もっと聴いていたい「噺家の歴史」

                                 ---- 桂文我「落語「通」入門」を読む(2006.11.18)
まず、タイトルが上手い。
書かれていることは、あとがきにもあるとおり「資料から辿る噺家の歴史」である。
しかし、それをそのままタイトルにしては売れるはずがない。

もともと「資料から辿る噺家の歴史」など、よほどの落語好きでないと読みたいとは思わない内容である。
とはいうものの、よほどの落語好きでも噺家の歴史まではくわしく知るわけではない。
落語「通」を自認するなら知っておきたいし、勉強したいものとして「噺家の歴史」があると言えなくなくもない。
そこで、「通」と「入門」という本来ならば相容れない言葉をつなげた不思議なタイトルが生きてくるのである。

落語家の文章だけあって、話し言葉で書かれているので非常に読みやすい。
あえて言えば、頻繁に使われている
 聴衆が「なるほど、面白いなァ。上手いことやるがな」と喝采して(p12)
のような心象を話し言葉にする表現がいささかくどくもあるのだが、もともと語られている言葉が文字になったと思って読めば気にならない。

それぞれの時代を代表する噺家を紹介しながらその時代の特徴を追っていく展開で、
もっと詳しい人から見れば、「時代を代表する噺家」の人選に不満がある可能性もあるのかもしれないが、
新書版の長さであることを考えるならば、この程度の情報量で十分健闘しているといえよう。

上方の噺家が書いているので当たり前といえば当たり前だが、上方、江戸の両落語界をバランスよく書いていると言う点も評価したい。
(勝手に「ワールド・シリーズ」と名乗っているアメリカ野球界のように、江戸の落語界を描いて落語のすべてを語った気になっている本は多い。)
江戸との対比で言えば、もともと落とし噺よりも語りを重視する気風があったとはいえ、
寛政の改革ではっきりと滑稽話に対する幕府の弾圧があったために、滑稽さを表に出すような興行ができなかったという指摘には、
なかなか興味深いものがある。

文我がこのような本を書くきっかけが、
 最近は米朝師匠のように、落語の資料を集めながら、落語の歴史を熟知した上で本を著せるようなタイプの噺家がいないから、
 米朝師匠の万分の一でいいから、そのジャンルを押さえなさい(p226)
という枝雀師匠の言葉から出発したというのも嬉しいエピソードだ。
夭折した師・枝雀の思いを、文我が確かに受け止め、この本の形で結実させているのである。

また、それまでに刊行されてきた演芸関係書の誤りを正す作業も、いろいろな資料にあたりながら行っているらしい。
地道な検証を重ねてやっと一行が書けるようなことも多いのであろう。
その成果を、この一冊にとどめてしまうのはあまりに惜しい。
学術的に深めることの貴重さもさることながら、こんなに楽しい話ならもっとし読んでみたい。
そんな心地よい読後感が、なおさら続編への期待を高めるのである。



 * 引用は、すべて「落語「通」入門」(桂文我・集英社・2006年)からである。

     集英社サイト内「落語「通」入門紹介ページ
    Wikipedia 桂文我(4代目)ページ
    桂文我公式サイト

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