激しすぎる「連なり」への欲求

                       ――― 田中敦子展を観る(2001.4.29)

残酷な展覧会でした。芦屋市立美術博物館で行われた田中敦子の回顧展のことです。

田中敦子は、戦後の日本美術を語る上で欠かすことができない「具体」の美術運動の中で、
やはり欠かすことのできない作家の一人として知られています。
ただし、主催者の意図は、「具体という一つの枠を越えて、具体参加以前から近年までを視野に入れ」 (1)としています。
これは、本来あたりまえのことで、40年以上にも及ぶ作家活動がありながら、
わずか10年ほど参加した美術運動だけで、その作家のすべてを語るということができるというものではありません。

しかし、これには註釈がつきます。
「いつも具体の会員という枠内」 (2) でしか紹介されなかった田中敦子であるにもかかわらず、というものです。>
では、その「具体という枠」をこえた田中敦子展とは、どのような展覧会だったのでしょうか。

第1室は、いわゆる初期作品と田中の出世作「ベル」が展示されています。
この作品は、スイッチを押すと展覧会場に設置された二十個のベルが足元から会場の奥へ向かって次々と鳴り、
一番奥まで届くと、逆にベルが鳴り戻ってくるというものです。

実際に押してみると、最初は音の大きさに驚きますが、慣れると次々と音が移動する感覚が「空間」を感じさせてくれます。
1955年という時期に、この次々とベルが鳴るという仕掛けを一つの作品として世に問うたわけですから、
「美術品なりや否や審査員間で問題になった」(3) という当惑と
「型を破って先に進もうとする」「オリジナリティ」(4) という評価が相半ばしたのもうなづけます。

続く第2室は、「電気服」に迎えられます。
1956年に発表されたこの作品は、9種類に塗り分けられた管球や電球が全身を覆うように配列された服で、
これらが「ベル」と同じ要領で不規則に点滅し、さまざまな色の光が浮かび上がるようになっています。

「感電の可能性も」という註釈はつくものの、実際に着用することができるこの作品は、
田中敦子作品という意味を超えて、「他人のやらないことをやる」(5)ことをもって良しとする
「具体」の美術運動の代表的な(少なくとも「具体」らしさがよくわかる)作品として知られるようになっていきます。

周辺には、この電気服の配線図とされる素描(クレヨンで着色されたものもある)が並べられています。
それは、電球や管球を思わせる塗りつぶされた円や長方形(というより、
丸や四角)が画面上に散りばめられ、さらに配線を意味する線でつなげられています。
点滅したときの効果を考慮しているのか、線は複雑に入り組んでおり、
配線の分岐と単なる交差を(例の半円形の山で越えることで)はっきり書き分けているところも、いかにも配線図的です。

実は、このような素描群が出展されるところが回顧展の真骨頂だったりします。
このような、それ自体が高い完成度をもっているわけではないような作品が、
むしろ、そのことでその作家の本質を見せてくれることがあるからです。

というのも、4つのパートに分割されている第2室をさらに進むと、
画面を埋め尽くされた朱や黒の丸とそれらをつなぐ無数の線という、
展覧会でよく見かける「田中敦子作品」が並べられていたからです。
例の配線図の素描と比べて見ると、これらの平面作品が
しばしば解説文に書かれていた電気服の配線図を発展させたものであることがよくわかります。

と同時に見せつけられるのが、田中敦子の才能です。
配線図らしさを残した初期の作品は、たちまちその線が躍動するようになり、
丸と線という単純な構成であるにもかかわらず、ほんの数年で
画面全体に活気がみちあふれた平面作品として完成させてしまうのです。(1958-61、第2パート)

そして、むやみと色数を増やしたり画面を分割したりという若干の迷いの期間(1961-62、第3パート)をすぎると、
同心円を使った丸の大きさでリズムをつけながら赤を基調にした原色がハーモニーを奏で、
細くも力強い多くの線がそれらを有機的に結びつけるという、さらに発展させた作品群を産むことになりました。

それらは、脳細胞のニューロンの結びつきを想像させるようなというべきか、
触手を伸ばしているようなというべきか、ともかく激しく連なりを求める線の緊張感が独特で、
その緊密なきめこまやかさが、なぜか安心感を感じさせていました。(1963、第4パート)

そして、この間、いくつかの国際展への出品や国内での受賞など、田中敦子の評価は高まっていきます。
と同時に、具体のリーダーの吉原治良との志向の違いが目立つようになり、1965年には具体を去っていきます。
ここまでが、主催者のいうところの「いつも具体の会員という枠内」で紹介されていた田中敦子の10年です。

その後も、現在に至るまでの約40年間、
田中敦子はずっとこの丸と線の組み合わせによる絵画を描きつづけています。
それを、一貫したテーマというべきなのか、そこから逃れられなかったというのか、評価の仕方は様々でしょう。
ただ、このスタイルは、明確かつ明快に田中敦子作品のオリジナリティを表わしており、
あえて違うスタイルを志向する必要がなかったことも確かです。

