*     *     *



 振り返っても其処にはただ、風に花が舞うばかり。
 遠く聴こえていたはずの歓声も途絶え、宵闇と静寂だけが世界を満たしている。
 薄青に染まり始めた櫻花は、逢魔ヶ時に華やぎと畏れを添えていた。
 見晴かす内にどちらから来たのかもわからなくなって、淳也は途方に暮れる。
「これも遭難っていうのか…………?」 
 あまり上手くもない洒落を口にして、ぞっと震えが走る。
 この異界の夜を、独りで過ごすのは御免だった。
 あまりに遅くなれば醒花が探しに来てくれるだろうが、珍しくも知人と旧交を深めている様子だったから、自分を忘れている可能性がある。さすがに一人で帰ってしまったりはしないだろうが、彼の気が済むまで待っては夜が明けてしまいそうだ。この世界の夜がちゃんと明けるのなら、だけど。
 遭難時の救出を待つ基本はじっと動かないことだとは思う。しかし、そもそも迷子だと認めるのも気恥ずかしく。 
 つい闇雲に歩く内に周囲は益々暗くなり、宵を迎えて紺青へと染まっていく。
 時折、思い出したかのように洋燈が枝から下がっており、此処もまだ管理された領域の内であると物語っていた。
 静謐なる青の世界に浮かぶ花は青白く色を変えて、白い火を放つかのようだ。
 白い燈火にも似た花は、闇に浮かび上がって見える。
 遠目にも巨大さが目立っている一本の周囲でゆらゆらと動く影に気付いて、少年は安堵の息を吐いた。
 静かに夜桜を愛でる者達が、あの見事な大木の下に集っているのだろう。宴会を好まぬ者、夜を愛する者がいるとするなら当然だ。この夜の領域では、その桜は最も美しく目を惹いたから。
 恥ではあるが、醒花の名を出せば、山海堂の所在を知る者がひとりはいると思う。昼の領域にある出入りに使った大樹の根元へか、山海堂か――いっそ京都にでも送ってもらえば良い。独りで戻る自信は、ちょっとない。
 醒花は相当顔が広い。彼のところの者だと言えば、そうそう妙な悪戯もされまいと。
 情けなさの上塗りとは思いつつも背は腹に変えられぬと心に決めて、足を速める。こんなところで夜明かしするなど、洒落にもならない。下手をすれば、本物の猛獣……どころか妖が出てきて化かされて喰われてしまいそうだ。
「…………およし。それ以上あちらへ行くものではないよ」
 ぞくりと身を震わせた淳也が飛び上がる。いきなり背後からかけられた声は、だがどこか覚えあるものだった。
「おまえさんは客ではないからね。一度だけ忠告しよう」
「あんたは・・・・・・亜聖、さん?」
 煙管を吹かして薄らと微笑う女は他ならぬ、この花の領域の主人だった。
 先程会ったばかりなのに、随分前の出来事だった気がする。それだけ濃密な時間を過ごしたといえようか。彼女はいつでも突然現れて、心臓に悪い。
 とはいえ、ここには誰より詳しいはずの人物に会えて、ほっと息を吐く。そんな淳也を見て、女は意味ありげに笑みを深めた。
「どうあっても、こちらに来てしまうんだねえ」
「こちらって……別に俺は夜桜が好きって訳じゃないですけど」
 何を言い出すのか警戒して、微妙に焦点をぼかしてみる。亜聖はくっと喉を鳴らして唇を歪めたが、誤魔化しに退こうとは思わなかったらしい。
「おまえさんは、本来なら私の店を訪れるはずだった。迷いの闇に惹かれてね。だが、あのお節介な男が、あんたを自分の領域に引き摺りこんだのさ」
「お節介って……醒花のことか」
「そう。何処を気に入られたのか知らないが、厄介なものに見込まれたもんだ……永遠に闇でまどろむ幸せを奪われたおまえさんには、深く同情するよ」
「なんてゆーか………………そんな幸せは、いらない」
