『自覚症状』

 廃墟寸前の建物の中で、ヒソカは手遊びにカードを並べる。
 仕事前の待機時間における今回の仮宿は、広いだけの退屈な場所だった。
 他の団員と和気藹々となごむ仲でもないから、仕事が始まるまで暇を持て余す事は多い。最大のお目当てである団長の傍には、常に数人の団員が付いていて手を出せないし、団体行動に混じるなど柄でもない。
 古参の団員にとって暗黙の了解事項なのか、仕事の度に変わる仮宿の何処にいても、独りでいる『彼』を見掛けることはなかった。浴室や寝室は例外かもしれないが、『勝つ為』に戦うのではなく、戦いを楽しみたいヒソカとしては、無防備な瞬間を襲う気にはなれない。もしも簡単に殺せてしまったりしたら、味気なさにがっかりするだろう。
 トランプを積み重ねては、危うい安定をわざと崩す。完成された形を壊すことこそ、至上の命題であるかのように。破滅をもたらす為だけに、面倒に耐えて完全なカタチを創り出す。他愛ない遊びに過ぎぬが、繊細な均衡を保つモノが刺激に耐え切れず崩壊する瞬間が、愛しくてならない。きっといつか来る『彼』と遊ぶ日も、同じように興奮するに違いない。
 だから独りきりの団長を見つけた時は、楽しい予感に体が疼いて仕方なかった。

 背後の瓦礫にもたれて座り、膝の上には分厚い本が開かれている。俯いていて表情はわからないが、いつもと変わらぬ静けさを湛えているに違いない。彼にとっては現実の悲劇や喜劇さえも、愚にも付かぬ滑稽な余興なのかもしれない。
 己の価値観のみを礎に、己の望むままに振舞う男。それを押し通すだけの力を有する存在。無力さを嘆く姿など想像も出来ぬ。例えば死す瞬間さえも、無様な姿は見せるまい。
 けれど更に近付いたヒソカの耳には、規則正しい呼吸音が届く。彼ともあろう者が、読書の途中で眠ってしまったらしい。
 わくわくと勢い込んで近付いていったのに、拍子抜けしてしまう。
 不意打ちで彼に勝ったって、おもしろくも何ともない。
 すっかり興冷めしたヒソカは、玩具を取り上げられた子供のような顔をして、落胆の息を吐いた。せっかくの機会だと思ったのに、またお預けを食らってしまった。
 他にすることもないので、そのままジロジロと団長の寝顔を見つめてみる。それは単なる暇つぶしの一環だったのだが、滅多に寄れない近場から観察していると、思いもよらぬ発見があった。
 その肌はあくまでも白く。瞼には長い睫が影を落とし、常に強い意志を宿す瞳を隠している。整髪料の類を使用せずともサラサラの黒髪は、乱れて白い肌に映えている。
 身体は鍛えられているが、少しも無骨なところは無い。秘めたしなやかな強靭さは、まるで猫科の肉食獣だ。それでいて気持ち良さそうに眠っている姿は、いい年をした大人の男のはずなのに妙に幼さが強調されていて、らしくもない庇護欲が頭をもたげそうになる。
 可愛いなあ、なんて。
 こんなことを思っていると本人が知ったら、激怒しそうだ。それとも冷ややかにこちらを蔑むだろうか。
 彼は青い果実なんかじゃなく、熟しきった食べ頃の果実のはずなのに。何だか庇ってあげたくなるなんて。彼はか弱い『お姫様』じゃないのに。恐ろしくしたたかな、ひょっとしたら自分よりも傲慢な残酷さを持っているのに。
 他の団員達の気持ちが、ちょっとだけわかってしまった。
 存在の全てを肯定し、損なわれることの無い様に守りたいだなんて。
 他者の翻弄を旨とする奇術師ともあろう者が、綺麗な見かけに惑わされてしまったとでもいうのか。
「――青い果実は美味しそうだけど、本当に一番美味しいのは腐りかけの果実だよね◆」
 それはきっと、退廃的な甘い味がする。まるで麻薬のように、病み付きになる味がすることだろう。一度味わってしまえば、二度と忘れられぬほどに。
 その味わい方も、イロイロな方法があるけど。どうせなら、長く楽しめる方がいいに決まっている。
 自分の感情の変化を自覚し、それでもヒソカは余裕を失わない。要は楽しめればそれでイイのだ。目的と手段、結果と過程のすべてが変わったとしても、何も問題は無い。
 頬に手を伸ばせば、すべらかな感触が心地よい。しばらく柔らかな手触りを楽しんだ後、ヒソカは悪戯を思いついた子供のような顔をすると、ゆっくりと青年に近付いていった。
 どこまでも顔を寄せて、いよいよ唇が重なろうとする瞬間のこと。
 いつの間に目を覚ましたのか、眠っていたはずの青年が、瞼を開けて見上げてくる。それを気にせず、ヒソカはそのまま深い口付けを贈った。じっくりと存分に。吐き気がするほど甘い血の匂いを堪能する。
 気が済むまで何度も角度を変えて口内を荒らし回ったところで、ようやく相手を解放する。初めは抵抗していた青年は、諦めたのか途中から無反応になっていた。押さえ込んでの単純な腕力では、いつでもヒソカに軍配が上がる。殺気の無い相手の酔狂に逆らうのが、面倒になったのかもしれない。それでも微かに乱れた呼吸に気付いて、血がざわめくのを自覚する。
 それはまるで戦う前の瞬間のように。楽しい遊びを始める前のように。
 その為に、命までも賭けて構わぬと思い定める。
「……何のつもりだ」
 冷たい視線に下から射抜かれて、ゾクゾクする快感が背筋を駆け上る。ついさっきまで、自分でもまるでその気はなかったのだから。おそらくは意外な事態だったろうに、微塵も動揺する様子はない。
 彼が貼り付けた冷静さという強固な仮面を引き剥がし、ほとばしる感情を隠さずに叫ばせたなら、どんなに興奮するだろう。
『彼が欲しい』
 脳裏でそう叫ぶ声が、自分を支配する。
 その強さが気に入って、戦いたいのだと思っていた。それだけだと考えていたのに。
 無意識の内に自分は、他のことを望んでいたのだろうか。
 それは、いつから?
『彼だけが欲しい』
 その体が、その心が。彼を形成する全てのものが――すべてを手にして、大切に閉じ込めておきたい。誰にも触れられない場所に。       
 彼はとても美味しそうで、触れるほどにもっともっと欲しくなってしまう。
 ならば彼を食べ尽くしてしまえば、ひとつになってしまえば、この飢えは満たされるのだろうか。
 いや、きっとそれでも足りない。たとえどこまでも重なり合ったとしても、それ以上を追い求めてしまう。もう二度とは味わえぬ極上の獲物を、至上の甘露を求めて、狂ってしまうだろうか?


 ――――それは、どちらを選択するとしても甘美な誘惑だった。


《終》