感性というものが、育つ過程で培われるならば。
桜という花は、この地の住人の多くにとって特別な位置に在るに違いない。
はらはらと舞う落花に華やぎを見るか、儚さを嘆くか、潔さを讃えるか。
募る想いは、見る者によって異なるとしても。
* * *
「……………………で。今回は、何が起こったんだ?」
気がつくと、そこは一面の桜の園だった。
周囲を見回せば、四方に果てしなく続く桜の群生。
染井吉野や山桜や枝垂桜や……時期を異にして咲くはずの品種までが、一斉に咲き誇っている。他にも様々な種があるのかもしれないが、淳也に区別出来るのはその程度だ。
やや盛りを過ぎているのか。
満開の花は、爽やかな風が吹く度に、はらはらと散っていく。
地面までもが一面の薄紅に染まっていたが、それでも花は尽きる気配もなかった。
振り返れば其処は桜の巨木の根元で、こうなると驚く気にもなれない。醒花に付き合っている内に、イロイロと感性が麻痺してしまった。
己に見えているモノすらわからぬ振りで、レンズに守られた世界を信じると決めたのに。
そんな決意など吹き飛ばす勢いで、神秘は我が身に降りかかってくる。
ぼーっと彼方を見つめたくなっても、どこまでも遥か遠くにまで桜の木々が続いているようで、果てが全く見えない。
「桜を観ようと、言っただろう?」
悪戯っぽい子供のような微笑みは、無邪気に見えて邪気に満ちていると思う。
悪意は感じないと言っても、いつか驚きに心臓が止まるかもしれない。他人事のように不穏当な物思いに耽りつつ、開き直って夢幻の如き世界を堪能する。するしかない。
さすがにパニックを起こして錯乱する時期は過ぎてしまった……思い返せば、出会いの時から、妙なことに散々巻き込まれつつも、立派に耐えている自分を褒めてやりたくなる。 自画自賛は空しいが、醒花に褒められると逆切れ――もとい、正当な権利として切れたくなってしまうし。自分の悩みが、馬鹿らしくなってしまうのだ。
彼と出会い話す内に、世界を狭く確定したい己の労苦に意味を見出せなくなる。
「――こんにちは、醒花殿」
「おや醒花翁……ここでお会いできるとは」
花の森をそぞろ歩けば、にこにこと寄って来る者達が複数。
どの顔も親しげな笑みを浮かべ、非常に嬉しそうだ。
久しぶりに会う友人との会話を邪魔したら悪いかと、淳也はやや歩調を緩めた。
もうひとつには、近寄ってくる面子がどうにも人間を辞めてそうだったから、というのもある――というか、人間やってたことなど無いのだろう。あんな角とか、尻尾とか、翼とかがついてるならば。
そこに混じって楽しそうに笑う醒花は、姿はまるで変わらないのに、その顔はまるっきり違って見える。仮にも人に混じる生き様を忘れ、妖しきモノとしての本能を思い出したかのように。
そんな意識で見てみれば、先程とうってかわって、彼の容姿も凄艶にして麗しく、妖美をまとって想えるのだから勝手なものだ。
何処までも桜が広がる明るい世界は、人影の数に対して花木の数の方が圧倒的に多い。
根元に座して花見を楽しむ者もあり、酔って騒ぐ声も聞こえるが、少し奥に入ればしんとした静寂に支配されていた。目に付く妖を避けて、淳也は独りで道を逸れる。
盛りを越えた桜花は、少しの風が吹くたびに花びらを降らせる。
どこか淡い色の春の青空は、やがて白みを帯びた霞のかかる空へと移り変わる。
賑やかな声が遠くなるにつれて、空までが陰鬱な気配を帯び始めたようだった。
段々と薄暗くなる周囲に、それほど時間が経ったかと驚き、少し心細くなって背後を振り返れば、そちらは明るく輝いて見えた。どうやら出てきた大木を中心として、時刻が移り変わっているらしい。
これだけの桜を静かに鑑賞する機会など、滅多とあるものではない。開き直って夜桜をも楽しむべく、散策を続行する。
桜の木の下には。
――あの木の下には、死体が埋まっているのだという。だからこそ、あんなに美しく咲くのだと。
醜いものを地面の下の見えないところに隠してしまわなければ、全て消し去ってしまわなければあんなに美しくは――畏ろしいほど麗しくは、きっと咲けない。
華やぎを湛えた清楚な花の下に、腐り始めた汚物が在る幻視に、背筋がぞっと冷える。
ここが商店街の一角なら――名の知れた花の名所なら――人が住まう地ならば、そんな白昼夢を見ることは……信じることは無かった。悪い冗談だと、笑って済ませただろう。