 限りなく嫌な言われ方をして、思わず眉を顰める。はっきり意味がわからぬが、非常に危険な発言だとは理解できる。自分が侵さざる領域まで来てしまっていることも。
「――ここの名を、知っているだろう?」
 歌うように告げられた言葉は、容易く柔らかい少年の心を絡めとる。迷い悩む傷口から優しく侵入して、蝕み腐らせていく。
「燈明とは、闇を照らす智恵の光を指す。無明の闇を抱えた者だけが、この店を訪れる」
 だが其れは、救いの光は無条件に与えられるものではない。
 客人は、選ばねばならぬのだ。
 光に照らし出された道を。
 己の求むるものを。
 其れが出来ねば、どこまでも深き真の闇に、呑まれ喰われて果てるしかない。
「未熟なものは、迷い晴れぬものは、闇から還ることは出来ない――今、おまえさんがあの先に辿り着いたとて、帰路は見出せぬだろうよ」
 彼方に見える、櫻の樹の下には。
 其処に棲まう権利を持つのは、義務を負うのは鬼か死者か。迷える生き物ばかり。
 其処に在るのは、無限にして夢幻。
 花の狂気を受け入れて、それでも意志を保てる者だけが、帰還を許される。
「おまえはあの闇に飲まれるほどの絶望を持ってはいない」
 響く言葉は託宣のように、じわじわと忍び寄る闇のように。
「だが、あそこから還り来ることが可能なほどの光を持ってもいまい」
 吹く風に散る桜に隠されて、その表情がはっきりと見えなくなる。それでも不吉を言祝ぐ口元だけが、鮮やかに浮かんでいた。
「願わくば、花の下にて春死なん……ってね。偉大なる歌人にして僧籍にある男は、遥かな昔にこう歌った。その花とは櫻……山桜だろう。花と葉が共に在る種の桜で、あれもたいそう趣き深い。だが、今の世に桜と言えば、多くは染井吉野を思い浮かべる。華やかに薄紅の花だけが咲くこの桜をね」
 見上げれば、そこには満開の桜。
 紺青の空を背景に、白い花弁は繚乱と盛り、豪奢に耐え切れぬ様にはらはらと花を零す。
 闇に浮かぶ花はどこか青白く。
 其の幽玄は恐ろしくさえあって。
「花が咲くも散るもお前次第よな」
 遠く近く聴こえる声は、惑いを生み、恐怖を誘う。
 その恐ろしさこそが、自分が人であるという証なのかもしれなかった。
 ここは人間の立ち入るべき場所ではないと……そう、悟る。
 だが、己は。
 闇の姿を見通し、異形の声を聞き、人外に混ざる己は――果たして『何』なのか。
 櫻の下に埋まるものは(櫻の下で誘うものといえば)死体に(死者に)決まっている。
 あんなに華やいでみえるのは(あんなに恐ろしくみえるのは)
 これほど美しく咲くのは(まるで魂が抜かれそうなのは)
 その下に、とびきり醜いものを(とんでもなくおぞましいものを)隠しているからだ。
「華やかに晴れやかに……咲き匂うその下に、隠された闇を誰も窺うことはできない。己の心の奥に在る森に棲むものは、誰にも窺い知れぬ」
 正体の知れぬ女の微笑み。
 その形はなんと美しく、人を越えて恐ろしく…………ぞっとする。
「わかっているぞ。おまえは自分の力を疑ってはいない。異形の存在をも信じてしまっている。だが、己が正気かどうかは確信が持てぬのだ。すべては狂気が生み出したのではないかと、そう考えずにはいられない――」
 後退さろうとも逃げ場は無く。
 自分が生唾を飲み込む音が、やけに大きく響いて聞こえた。
「何を迷う必要がある。狂気に身を委ねてしまえばいい。自分がとっくに狂っていると、知っているのだろう。これほどまでに、在り得ぬものに囲まれながら、己が正常だと思っているのか――?」
 なんて図々しい。
 なんて――――愚かしいこと。
 無いはずの幻が見える自分。在り得ぬ世界に佇む自分。
 ああ、いつのまにこんな処にまで来てしまったのだろうか。
 ああ―――いつのまに、壊れてしまったのだろう?
