黙々と自分の仕事をするものの物語

                     ---- 「パリを愛した画家・西村功展」を観る(2006.5.21)

会期の最終日に、ようやく西宮市大谷記念美術館の「西村功展」を見ました。

2003年に80歳で没した西村功は長く二紀会の重鎮として活躍したのですが、聴覚に障害があることでも知られていました。
画家について語るのに、その作品とは直接関係がないはずの障害について触れるのは禁じ手であるかもしれません。
しかしながら、展覧会の年譜でも3歳で聴覚を失ったと明記してあるように、
西村功の作品を語るには聴覚障害は切り離すことが出来ないものでありました。
それは、西村功が耳を描かないことで知られている作家であったからです。

そのことは、西村自身も認めています。
ギャラリー島田の西村功紹介ページには、次のような西村の言葉が紹介されています。
「そのころはポール・クレーのフォルムとポエジーに全く魅せられた時で、
単純化された形態と、平面的にして空間のはっきりした表現にしようと、一生懸命描いたと思う。
それが、何となく、角張ったような作品になってしまった。そして人物の耳もなくなった。耳を描こうとするひまがなかった。
耳があってもなくても、画に支障はないと思った。」(1)

まず、ここで確認おきたいのは、西村自身が語っているとおり、
西村が耳を描かなかった理由は省略や抽象化という自らの表現を追求した結果行き着いたものであり、
そのことで特別なメッセージを発しようとしているのではないことです。
おそらく、初めて西村作品に接した者は、教えられない限り人物に耳が描かれていないことに気づかないことでしょう。

しかしながら、「耳があってもなくても、画に支障はない」と思う程度にしか西村が耳を評価していなかったということ自体が、
やはり西村自身の障害と無関係ではないと言わざるをえません。
それは、例えば、人物を描くのに「省略しても支障がないもの」として他に思い浮かぶ「ホクロ」などと比較すれば、
理解していただけることでしょう。
では、聴覚の障害というものを内に秘めた西村功は、どのような作品を作ったのでしょうか。

展覧会の最初に並べられていたのは、戦後すぐに描かれた申し分なく達者なバレリーナの肖像でした。
それに続く数点の自画像は、描きたいという思いと描くべき対象の焦点があっていないような、
いかにも美術学校を出たばかりの20代の画家が描きそうなものでした。

そこからの転機となるのが「赤帽」シリーズです。
上で紹介した西村の言葉によれば、
赤帽への興味は、「佐伯祐三の描いた「郵便配達夫」の鋭い線ときびしい画風に打たれたことが大きな動機」であり、
たまたま借り受けた赤帽は「戦後間もない頃のものなのに、赤いラシャで出来ていてとても美しかった。
その赤い色に魅せられて、赤帽をテーマにして、次々と、二紀展へ作品を発表するようになった」(2) といいます。
「赤帽をかぶった自画像」から出発したシリーズは、やがて本物の駅の赤帽の姿を描くようになり、
「新聞をみる赤帽、車を引く赤帽、荷物を運ぶ赤帽、次いで駅長、車掌等へ、モチーフが広がって」(3) いきました。

そして、西村は「赤帽」や「駅」という自分のテーマを見つけていったことにあわせて、
その作品で描かれる人物に耳を描かずに表現するようになりました。
先に引用した「耳があってもなくても」という一文は、ここに続くものです。

当時、西村が取材場所にしていたのは、国鉄大阪駅です。
今でこそ飛行機の旅が当たり前のものとなり、新幹線網が鉄道の旅を急がせていますが、
当時の鉄道は東京−大阪間の移動でも6時間以上かかるほどで、
多くの旅客たち相当な時間を列車の中ですごすことを覚悟した上で、宿泊を伴う荷物を持ち歩かねばなりませんでした。

そんな時代であるからこそ、お金をかけてでも快適に過ごしたい人のために、
相当に料金とサービスが異なる一等車から三等車という明確な区分もありました。
「赤帽」という職業は、そうした時代の駅には無くてはならぬものだったのであり、
「快適な旅」を望むゆとりのある旅客たちは、いくばくかの小銭とともに赤帽に手荷物を預けたのでした。

