人と社会の内なる教育力を考える

                              ―――「成人教育の意味」を読む(1999.8.4)


先日、とある機会に、訳者からエデュアード・リン デマン著・堀薫夫訳「成人教育の意味」を頂戴しました。
読みにくい本ではありましたが、学校の先輩が訳した本であるという以上に、
社会教育の職場にいるものとしていろいろ考えさせられる本でありました。

まず、構成から不思議な本です。訳書でありながら、訳者の解説が冒頭にあります。しかも、こんな文章で 始まります。

 彼女は美しかった。十代の日々が終わろう としていた10月のある日に、私は彼女に出会った。
 高校を出て大阪で歯科医の手伝いをしているとか、彼女と話をしていると、何とも言えない不思議な気分に自分が襲われているようであった。 (1)

冒頭に置かれていなくても、そうとう刺激的 で奇妙な書き出しの解説です。
といっても、むろん、訳者は自分の訳書の中に「作品」を忍びこませようとしているのではありません。

 彼女のもっていた知識、あれは何だったの だろう。なぜ、大学も行っていない社会の目立たぬ職場で働く彼女がとぎすまされた知識をもち、
 そして国際結婚ができるような語学力をもっていたのか、わずか20歳で。 (2)

訳者の関心は、学校教育への絶望と社会教育 の可能性という方向へ向かいます。
そこで言う社会教育は、いつもは学校で教えている講師が学校でない場所で学校のように教える、というような場ではありません。
それは、「彼女の存在」によって証明されるような、社会という場が持っている教育の可能性であり、
むしろ、「彼女」自身が持っていた学習の可能性なので す。

そして、ほんの1ページだけ 触れられたこの「個人的断章」で、実は、この本の全てが終わっているのです。

その後に書かれている、リンデマンという人 が1926年に「成人教育の意味」という本を書いたとか、
著者は幼い頃から働いていて学校教育は成人になってから受けたとか、
その経験から書かれたこの本があるべき成人教育の姿についてさまざまなヒントが書かれているとかの原書を解説した「解説らしい解説」や、
その後に掲載されている「成人教育の意味」という本を訳したいわゆる「本文」は、すでに枝葉末節になっているのです。

むしろ、「彼女」を証 明することが、この本の主題とも言えましょう。
あるいは、訳者の研究の出発点が「彼女」を証明することにあったと告白しているようでもあります。

「彼女」とは何か。それは、特別な誰か、で はありません。
少なくとも教育の場所やら過程やらを考える限り、彼女がことさら特別な存在ではなかったのでしょう。
とすれば、そこから導かれることは、社会人として当たり前の経験をしている者は、誰でもが「彼女」でありえる、ということなのです。
あるいは、誰でもが「彼女」になりえる、といってもよいでしょう(その「なりえる姿」は、個人によって変わってくるのでしょうが)。
つまり、社会人としての当たり前の経験の中に、人をそれだけ教育する力を持っているのだというわけです。

当たり前の社会経験が教育する力を持つとす れば、それはどのような形をしているのでしょうか。
私たち自身の経験を振り返ってみても、学校教育のイメージで考えるならばとても教育的意義があるとは思えない
「興味のおもむくままに」「とにかく経験を重ねる中で」「誰に教えられたわけでもないが」「多くの人との関わりをとおして」
成長をしている自分自身というものをふりかえることができるでしょう。


このような当たり前の社会経験が持っている教育力を、意図的に「成人教育」という場にとりこむべきである、
というのが、「成人教育の意味」という本の本文に書かれています。
そして、それが、現在の「社会教育」から「生涯学習」へという大きな流れの中で、いまだに着地点を見出せないでいる行政・研究・現場にとって、
多くの示唆を与えるのではないか、というのが訳者の主張です。  

社会教育に関わるのなら、「彼女」を生み出 した「社会」そのものの教育力に負けていてどうするのか、と。    


   (1) 「成人教育の意味」(エデュアード・リンデマン・堀薫夫訳・学文社) 3p.
   (2) 上掲書 3p

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