鎌倉に帰ってきた吉田秋生

                     ――――吉田秋生「蝉時雨のやむ頃」海街diary1巻を読む(2007.4.30)

 
約十年ぶりに、吉田秋生が鎌倉に帰ってきた。
もう、ティーンエイジャーを描くのが辛くなったのか、
主人公は大人である20代の三人姉妹だ。

14歳の義妹も出てくるのだが、作者の目線は彼女の中に入ることなく、
あくまで大人の側から慈しむように見つめている。

「子供であることを奪われた子供ほど哀しいものはありません」
大人の視線で子供を語ろうとすると、つい本音が出てしまうようだ。
考えてみれば、これまで吉田秋生が描いてきたティーンエイジャーたちは、
みんな何らかの事情で「子供であることを奪われていた」子供たちだった。

その「哀しさ」とともにある「輝き」をまっすぐに描くのではなく、
それをいとおしく見つめる大人の立場で描こうとしているのが、
腰巻に「新境地」とあるゆえんなのだろう。

「ラヴァーズ・キス」から12年、
「河よりも長くゆるやかに」から20年以上の歳月を経て、
今度はどんな日常を見せてくれるのだろうか。


 

    かつて「風街」だった東京、今「海街」としてある鎌倉

                  ――――吉田秋生「真昼の月」海街diary2巻を読む(2008.10.15)


吉田秋生の「海街Diary」の2巻目が出た。
連載というでもなく、かといって読みきりでもなく、
数ヶ月ごとに描かれた連作という感覚の4作が並ぶ。

このまま、末の妹「すず」のサッカー漫画になっていくのかと思いきや、
最後の「真昼の月」で、一気に大人の世界に戻されてしまった。

前半を読んでいるうちは、この巻のキーワードは、
「本気でぶつけるつもりだったら、ぜったいはずさない!」 なのかと思ったが、
どうやら、「真昼の月」の 「でも、むこうにいた時のほうが、ずっとさびしかったです」 であるようだ。
これなら、1巻の幸の言葉と符合する。

1巻のレビューを書いてすぐ気づいたのだが、
「海街Diary」というのは、「風街ろまん」を思い起こさせる。
現代化していく70年代の東京が「風街」だったとすれば、
吉田秋生の目に映る鎌倉の今は、「海街」であったのだろう。
それなりに「街」の姿をしていても、海とともに生活する感覚を残している。
単なる観光気分では、昔ながらの「しらす漁師」の姿は目に入ってこない。

そして、前半の嬉々としてサッカー少年少女を描いているのを見ても、
高校野球をヘタクソなのに健気なところがかわいいという視点を、
(少なくとも、私の知るかぎりは)初めて提示した吉田秋生らしい大人感覚だとも思ったのだった。
あるいは、ダメ男の健気さが好きという女性感覚なのかもしれないが。


       

     当たり前のように暮らしている、という大きな変化

           ――――吉田秋生「陽のあたる坂道」海街diary3巻を読む(2010.2.16)


鎌倉を舞台にした「海街diary」の連作も3冊目になる。

1巻の冒頭に置かれた父の死から1年がたち、
もはや4人がセットとなった姉妹は、再び父が亡くなったという山形の温泉を訪れる。
相変わらずなたった一年だが、いろんなことが変化している。
いや、4人が姉妹として当たり前のように暮らしていることも、大きな変化であるのだ。

そうかあ、シャチ姉は「愛の旅人」で、よっちゃんは「愛の狩人」なのか。
彼女らの愛の形も少しずつ動いている。

少しくどいくらいに鎌倉の季節の風物詩が登場するのに違和感があったが、
それだけ生活の場としての鎌倉を意識しているということなのか。
ゆるやかな着地を予感させる一巻。そろそろ終わりが近いのか。

 *  追記 見込み違いも甚だしい。シャチ姉の不倫の行方とよっちゃんの恋の始ま りで、美しく終る物語だと勝手に思っていたのだ。
       人生がそんなに単純なものではないことは、繰り返し、 この物語でも述べられているというのに。




        親の世代から現役の10代に託された物語

              ――――吉田秋生「帰れないふたり」海街diary4巻を読む(2011.8.17)