そんな「赤帽」のいる風景を、西村は描き続けました。
「車を引く赤帽」では、大きな旅行カバンを乗せた台車を運ぶ赤帽を描きます。
しかし、赤帽本人は、西村のそれまでの暗い画風そのままに暗い画面の中に沈み込んでしまうように描かれ、
カバンの大きさばかりが目につきます。
「赤帽室」では、ドカドカと並ぶ荷物を背景に、ぽつんと赤帽が一人立っています。
それらは、確かに駅の一角ではあるけれど、
華やかで騒がしい駅のどこにこんな光景があったのかと思われるほど静かな空間です。

一つには、音を発するものが描かれていないということがあります。
正面をむいた赤帽の口は、小さくすぼめて描かれ、会話という手段を拒絶しているようにも感じられました。
赤帽を表現するには必ずしも音は必要がないことは確かです。
しかし、それ以上に、西村によって再構成された世界は、
風景の中の音の要素を意識的にか無意識にか省略していくようです。

そのことによって見慣れているはずの風景は、どこがどう違うのかを指摘することはできないけれど
(あるいは、人物の耳が省略されているという野卑な指摘しかできないけれど)、
健聴者である私にはどこか違った風景であるように感じさせてくれるのでした。
 
また、郵便配達夫から赤帽へという連想をみると、西村の関心は赤帽そのものの美しさだけではないようです。
聴覚障害は、一言で言えば「コミュニケーションの障害」です。
以前、仕事の関係で入った手話の講演会での体験ですが、
当然、そこは手話で会話する人たちが集まっており、手話での講演に聞き入り、時に笑い声さえ起こります。
しかし、手話のわからない私は、何が起こったのかさえわからないまま取り残されてしまいます。
それは、私にとっての小さな「聴覚(コミュニケーション)障害」体験だったのですが、
このことは聴覚障害というものが「取り残される(がそのことに気づいてさえもらえない)」障害であるということでもあるのです。

駅の中の主役は旅客です。
赤帽は、それぞれの目的地をめざして旅客たちが行き交う中を、ほとんど背景に埋もれながら荷物を運びます。
そして、旅客たちがそれぞれの目的地へ去ったあとも、常に駅に残されるという存在です。
赤帽への入口であった郵便配達夫もまた、「運ぶ」という仕事であり、
その黙々と一人働く姿はけっして街の主役ではありません。
それらは、ともに本来の風景の主役であり喧騒の中心である人々から離れたところにあり、
与えられた自分の仕事を黙々とこなしています。

西村は、そんな職業としての赤帽に興味や共感を持ったのではないか、
そして、その背景には聴覚障害に基づく「取り残され」体験があるのではないか、
いくぶんかの憶測をこめながら、このようなことを感じたのでありました。(4)

さて、60年代に入ると、描かれる対象が赤帽に限らず駅員など様々な「駅」にいる人物に移っていきます。
また、抽象絵画の大流行という時代の中で、画面はカミソリの刃で白い地肌があらわれるまで傷つけられ、
その無数の白い直線が画面を多い尽くすようになりました。

「ベンチのある駅」では、俯瞰の位置から描かれたホームが無数の鉄骨の組み合わせによる柱と屋根(の骨組み)で表現され、
時計や案内板らしい白いものが天井から吊るされていることで、かろうじて駅らしさを保っています。
埋め尽くされた縦横に引かれた白いキズは、交錯する電灯の光のようにも見えます。
あるいは、画面全体をおおいつくす薄ぼんやりとした霞のようでもあります。

「駅長」は、正面に大きなテーブル越しに座る駅長を描き、その手前に何か説明しているはずの人物がいるようです。
ただし、説明しているはずの人物は画面の下端にかろううじて帽子の一部と両手が描かれているのみであるため、
会話の場面であるにもかかわらず音が聞こえてこないという不思議な画面になっています。
駅長室の中という本来入れるわけではない場所を描いていることもあってか、
窓越しに垣間見ている風景が急に目の前に登場したようにも感じられます。

この白いキズは、西村に独特のマチエールを与えたということでもありますが、
同時に画面全体から音を吸収してしまうような視覚的効果もあるようです。
 「駅長」に現れた「窓の向こう感覚」は、音のない世界に生きる西村功の取り残され感覚の相似形のようにも思えます。
そして、1965年「ベンチの人々」で第9回の安井賞を受賞するや、西村功は、パリに題材を求めることとなるのでした。
 