だが、此処は異界だ。
人ではないイキモノが、人の見るべきではない花を愉しむ位相だ。
ならばその花の美しさは、その花のおぞましさ故に生まれたのだとしても、誰が否定できようか。
「――よう。おまえ、山海堂の新入りだな?」
立ち止まる淳也へ向けて、声は上から降ってきた。
そちらを向くものの、人影はない。いるのは黒い猫が一匹だけ。
どこか見覚えがある気がして、記憶をたどる。思いあたるソレは心地良いものではなく、淳也は眉を顰めた。
おそらく燈明閣の前にいた猫だ。イイ根性をした猫だとは思っていたが、この猫もアレなのだろうかと……どうにも人外入ってそうな醒花の知人達を思い浮かべつつ、ちょっと現実逃避したくなる。尻尾が二股に分かれてはいないが、口を利くだけで充分ヘンだ。
異形に会うのが恐ろしい訳ではなく、己が着実に状況に慣れてきたと自覚するのが嫌だ。人として、そんなことで良いのか。
「なーに間の抜けた顔してんだよ」
そして。
やはりというべきか、黒猫が口を開く。先程と同じ、聞き覚えのある声。
チェシャ猫のようだ、と思ったのは現実逃避の一環であり、自分が異世界に紛れ込んでしまったアリスのような気分だったからだ。自分はかよわい少女くでもないし、あそこまでハチャメチャな世界に紛れたとは思いたくないが……あんなとこに迷い込んだら、生死に関わる。アリスが無事だったのは、多分に運が良かったせいだ。
自分の運は良くない。要領も良くない。自覚があるだけに、淳也は身構えた。この警戒心こそアリスとの最大の違いかもしれない。転校人生で苦労を重ねてきた少年は、他人に即座に気を許すほどお人好しではなかった。しかも相手が喋る猫だったりした日には、誰が落ち着いていられるものか。
「あの醒花がニンゲンを雇ったっていうから、どんな奴かと思ったら。おまえみたいにトロい奴だとはな」
「……なんだと」
「この篠青様に、ご馳走してくれた時の顛末を忘れてはいねーだろうが」
長い尻尾をゆらりと揺らし、黒猫が嘲笑う。
しなやかな体躯から受ける優美な印象とは異なり、性格の方はかなり難があるらしい。チンピラを連想させる態度は、非常に不愉快だ。
醒花から教わった『しの』の名との相違が気になったが、『篠青(ささあお)』が口にしたのは、あの猫と自分しか知らぬ事柄だ。
哀れっぽく鳴いて、餌をくれと媚びる姿が思い出される。
艶やかな黒い毛並みと琥珀の瞳の美しさに負けて、立ち止まった結果もたらされた惨状。生存本能に端を発する恨みを忘れてはいない。さほど拘ってもいなかったが、相手が知恵ある獣だとわかった以上は、却って怒りが再発する。
「で、おまえは何が出来るんだ?」
「…………何のことだ」
「あいつがただの人間を雇ったりするかよ」
あっけらかんと言い放ち、ずいと枝先から身を乗り出す。落ちる直前まで首を伸ばして淳也の顔を覗き込むと、にやりと口元がつりあがった。種の異なる獣であっても、はっきりとわかる変化。確信深きその表情。
「ああ、その瞳か……おまえ、人から生まれた癖に人間じゃないな」
眼鏡を取らずとも異端とわかるイキモノは、自分の素性を棚に上げてそんなことをいう。
含み笑いに混じる納得の色が、無性に腹立たしい。
この瞳が無ければ自分に価値はないと、醒花が気に入ったりしないと。この獣はそう言っているのだ。自分が(人間が)忌むモノだけしか必要ではないのだと。
「なるほどな。あいつがタダの人間を雇うわけねぇよなあ」
「――大きなお世話だ!」
ふいと身を翻して、淳也はずんずんと歩き出す。無性に腹が立つのは悔しいのか、哀しいのか。自分の感情すら把握できない。
「・・・・・・って、おい。待てよ!」
背後からはまだ何か声が聞こえていたが、無視して聞き流す。
行く手には、ひっそりと夕闇が忍び寄っていた。
* * *
花見の酒宴はいつ終わるともなく続いていた。
刹那の美を愛でるために訪れた者達は、それぞれの趣向で花見を楽しんでいる。
ぽつりと賑わいから離れて在る者もいれば、花より団子と食べてばかりの者もいる。
久しぶりに会う顔も多いのは、ここが全く人間の目の無い異界で、気兼ねする必要がないからだろう。故に異形達が数知れず集い来るのだ。日頃は闇に潜む生き物達は、春の淡い青空の下で、のんびりと花鎮めに興じていた。