以前「海街diary」は「風街ろまん」のことだろうと書いたが、
「帰れないふたり」と言えば、これはもう真っ直ぐに、
井上陽水・忌野清志郎の共作による「帰れない二人」を思わざるを得ない。

「風街ろまん」や「帰れない二人」が発表された1970年代前半は、
そのまま吉田秋生が多感な10代後半をすごした時期でもある。
吉田秋生は、自分の10代のころの曲をタイトルにしながら、
今の10代の恋愛物語を綴っているのである。

それにしても、自分の10代のころと比べるまでもなく、
四女・すずも、友人の美帆も、ずいぶんと大人だ。
「男子」は、マサのレベルを標準にすべきなのかもしれないが、
せめて風太ぐらいに、人のことをきちんと思いやることができて、
思っていることをきちんと言葉にできたなら、
どんなにか、人としてきちんと生きて行くことが出来ただろうかとも思う。

きっと、読者に近い世代の作家が10代を描いたならば、
なかなかここまでの深い思いを描き切ることはできなかっただろう。
そのような点では、この作品はとっくに親の世代に達している吉田秋生から
現役の10代の人たちに託された願いのようなものなのかもしれない。

もっとも、この作品がホンモノの10代にどう受け取られているかはわからないのだが、
少なくとも、私のような「親の世代」には強く訴えかけてくる。

三姉妹の恋の予感も含めて、この物語も終わりに近づいているのかもしれない。
「末永く幸せに暮らしました」などというおとぎ話は信じないけれど、
二人の在り方に一区切りをつけるということは、けっこう人生にとって大切なことではあるのだ。



        すべてを受け止めるものとしての群青色の空

                  ――――吉田秋生「群青」海街diary5巻を読む(2013.1.14)


4巻の「帰れないふたり」が、陽水・忌野の名曲を思い出すとすれば、
「群青」は谷村新司の大仰な曲ということになる。
しかし、この物語では、実は登山家だったアフロ店長がエベレストで見た空の色だ。

緩和ケア病棟に勤めるシャチ姉は患者情報として、
信用金庫に勤めるよっちゃんは顧客情報として、
癌で父を亡くしたすずは投薬情報から、海猫食堂の二ノ宮さんの秘密を知る。
ついでに言えば、風太も裕也から秘密の相談を受ける。

人に話せない秘密は、中学生のすずや風太じゃなくても十分ストレスだ。
まして、人の生命にかかわるとなれば、なんともやりきれない。

 神様は気まぐれで 時々ひどい意地悪をするので
 振り回されてエラい目に遭うこともあります
 でも 晴れた日は空が高い
 どんな気持ちの時も それはかわらない
 それだけは 神様に感謝したいと思います

その空の色が群青なのだ。
小さな私たちの苛立ちや、辛さや、やりきれない思いを、
すべて受け止めるものとして群青色の空がある。
山猫亭のオヤジも、ヒマラヤであの空を見たらしい。

山猫亭に出入りするうちに、すずの両親の秘密も少しずつ明らかにされていく。
吉田秋生は、最初からすずをここへ連れてくるつもりで、
三姉妹と出会わせ、鎌倉に住まわせることにしたのだろう。
読者は、すずとともに、両親の過去をめぐる静かな謎解きに参加していく。

少女マンガの王道でもある「好きだから」の言葉は、
すずを含めた四姉妹をどんな幸せに導くのだろうか。



        子どもに優しくすることで、大人は希望を分けてもらえる

                 ――――吉田秋生 「四月になれば彼女は」海街diary6巻を読む(2014.9.16)


すずのもう一つの親戚、金沢 にある母の実家を訪れる四姉妹。
お定まりのモメごとの後は、慈しむ人たちだけでの優しい時間となる。
大人たちにとって、いつだって子どもは希望を与えてくれる存在だ。