50代でパリを訪問して以来、西村のテーマは一貫してパリ、主にメトロの光景になります。
痛々しささえ感じられた画面を白く傷つけることも部分的な効果にとどまり、色使いも変わって画面はやわらかく明るくなりました。
同じ駅を描いていても、メトロに乗り込んで明るい車内を描いたり、ホームでメトロを待つ乗客の姿も描かれます。

しかし、人物の描かれ方は独特です。人物の前に何かさえぎるものを描こうとするのです。
「メトロの車内風景」では、まず座席があり、
2等車を表わすローマ数字が大きく描かれた背もたれの向こう側に数人の人物がいます。
「メトロ1、2等車」ではメトロを横から描き、人物は窓越しに座っています。

ホームが描かれている場合も同様です。
「自動扉が閉まると」では、地上からホームに向かう階段が降りきったところに柵と自動扉があり、
自動扉が閉まっているためにホームに入れない乗客たちが所在なげに立っているところ描かれます。
ホームにいるのはモップを押している清掃員のみです。

「メトロを待つ」ではホームでメトロを待つ人々が描かれているのですが、
ベンチに座っているる人物は、画面全体の5分の1ほどの大きさでしかありません。
彼らの背後には高さ4mはあろうかという巨大な広告があり、その上には天井から降りてきている蛍光灯があり、
さらにその上に広がる暗く沈んだレンガの壁面までもが描かれています。
しかも、画面の最下端は、ホームの切れ目が描かれており、
その下の線路へとつながる影の部分が黒い空間として描かれているのです。
(その結果、ホームにいる人たちの「向こう側にいる」感も強まります。)

「自動扉が閉まるとき」の描かれ方は、これまでの西村作品とあわせて見るならば、なんとも西村功らしいものと言えましょう。
ホームを描くのに、わざわざ「自動扉が閉まるとき」を選んで描き、わざわざ清掃員だけをホームに残しているのです。
西村にとっては、清掃員だけが自分の側の存在であり、一般の乗客は扉の向こう側に存在しているものなのです。
また、「メトロを待つ」の大胆な画面の切り取り方は、西村が描こうとしているものが「ホームでメトロを待つ乗客」なのではなく、
「メトロを待つ乗客がいるホーム」であるということなのです。
他にも数枚のメトロのホームが描かれた作品がありましたが、自動扉のフェンスを強調した「自動扉が閉まると」以外は、
すべて「蛍光灯の上からホームの下まで」を描くというルールをかたくなに守っておりました。

つまり、パリに行って画面が明るくなっても、
西村が愛したのは清掃員のような黙々と自分の仕事を続ける駅に残される人たちだったのであり、
旅立っていく乗客たちとは距離のある存在なのでした。
そう思ってみていると、メトロの巨大な広告たちもまた乗客たちが去って行った後も駅に残されてしまうものです。
むしろ、黙々と駅で働き続けるということでは、巨大広告も、吊り下げられた蛍光灯も、ホームそのものが、
西村にとって愛おしい黙々と働くものたちであったとも言えそうです。

「パリを愛した画家」。
パリを題材にやさしい明るさを持った数々の作品を残した西村功の回顧展にふさわしい見事な副題です。
しかしながら、その初期作品からパリへと至る流れを見つめてみると、
西村功が本当に愛したのは、黙々と働き続けている様々な人たちやものたちではなかったのか。
そう考えさせられた展覧会だったのでありました。


 
 (1) 西村功「赤帽との出会い」(ギャラリー島田・西村功紹介ページ)
 (2) 西村功「赤帽との出会い」(ギャラリー島田・西村功紹介ページ)
 (3) 同上
 (4) 西村功自身が、日常的にどのようなコミュニケーション手段ををとっていたかについては知らない。ただし、かつての聾学校は
  「読話、発声」訓練が中心であり、手話を使うことは固く禁じられていたらしい。つまり、聴覚障害者を手話という「母国語」ではなく、
  音声による日本語に対応させる教育であったということである。もちろん、障害そのものに対する理解も異なる。そうした点で、西村もまた
  強い「取り残され体験」を内に秘めていたと考えるのである。

      西宮市大谷記念美術館サイト内・収蔵品データベース「西村功」ページ             
      大龍堂書店サイト内・西村功展紹介ページ
      東京文化財研究所サイト内西村功ページ              
    
                                    

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