卯月・櫻の樹の下には。 <前>

 山海堂では、並ぶ商品まで普通ではない。
 何しろ勝手に動き出す。互いに喋るし、挙句の果てには手入れが悪いと文句をつける。
 アルバイトを始めた当初はそんな珍事は稀だった……というか、滅多に起こらないから『珍事』だったのに、最近はうるさくて堪らない。
 手足を生やして動き回るくらいなら、淳也は見えない振りで済ませてしまう。向こうも一応気にしているのか、本当に気付かない事もあり、醒花が品を並べなおしたか、器物が自由意志で位置を変えたのか判然としない場合もある。
 しかし自分しか居ない店内、醒花が所用で出かけた時などに、ひそひそ聴こえる噂話は閉口するしかない。次第に『商品』も淳也の存在に慣れて来たのか、最近では世間話が益々頻繁に行われている。
 昔は見えることはあっても、妙な音が聴こえる回数は少なかった。だから見えぬ振りだけ貫けば、『普通の』人間でいられたのに。
 考えたくもないが、よもや自分の耳の側に問題があるのだろうか。このチカラが強くなったのかと……その可能性も捨てきれない。
 最近の淳也は五月病より深刻な、そんな悩みに苛々していた。


*     *     *



「桜を観に行かないか?」
 そういって醒花が微笑んだのは、京の都に初夏の気配が忍び寄り始めた頃だった。
「……何処まで北上するつもりだ」
 商品の埃を掃うため、せっせと動かしていたハタキを止めて、淳也は胡乱気に男を睨み付ける。
 既にこの地から花の気配は失せている。
 今から花見をする為には、吉野の奥へと踏み入るか、南北に長いこの国を、北方へと遡行するか。いずれにせよ、平日の昼過ぎから気楽に振られる話題ではない。雇い主を取り巻く非日常性を回想すると、何か裏技があるのかと勘ぐってしまうが。
「燈明閣に客待ちの明かりが灯っていた。この時期なら、花見に丁度いい」
「――トウメイカク?」
 ここ山海堂がある通りには、他にも無数の屋敷が軒を連ねており、その内の幾つかには商いの看板が出ている。記憶の限りは、その中には無い名前だ。
「右手に六軒ほど行ったところに、西洋風の建物があるだろう。店主がふらふらいなくなるから滅多に開かないんが、久しぶりに合図が出ているようだしな」
「なんだよ、合図って」
「店を開ける合図だ。燈火を灯して人を引く。おまえは未だ、入ったことがないだろう?」
 少し考えた淳也は、その店に連動して嫌なことを思い出す。大正浪漫の香り漂う趣きの館前で、つい先頃に恐ろしい恨みを抱いた覚えがあったりする。誰もが根に持つのを納得する、生命維持に根ざした恨みを。
「…………黒い猫が、よく前に寝てる館だな?」
「ああ――そういえば、しのはよくあそこで昼寝していたな」
「しの、っていうのかあの猫……」
 今も鮮やかに脳裏を過ぎるのは、お行儀悪く肉まんを頬張りながら歩いていた自分にまとわりついてきた猫の姿。大人気ないとは思いつつ、忘れられぬ光景だ。
 いつも寝ているばかりなのに、あの日に限って起きていた。腹を空かせていたらしく、必死ににゃーにゃーと餌を強請り、根負けした自分から肉まんを――――
「――や、淳也? どうかしたか」
「あ、いや、何でも……燈明閣って、桜が咲いてたか?」
 ぼんやりと思考に沈んでいた少年は、慌てて返事する。表から見た限りでは、遅咲きの桜など植わっていなかったはずだ。花が咲いていれば、見落とすとは思えない。
 ちょっと不思議そうな顔をしていた醒花は、ありがたくも恥ずかしい思索内容の追求はせず、誤魔化すように変えた話題に乗ってくる。
「論より証拠。行ってみればわかるさ」
 右手には既に『閉店』と刻まれた木の札が握られている。更に左手に握られている四角い包みは、予想通りなら重箱に入った行楽弁当ではないだろうか。どこかうきうき浮かれた様子には、呆れるしかない。
 一日に一人、客が来るかも怪しい店ではあるが、店主自らサボっていいものかと……基本的に真面目な少年を苦悩させ、大人への不信感を植え付けていると知ってか知らずか、男は平然として、先に立って店から出て行った。


