「大好き」という才能が作り出したもの
----清水ミチコ「歌のアルバム」を聴く(2005.6.20)
山口百恵に始まり綾戸智絵(1)に終わる、まさに歌ネタのアルバムである。
改めて聴くと、清水ミチコは歌もピアノもプロのミュージシャンとして通用するほどには上手くない。
まして作詞・作曲の才能といわれると、いかがなものかというところである。
だから、清水ミチコは、けっして矢野顕子やユーミンになることはない。 そんなことは、みんな百も承知である。
しかし、その分、清水ミチコには人並みはずれた 「大好き」の才能がある。
その「大好き」の才能が、清水ミチコを矢野顕子やユーミンのように歌わせているのだ。
ネタの出来・不出来にしても、要は清水ミチコの「大好き」の濃さの違いがそのまま現れているようである。
もちろん、一番の「大好き」は矢野顕子である。
このアルバムの中で、清水ミチコは矢野顕子の一曲をほとんどネタなしにストレートに歌いきってしまう。
毒もなければオチもない。「大好き」に満ちあふれている清水の歌声は、本当に気持ちよさそうだ。
そして、そのことが聴いてる側でも嬉しく感じられるほどに、清水ミチコは矢野顕子をやってくれている。
つまり、それが清水ミチコの「大好き」の才能なのである。
それでも、というか当たり前のことなのだが、清水ミチコは本物の矢野顕子ではない。
「どうして、こんなに矢野顕子なのに矢野顕子ではないのか。」
そんなことをうっかり真面目に考えてしまいそうにさせるものが、清水ミチコの「大好き」ぶりにはある。
そして、本当に清水ミチコと矢野顕子の間にあるものを考えることが、冒頭の感想につながる。
もう一度書くが、清水ミチコは矢野顕子ほどには音楽家としての才能はない。
しかし、「大好き」の才能もまた、これほど見事な作品を作るのだ。そのことを証明する一枚である。
(1) 唯一、気に入らなかったの
が、大阪のオバチャン・キャラの綾戸智絵(に扮した清水ミチコ)が発した「なんか、ちょうだい」の一言である。
あるいは、「またか」という嘆息である。非関西人にとっては、大阪のオバチャンは「なんか、ちょうだい」という人なのだろう。
しかし、ホンモノの大
阪のオバチャンは、「これも、おくれえな」という人である。つまり、何も渡す意志のない人に対して、物欲しげにねだるというのは
大阪のオバチャンではない。相手がサー
ビス精神を発揮して何かをくれるなら、さらなるサービスを期待するのが大阪のオパチャンなのである。
この違いは大きい。大阪はサービス精神の町だ。がめついのは名古屋
の方だろ。と、岐阜県人の清水ミチコに対して、
こっそり書いておく。
清水ミチコオフィシャルサイト「4325.net」
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