醒花もまた幾人もの旧友に声をかけ、かけられて目元を和ませていたが、挨拶を済ませると、迷うことなく一本の樹の下へと向かう。
一際見事なその大木の下には、和装の男がひとり。人ごみの中心から離れ、悠然と花見酒を楽しんでいた。幾つかかかった醒花を宴に誘う声も、彼の行き先に気付くと静かに消えていった。彼が其処へ歩み寄るのが、至極当然だといわんばかりに。
幹を背にして、すぐ横に黙って腰を下ろした醒花に、相手は何を言うでもなく。
重箱を開いて花見の用意を整えた醒花へと、そっと差し出されたのは漆塗りの盃だった。受け取ればすかさず注ぎ込まれる酒は、心地良い芳香を放っている。彩り鮮やかな弁当にも、当然のように取り上げた箸が伸ばされ、遠慮なく肴が消費されていく。
無言のままに通じ合い、穏やかにして親密な空気が漂う。淳也が見れば驚き、好奇心がそそられたろうに、彼はここにはいない。独りでそぞろ歩きと決め込んだ少年は、未だ人とは異なる存在を、素直に認める気にはなれぬらしい。
見る瞳、聞く耳を研ぎ澄ませておきながら。その能力を自然と身につけながらも、異端を忌避する心はそうと認めない。自分達は確かに此処にいるのに――――
いつしか手が止まり、盃の中に花弁が浮かぶ。
ぼんやりと其れを眺める醒花を、隣からじっと見つめていた男は、密やかに微笑んだ。
「――にしても、おまえに目をつけられるとは気の毒に」
「どういう意味だ、つかさ?」
花見酒が過ぎたのか、相手の頬はほんのりと赤い。
しかして絡む口調は酔いというより、生来の性格からくるものだ。遠慮をするような可愛らしい仲ではない。
「――噂には聞いていたよ。おまえが燈明に導かれた者を己の店に招いたとな」
まぎれもない真実の言葉だったから、応えを返しはしない。いつもなら放っておくだろうに、あの少年を引きとめたのは、確かに自分だ。
「柄にもない親切、いやお節介だな?」
からかい混じりの質問。答を求める疑問に、慎重に言葉を紡ぐ。己の意図が歪みなく伝わるようにと。
「彼は迷っていたからな――見えるモノを拒絶し、見えない振りを貫くと決めていれば、私は関わらなかっただろう。もしくは積極的に妖に関わろうとしていても、私は自ら近づこうとは思わなかっただろう」
淳也は自分自身の能力を嫌っていたのに、在り得ないと思いたがっていたのに、異形そのものを排斥してはいなかったから。
「だが彼は、未だ己の採るべき道を迷っている。人の子がいつからか在り得ぬと言い定め始めたモノを受け入れられず、かといって拒みも出来ずにいる」
ごく『普通の』人間であることを望みながら、己の目で見たものを信じたくもある矛盾。
「だから見せてやろうと思ったのだ。美しいものも、畏ろしいものも、醜いものも、清らかなるものも・・・・・・確かに在るのだと証明してやろうと」
少年の為を思いながら、それだけではなく。
自分を含めた生き物達の、存在を賭けて。
見える才が有りながら悩む者から、最も簡単な道を奪ってみせた。逸らそうとする眼前に、真実を突きつけた。
我等は此処にいると。幻でも虚言でもなく、確かに此処にいるのだと――
「狭間で立つものを、こちら側に引き込むつもりか?」
「いいや。私は選択肢は示すが、如何なることも強制するつもりはないよ」
忘れるなと。目を閉ざすなど許さないと。
目の前に立って宣言はしてみせよう――けれど、それを受け入れる度量があるかは、感知するところにない。ましてや妖の傍に誘いはしない。
「可能性だけは示して、行方を導くことはせず、か。おまえらしいが、途中で潰れぬよう気をつけるようにな」
本人が聞いたら絶句して、口をぱくぱくさせそうな問題発言をさらりと言い放つ。直後に盃を干す男としては、まるで問題ない会話の流れなのだろう。
「…………おまえも相当に失敬な男だな」
「だってなあ、強引に道を定めてしまえば、楽になれるだろうに」
「馬鹿なことを。人形などいらないよ、私は」
拗ねたような呆れたような、微妙な顔で酒盃を仰ぐ男へと、友もまた似通う色を向ける。
結局はこの男は確信犯なのだ。
あの少年が異形に怯えぬように、重みに潰されぬようにと注意をはらっている。一息に押し寄せる情報に混乱し、流されて狂わぬように、素知らぬ振りで手を出しているのだ。
それが、少年にとって幸いなのかは――本人が決めるべき事柄。個人的に感想を言うなら、最悪の事態ではなくとも、最善の状態かは疑問だ。