 落花に覆われる地に、ふらふらと座り込み、茫然と女を見上げる。
 其処に狂気の具現を見出して、少年が声にならぬ悲鳴を洩らした時――――
「…………淳也?」
 呼ぶ声に振り返れば、桜吹雪の中に立つ男。
 手をかざして風を防ぎ、白い世界に紛れそうなその姿は、目を射るほどには眩くはなく、さりとて闇に沈むことなく。
「こんなところまで来ていたのか――探したぞ」
 自然と浮かんだ表情には、安堵と喜びが混じっていて、心配してくれたのだと、はっきりとわかる。
「さあ、かえろう」
 帰ろうだったのか、還ろう、だったのか。
 微塵の迷いも無く差し伸べられた腕は確信に満ちている。
 人間だから迎えに来たのでも、妖だから助けてくれるのでもなく。
 自分を探して此処まで来た男に、安心して。
「…………やれやれ、残念だね。オトモダチが増えるかと思ったのに」
「亜聖――何をするつもりだった?」
「――――別に」
 余裕たっぷりに煙を吐き出す女は、くつくつと笑いながら淳也へちらりと視線を流す。
睨み付ける醒花を横目にして、素知らぬ顔で。
 心の奥底に隠した深淵を覗かれる心地に、総毛立つ思いがした。
「迎えを拒むほどに、おまえは絶望してはいまい。急かずとも、いずれおまえはあちら側へ渡る時が来るだろうよ」
 それは櫻の預言だ。
 淳也がいずれ、燈明を求めて再訪し、その果てに彼方の地へと骨を埋めることになろうと――死を告げる言葉だ。
 女の微笑みに何一つ言葉を返すでなく、醒花は身を翻す。差し伸べ、掴んだ腕を離さずに。応えを持てぬ少年も、黙ったままで微かな一礼を残して男に続いた。
 混乱と共に思索に耽る内に、いつしか周囲は能天気なほど明るくなって、真っ青な空がどこまでも広がっていく。振り返れば夕闇の奥の夜は届かぬ遠さで、望まれぬ闇はひっそりと息を潜めていた。
 気がつけば、どこまでも晴れた空の下、桜も晴やかに咲き誇っている。
 うきうきと宴に酔う者達に声をかけられ、酒だ食事だと勧められるままに応えてしまったのは、淳也が流されやすいのか、醒花があまりにも何も無かった素振りを貫いていた為なのか。
 興味深げに囲まれて、戸惑いながらも馴染んでいる少年を見て、笑う者達がいたことに、本人は気付かなかった。口でどう言おうと、悩んで頭をぐちゃぐちゃにしていても、その行動は呆れるほどにわかり易いのに。
 尤も、自覚し認められるかどうかが、一番難しい問題なのかもしれない。
そして いつまでも暮れぬ世界に遊んで時を忘れ、腕時計の針にぎょっとして立ち上がった少年は、帰り際の大樹の根元で、もう一度彼方を眺めずにはいられなかった。
 この昼の安らぎと明るさの向こうに、無明の闇がある。ここからは見えずとも、其れは間違いなくあの場所に在り、ゆっくりと広がり続けている。
 いずれ狂気の淵に呑まれるのか。
 それとも、とっくに狂ってしまっているのか?
 何もかもを受け入れ――今を笑って語る日が来るのか。
桜の花を見るとき、華やかさを想うか、儚さを嘆くか、清楚さに感じ入るかは、それぞれの感性に拠る。
 ならば己は一生、狂気と畏れをもってこの花を見つめ続けるだろうと……恐ろしい確信をもって天を仰ぐ。頭上に咲く、満開の花を。
 それでも美しいと。
 そう想ってなお、何と美しい光景なのかと……今日を限りと舞い散る花を、目に焼き付けずにはいられなかった。



《終》