しかし、それだけに、個々の作品の「違い」は、素人目にも明らかでした。
カタログの第3部は「1965-1980」となっていますが、
展覧会では第2室から第3室へと移る廊下に1964-1965年の作品数点が飾られていました。
そして、それらは、なぜ第2室に飾られなかったかということがあきらかなほど、様子が違っていました。

細くていねいに描かれていた線はたどたどしくなり、線自体が途切れたり、分裂したりしてい ました。
一作などは、田中のシンボルカラーと思われた赤がほとんど消え、
薄紫、青、灰緑色という見るからに不安な色で埋められた作品もありました。

第3室はさらに辛いものでした。個々に描かれた丸をつなげる役割をしていたはずの線は
なおさらに太く乱れたものになり、むしろ画面上におおいかぶさっているように見えました。
あるいは、基本の丸がほとんど見えなくなるまでピンクや黄色、空色の太線で塗り込められた作品もありました。
これらの作品は、どう見ても「連なりを描いた」というよりも「連なることへの絶望」であり、
「新たな展開」というよりも「過去の否定」でありました。

この時期の田中敦子は個展中心の活動に変わるものの、
「美術界においては大きく 取り上げられず、具体時代と同じほど注目されたとは言い難い」(6)と いう状況にありました。
「具体」脱退直後は精神的にも追いつめられていたともいいますが、作家としてのダメージはさらに長く深かったようで、
この時期の作品を見るかぎり、美術界が取りたてて冷たい反応をしたとも見えなかったのでした。

もう、立ち去ろうとさえ考えた気持ちをいくぶん落ち着けてくれたのが、1980年以降の作品を並べた第4室でした。
この区分は、国際的な「具体」の再評価の時期という「外からの」区分ではありますが、
その外側の状況が作家自身に影響を与えたことは、十分うかがうことができました。

たとえば、先に紹介した「電気服」は1986年に再制作されたもので、長く写真しか残されていない幻の作品でした。
田中敦子がこの作品の復活を決心させた背景にあるものが、「具体」の再評価という時代の要請のみならず、
それにともなう田中敦子自身による「具体」時代の再評価によるのであろうことは、否定できないでしょう。

ようやく昔の自分のスタイルを認め、さらに深めようという気持ちに戻った近作は、
いくぶん落ち着いた色を使いながら奥行きさえも感じさせる作品でした。
あの激しく連なりを求める緊張感のある線も復活しました。

参考に上映されていたビデオの中で創作する最近の田中敦子の姿は、ただのおとなしいおばあさんでした。
現在に至るまでに、それだけの時間がたってしまったという長さを改めて思うとともに、
それでもなお、線による連なりを求めようとする思いの深さを感じずにはおれませんでした。

そんな思いを抱きながらもう一度第一室に戻ってみると、壁際の床にはわされた「ベル」の電線の束が目に入ってきました。
20個のベルに連なる20本の電線のうねりは、そのままに田中敦子の平面作品の線を思い起こさせました。
そして、そののたうちまわるようにさえ見えるさまは、
田中敦子自身のなんとも激しい「連なり」への欲求を形に表わしているかのように見えたのでした。

「ベル」のけたたましい叫びが、その悲鳴であるとまでは思わないまでも。


 (1) 「田中敦子 - 未知の美の探求 1954-2000 -」(同展図録・田中敦子展実行委員会他・2001) 3p(ごあいさつ)
 (2) 上掲書 3p(ごあいさつ)
 (3) 上掲書 195p(年譜での朝日新聞1955年12月17日掲載の「第三回ゲンビ展」批評記事)
 (4) 上掲書 195p(年譜での朝日新聞1955年11月24日掲載の「第三回ゲンビ展」紹介記事での吉原治良のコメント)
 (5) 引用というにはあたらないが、強いて言えば、増田洋「吉原治良と具体のその後」(同展図録・兵庫県立近代美術館・1979)
  ちなみに、田中敦子は同展には出品しているものの、出品者全員が図録に寄せるはずの「グタイと私」というコメントは、
  金山明らとともに寄稿していない。「不出品の弁」のみを寄せた作家もいる。その「弁」すらない不出品という沈黙の拒絶をした作家も
  いたかもしれない。具体のリーダー・吉原治良が没し具体美術協会が解散してから、まだ7年しかたっていなかった。
 (6) 上掲書 121p(第三部「1965-1980年」の紹介文)    

   * 田中敦子さんは、2005年12月3日、73歳で亡くなられました。ご冥福をお祈りいたします。

          芦屋市立美術博物館サイト                           
          田中敦子展紹介(静岡県立美術館サイト内)             
          Wikipedia田中敦子ページ

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