「頼りない友人へ助言しているつもりなのだがね。ほら、そろそろ迎えに行って来い。帰り道がわからんだろうからな」
追い立てるように酒盃を引っ手繰ると、醒花は小さな溜息と共に立ち上がる。
櫻の群れへとゆらりと消え行く男の足取りは、過たずある方向へと向かっていた。視線を向けぬままに確かめていた、少年の背が見えなくなった方へと。
* * *
微風に花弁が舞い落ちる。
束ねても乱れる長い黒髪を耳元で押さえながら、醒花は花降りしきる中をゆっくりと進んでいく。花びらの終焉は視界を奪い、先行きを阻む。
しかし男は少年の後姿を見た記憶と、微かに残された気配を手繰り、着実に少年を追っていた。
足を止めて桜の梢を見上げる場所は、まさしく淳也が猫に呼びかけられた大木の前だ。
さすがに位置までも察した訳ではなく、その樹上に見知った気配を感じたが故に、男は落花に紛れる小さな身体を見上げる。
「――しの。ここを少年がひとりで通らなかったか?」
「あ〜……通ったかもな」
そこに在る一匹の猫――そう見えるモノの正体を、醒花はよく知っていた。
当の猫の態度は妙にそわそわして落ち着きがない。呼ばれるまで顔を見せないのも、珍しいことだ。まるでこっそり隠れていたつもり、だったかのように。
「どちらへ行った?」
「えー…………そっち、だったかな〜」
尻尾で指し示された方角へと顔を向けた男は、そのままの姿勢で目を眇めて黙り込む。
黒い猫は、落ち着かぬ仕草でそわそわと周囲を見渡した。まるで逃げ場を求めるかのように。
「…………篠青?」
普段呼ぶ、愛称ではなく。
真の名での呼びかけに、猫はびくりと身を震わせる。
「お、おう」
「あちらに何があるか、知っているな?」
問い掛けは疑問の形をとってはいるが、その前提でもって詰問しているに等しい。
にこやかな表情で咎められ、小さな獣の耳は、怯えたように伏せられた。
「何故止めなかった」
「いや、だってよお……」
「止められぬ訳があったか? 彼が私の手伝いをしてくれている人間だと、わかっていたはずだ」
畳み掛けられる勢いに飲まれて口ごもる姿は、やましいことがあると力一杯白状しているようなものだ。
「山海堂の従業員に――私の庇護下にある者に、何をしたんだ?」
「今日は何もしてねえよ!」
「…………今日は?」
微妙な言い草に、醒花の声の音程がこれまた微妙に下がる。
凄まれてようやく、己の口で禍を招いたと気付き。焦った黒猫は言い訳のために更なる穴を掘った。自分が死後に埋まるに十分な穴を、ざっくざっくと。
ひとはそれを、墓穴という。
「こないだ肉マンをちょっと奪っただけだって!」
「…………なんだと?」
「やー、猫の姿の時に哀れっぽく泣いてみせたら、持ってた肉マンをちぎってくれようとしてさあ。腹減ってたんで、手に持ってた大きい方を貰ったらすっげー悲しそうたったってゆーかあ」
「――貰ったというのは?」
「つまりぃ、食いついてかっぱらったんだけどな」
「…………………………」
朗らかとすら呼べそうなホホエミを浮かべながら、醒花は沈黙した。当然のようにその目は笑っておらず、だらだらと冷や汗を流しながら篠青は長い静寂に怯える。
さほど酷いコトとも思わなかったが、今でも思わないのだが、ちょーっとマズかったかと考えないでもない。お腹の空いた野良だと思って餌をくれようとしたんだろうに、言葉が通じるのを隠して騙くらかした訳だし。
「――しの。ここはゆっくり眠るには良い場所だと思わないか?」
「へ……そうか? まあ、あったかくなって気持ちイイけどな」
「願わくば桜の下で死にたいものだと、風流人ならそう思うものだ」
「俺はそこまで風流じゃないかな〜とか………………」
はははと笑う猫の声は、段々と風に紛れて小さくなっていく。
「――俺に死んで詫びろと?」
冷や汗をダラダラと垂らしながら反問した青年に、あくまでも醒花は穏やかな表情で微笑み続ける。まるで他意の窺えぬ様子で。
あまりの穏やかさに、篠青は更にぐだぐだ言い募るのも怖くて黙り込んだ。さすがに命を賭けるほどムゴい要求はされないと思うが、これはかなり怒っている。やばい。
そのまま何も言わずに身を翻した男は、背後に残された青年の泣きそうな気配を感じつつ、淳也が向かったという方向へと歩きだした。
――暗き夜の領域へ。闇の属が支配する時間へと。
《続》