*     *     *



 基本的にこの周辺は純日本家屋ばかりだ。
 その中にあってお目当ての『燈明閣』は、堅い印象の名前とは裏腹に、西方の影響を色濃く受けた建造物だった。
 明治から大正期に流行った建物とでも言えばわかり易いか。木造でありながら西洋の家屋を真似た外観は、レトロな雰囲気を醸し出している。
 塀や庭が無く、誰でもすぐ玄関から中に入れる造りなのが、何とか店らしいといえる点だが、扉はきっちり閉まっていて、カーテンが閉まる窓からも中を窺えない。
 猫がよく寝そべっていた門柱にその姿は無く、代わりといっては何だが、レトロ……というよりミスマッチにも、提灯が無造作に置かれている。紙張りの其れこそが、醒花の言う『灯された明かり』であるらしい。大半の現代人には理解不能な、筆文字で書かれた三つの漢字(らしきもの)は、知っていれば燈明閣と読めなくもなかった。
 先に立って焦茶色の扉を押しながら振り返った醒花は少し笑って、警戒気味の少年に道を譲る。促されるまま、ためらいながらも淳也は店内に足を踏み入れた。
 入った途端の暗がりに、その足はすぐに止まる。
 背後で扉が閉ざされる音は、妙に頼りなく響く。
 屋内は酷く薄暗く、昼間だというのに所々に明かりが灯されていた。
 ぼんやりとしたオレンジ色の電球と、幾つもある丸テーブルの上に置かれた洋燈(ランプ)の明かり。内装はアンティーク調で、落ち着いた雰囲気が漂っている。山海堂は雑多な商品の展示から乱雑な印象もあるが、こちらは深い茶色を基調としてまとまっていた。 迷いのない足取りで店内を進む男の後を、足元に注意しながらついていく。家具のせいで通路がかなり狭い。
 部屋中にテーブルと椅子が配置されてあり、機能としては喫茶店のようだが、こんな場所にある店の宿命か、客は一人も見当たらない。通りかかるのも苦労する路地にあれば当然だ。
 重厚な造りのテーブルのひとつひとつに置物や花が飾られ、洋燈が置かれている。それぞれ異なる形状の洋燈は、どれも美しく細工の施された品ばかり。ひょっとしたら全て職人の手による一点ものなのかもしれない。金具の細部にまで凝った造りの品々は、何処の骨董屋に並んでいてもおかしくない。燈明の名に相応しいこだわりの逸品ばかりだ。そんな趣きある店なだけに、人気が無いのは惜しかった。
「……おや、見ない顔だがお客さんかね」
 唐突にかかる声に、心臓が大きく波打つ。
 人影を探してみれば、黒縁の眼鏡をかけた長い黒髪の女がひとり、奥のカウンターの向こうに物憂げに座っていた。
客なのか確認するということは、店の関係者なのだろうか。
 思えば何を商っているのかという、肝心な話を聞いていないのだが。
「――久しぶりだ、亜聖。彼は客ではなく、私の店の手伝いだ。せっかくの花の季節だし、一度顔見せにと思ってね」
「醒花翁じゃないか。元気そうだねえ」
 気だるげな態度を変える様子も無く。口元に薄っすらと浮かぶ笑みも妖艶に。
 醒花よりも年若に見えながら遠慮のない彼女には、退廃的な色気が漂っている。
 少年には目の毒だと思ったのか、醒花は淳也の視線を遮るように前に出る。どこか警戒した様子は、自分からこの店に誘ったにも関わらず、女から少年を庇っている風でもある。
 彼も容貌の整った人物だが、その美は凛然とした清浄な気配が基となっている。少なくとも少年の前では、とろりとした闇の息吹を曝け出しはしない。対して女はといえば、醒花とは全く正反対の、不健康な美しさに満ち溢れていた。
「……余計なちょっかいをかけやしないよ。久々に店を開けた途端に、あんたと殺しあう気にはならないからね」
「ころ……って」
 ぎょっとするという、至極真っ当な反応を返した少年を、女は興味津々で観察した。
 彼女の知る限り、醒花がここにただの人間を伴って来たことはない。しかしこの少年は、少しだけ気になる点はあったものの、ごく普通の人間に見えた。
「今日はみんな、花見に出てる。あんた達も行ってくる気かい?」
「ああ。よろしく頼む」
 指し示された一際大きなテーブルの上には、洋風のランプがひとつ。
 硝子の球状の火屋が、鈍い電球色に光を放っている。
 其処に刻まれているのは、薄紅色の櫻の花。焦茶の釣具も上品な、美しい洋燈だ。
「まさか・・・・・・コレが花か!?」
「とりあえず、座ってごらん」
 確かに綺麗だとは思うが、薄暗い店内で洋燈を見ながらしみじみするのは、あまりに不健康だ。呆気にとられた淳也を、醒花は笑いながら手招いた。
 何のつもりかわからぬが、促されるまま二人でテーブルにつくと。
 不意に洋燈から眩い光が放たれる。
 驚いて淳也が目を閉じた一瞬の内に、彼ら二人の姿は店内から消え失せていた。
「……行ってらっしゃい、お二人さん。楽しめれば、いいけどね」
 残された女は、ふふと笑いながら不穏な言葉を独りごちる。
 その声を聞くものは、誰一人としていなかった。



《続》


卯月・2  山海堂談義