西国の雄 毛利元就
一、毛利元就の年表(Part1)
毛利元就の1歳から30歳までの年表です。→31歳から50歳までの年表はこちら。
年 号 | 西 暦 | 年齢 | 主 要 な 出 来 事 |
明応 六年 明応 九年 文亀 元年 永正 三年 永正 四年 永正 八年 永正十二年 永正十三年 永正十四年 大永 元年 大永 三年 大永 四年 大永 五年 |
1497年 1500年 1501年 1506年 1507年 1511年 1515年 1516年 1517年 1521年 1523年 1524年 1525年 |
1歳 4歳 5歳 10歳 11歳 15歳 19歳 20歳 21歳 25歳 27歳 28歳 29歳 |
3月14日 毛利元就、安芸吉田に毛利弘元の次男として生誕。幼名・松寿丸。 生母は福原広俊の娘。 兄幸千代丸、8歳にて家督を相続。大内義興の偏諱を与えられ毛利興元と称する。 松寿丸は父弘元とともに多治比猿掛城に移る。 12月8日 母福原氏没す。 1月21日 父弘元没す(享年39歳)。 興元、大内義興に従い上洛。重臣井上元盛に多治比猿掛城の所領を横領される。 松寿丸、元服し、多治比少輔次郎元就と称す。 興元の長子幸松丸生まれる(生母は高橋久光の娘)。 8月25日 興元没す(享年24歳)。わずか2歳の幸松丸が家督を継ぎ、 元就は外戚である高橋久光とともに幸松丸を後見する。 10月22日 有田中井手合戦にて熊谷元直、安芸国守護・武田元繁を討ち取る。 翌年頃、吉川国経の娘(妙玖)を正室として迎える。 夏、備後三吉氏の青屋城を攻撃中、高橋久光討ち死。 4月 長男隆元猿掛城に生まれる(生母は妙玖)。 6月中旬 尼子経久に従い西条鏡山城攻めに参加。調略を用いて鏡山城を攻略する。 しかし、経久は元就の調略により現形した(裏切った)蔵田直信を許さず処刑したため 元就は面目を失う。 7月15日 幸松丸夭折(享年9歳)。 8月10日 元就は重臣十五名の要請を受け郡山城に入城し家督を相続。 家督継承時発句は『毛利の家わしのはを次脇柱』 異母兄弟元綱、謀反をはかるも元就により謀殺される。 また元綱を擁立した重臣坂広秀、渡辺勝を誅殺する(元綱一派誅殺)。 元綱擁立の裏では尼子経久の意を受けた亀井秀綱の調略があったとされる。 坂広秀の実弟である桂広澄は連座し自ら切腹、子元澄らは籠城する。 元就は単騎にて城外より説得し、元澄らは開城。元就へ臣従する。 5月 大内義興の嫡子大内義隆が尼子方である安芸佐東郡銀山城へ来攻。 7月 元就は安芸の国人部隊を糾合して夜襲部隊を編成し、 夜襲により佐東銀山城外にて大内義隆を破る(銀山城救援合戦)。 4月 大内義興麾下の陶興房が安芸国人天野興定居城志米山城を攻撃。 元就、大内氏と天野氏の和談を斡旋。 出雲尼子氏と交を断ち、周防山口の大内氏に服属する。 尼子氏の人質であった毛利氏重臣赤川就秀、光永秀時は出雲月山富田城から 脱出するが、光永秀時は追手により討ち死。赤川就秀のみ生還する。 |
製作者:安芸中納言
2009年12月5日