その分、大人はずいぶんと厄介だ。
純粋な気持ちで求めていたものをいろんな事情であきらめてしまったり、
大切な人が突然に亡くなってしまう運命にあることを受け止めねばならなかったり、
平然とワガママを言うトンデモない人をなんとかやり過ごさねばならなかったり、
そんな人あしらいになれつつ、いつのまにか心の奥底にいろんな思いを沈めていたり、
あるいは、目の前の人の思いの深いところに手が届かないことがもどかしかったり。

本当は、子どもだって、似たような思いをしているのかもしれないけれど、
少なくとも大人は、目の前に子どもがいてくれるというだけで、
彼らの持っている未来から、ほんの少しだけ希望を分け与えてもらうことができる。
だから、大人たちは自分の過去に対する贖罪のように、子どもたちの未来に優しくなれる。

この物語に登場する大人たちは、皆、相当に自分の厄介さとともに生きている。
そんな中、関西人で山男らしい「山猫亭」のマスターのゆるぎない父親感が急上昇中だ。
彼もまた、自分の中に相当厄介な人生を生きてきたようだ。

この巻のタイトル曲「四月になれば彼女は」は、作品中でも紹介されているとおり、
サイモン&ガーファンクルによる少し切ない小品だ。
子どもだとおもっていたすずも、来年の四月には高校
生になる。
すずが子どもでいられるのも、あと少しだ。



     四者四様の「恋の新展開」

                  ――――吉田秋生 「あの日の青空」海街diary7巻を読む(2016.1.23)


腰巻に「四姉妹の恋に新展 開」とある。

すずは、風太に自分の気持ちの本当のところを伝えることができ、風太は後押ししてくれた。
幸姉も、同僚の井上から一気に距離を詰められ、逆に距離を詰め返した。
千佳は、店長が旧友の死を悼んでネパールに旅立つことが不安で仕方がない。
佳乃は、ようやく坂下課長が語りたがらなかった自分の過去を聞き出すことに成功した。

子どもだからこそ、思い悩むことがある。
しかし、まだ子どもだから、ためらいなく前に進むことができる。
大人だからこそ、素直になれないこともある。
しかし、もう大人だから、いろんな清濁を飲み込んでしまうことができる。

それでも、どうにもならないであろう、思わぬ「恋の新展開」が深く潜航しているらしいのだが、
それは、次巻の話になる。

ところで、「あの日の青空」という70年代の曲はなかった。
しかし、井上陽水の「青空、ひとりきり」のサビは、「青空 あの日の 青空 ひとりきり」なので、
ここから採ったということにしておこう。


 

       すずの進学でゆるやかに動き出す大きな物語

                 ――――吉田秋生 「恋と巡礼」海街diary8巻を読む(2017.5.13)


鎌倉で暮らす四姉妹の生活を 描く「海街diary」も8巻目になる。

この巻は、サッカーチームのPKのくだりとか、表札をめぐるエピソードとか、
高校の説明会に向かう幸ネエとすずのことを話している佳乃と千佳とか、妙に、コメディ部分が目についた。

物語の流れがゆったりと、あるいはじっくりと描かれるようになったため、
こうした仕掛けを念入りに仕込むゆとりができてきたのかもしれない。

物語がゆるやかになったのは、大きな物語が動き出したからだ。
千佳の妊娠は衝撃だったが、 結果的に、アフロ(じゃなくなった)店長との結婚を急加速させた。
それにしても、いざというときの姉二人の大人(おとな)力には驚かされる。

すずも高校への進学が決まり、寮生活に期待と不安がいっぱいだ。
しかし、すずの進学は、「海街」生活の終わりと、彼女を海街に導いてくれた三姉妹からの自立を意味する。

幸と佳乃の恋路も、ようやく落ち着くべき場所に落ち着きそうだ。
この期に及んで、佳乃の上司がはっきりしないなら、
黙っていられるはずがない緒方弟が「いい仕事」をしてくれるに違いない。

ちなみに、「恋と巡礼」という往年の名曲はなさそうだ。
代わりと言ってはナニだが、 「それでも どうしても だめだと思ったら 帰っておいで」
という、すずに向けた幸の言葉に、かぐや姫の「妹」を思い出した。

ところで、「鎌倉七酔人」の残りの二人、 毘沙門と寿老人は、いったい誰なんだろう。


トップ        マンガ評