大正から昭和の上方の寄席の空気を伝えてくれる貴重な証言――― 花月亭久里丸「寄席楽屋事典」を読む(2017.6.17)花月亭久里丸は、大正5年、上方落語から音曲・曲独楽に転じた三升小紋に入門し、 自身も落語家から大阪初の漫談家に転じた芸人である。 また、昭和22年の戎橋松竹の開場当初に出番編成を任せられるなど、 「引き臼」(頭回って、下(舌)回らん)のあだ名の通り(舌足らずの方はともかく)、アイデアマンで、裏方としても「頭の回る」人であったらしい。 この「寄席楽屋事典」は、 久里丸が亡くなる2年前の昭和35年に関係者に無償で配布したものを、 平成15年、九里丸の子息が古書店で高額で売られていることを憂えて再販を発行し、 近年、その再販本がお手頃価格で古本屋で売られているを購入したものである。 久里丸自身の「はしがき」ならぬ「はじかき」にもあるように、 「古い伝統を受け継いできた大阪の寄席には、この社会独自の符牒や隠語」があり、 「時代の推移によって、忘れられたり、湮滅に帰したり、杜撰な解釈がそのままに信じられている」例もあることから、 「正確なものを遺しておきたい」との思いから著されたものである。 したがって、事典の体裁をとってはいるものの、上手に整理したというよりも思うがまままに自分の知っていることを書き連ねたという感じだ。 また、「とり」の項に、「切席。「取り語」もしくは「真を取る」の略。」とあり、 今では、「とり」という言葉一般に知られているのに対し、説明している「切席」という言葉の方が消えている場合もある。 明治から大正にかけての桂派・三友派、さらに反対派の対立など、 上方落語の歴史として語られるようなことが、見てきたように、ではないにしても、先輩から聞いてきたとおりに書かれている。 そのため、どこまで正確なのかについては少々割り引かねばならないかもしれないが、 戦前・戦後を寄席の楽屋ですごした久里丸の感覚をそのままに伝えようとしていていることは十分にうかがわれる。 時に、牧村史陽の「大阪方言事典」などをそのまま引用している項もあったりで、 自らの著作であることよりも、後世に伝えたいという思いが優先されているようだ。 読んでいて、よく仕上がっている昔話を聞かせてもらった、という気持ちになった。 落語の修業をした漫談家の作品なので、出来が良いのは当たり前なのかもしれないが。 |