西国の雄 毛利元就
一、西国の雄 毛利元就の生涯
六、元綱一派、誅伐
幸松丸の夭逝によって元就は、はからずも毛利家宗家の家督を継ぎます。しかし、それはまた毛利家家中を元就一派と
元綱一派とに二分させ、あらたな火種を残すことにもなりました。毛利領内には不穏な動きが漂いはじめます。
元就襲封の年が明けた大永四年(1524年)の正月を過ぎたころから、亀井能登守秀綱の使者がひそかに吉田村岡本にある
元綱の居城・船山城へ顔を出すようになり、またしばらくして今度は、甲田村下小原の内永見にある元綱の後見役・
渡辺長門守勝の屋敷へも、その使者が向うようになります。
亀井秀綱は出雲尼子家の重臣であり、尼子経久の意を受けて船山城主の相合元綱に肩入れを始めたのです。
経久は先の巧妙な元就擁立派の根回しによって、毛利家を我がのものとはできなかったものの、なおもあきらめられず、
元就よりも従順で与みしやすい異母弟・元綱を押し立てて元就一派に対抗させ、お家乗っ取りを策していたのです。
元就は諜報戦略に長けていたことからこの謀反の動きをいちはやくつかみ、事を未然に防ぐため機先を制して、
大永四年(1524年)四月八日、船山城へ元綱誅伐の兵を向けたのです。
この突然の動きに、元綱は不意をつかれて大いに驚き、勇敢に戦うも不意をつかれたこともあって支えきれず、
ついに敗走。堀を飛び越えようとしましたが馬の脚を射られ誤って転落し、ついに討ち取られました。
この時、元綱の謀反に加担していたとされる坂長門守広秀も同時に自害させています。
一方、渡辺長門守勝については、しばらくそのままにしておき、その後、雲州富田城への使者に任じ、郡山城へ登城した
ところをいきなり召し捕らえて縁の端まで引きずり出して、下の渓谷へ投げつけたから微塵となって失せてしまった、
とも伝えられています。
毛利家宗家の家督を継ぎ、その最初の仕事として皮肉にも元就襲封に反対する元綱一派を誅伐した元就でしたが、
その影響は元綱や坂、渡辺両氏だけには止まらず、坂広秀の従兄弟にあたる桂広澄までも自害してしまいます。
さらにはこれを受け、その子である桂元澄・元忠らは協議してその家城の桂中山城に立て籠もり、父に殉じようと覚悟を
決めていました。
元就は驚いて桂兄弟に使者を送り、籠城を解いて早々に郡山城へ出頭するよう伝えましたが、なおも桂兄弟は
これに応じる気配がなかったので、元就はやむなくただ一騎で桂中山城に赴き、捨て身の説得をしたところ、
桂一族の元就に抱いていた疑心はたちどころにして氷解し、自らの非を謝罪し元就に忠誠を誓ったとされています。
このように元就はその家督相続の反対派であった元綱一派を粛清し、その毛利家当主の地位は確かなものとなりました。
《元綱一派、誅伐について安芸中納言の考察》
戦国の世とはいえ、兄弟で争うこととなった元就と元綱のそれぞれの心境は一体どのようなものだったのでしょうか?
討たれた側の元綱もその無念さは察してあまりがありますし、また討った側の元就の心境もさぞ複雑であったことでしょう。
また、この元綱の誅伐については公式の毛利家文書には記載されていないようです。
元就は後に自身が息子の隆元・元春・隆景に「遺訓」として宛てた「三子教訓状」の中で「兄弟仲良く毛利家を守り立てなさい」
という趣旨の文面もありますが、元就がそう口うるさく「遺訓」するのは、元綱と兄弟で争ったことによる悲劇を実際に体感した
こともまた影響しているのでは、と思えてなりません。
ちなみに元綱が誅殺されたとき、元綱には元範という遺児がいたそうですが、後に元就は遺児・元範に敷名姓を名乗らせ、
備後敷名郷の奴原城を与えています。
いずれにせよ、毛利家はこの元綱一派の誅伐が行われたことにより元就の当主の地位は確かなものとなり、
その一方で、元綱一派を影で操っていた尼子経久との関係もまた、ますます悪化することになります。
製作者:安芸中納言
2001年9月24日
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