「毎日が夏休み」(金子修介・監督、大島弓子・原作、1994)をCATVで見ました。
最初に「毎日が夏休み」が映画化されたと聞いて、
数
ある大島作品の中から、なぜ「毎日が夏休み」でなければならなかったのか、と不満がありました。
なにしろ、登校拒否の女子中学生が一流企業を辞めてしまっ
た父親と「なんでも屋」を始め、
いくつかの困難を乗り越えて、父親が辞めた会社にひけをとらないような一流企業になってしまう、という話なのです。
もちろ
ん、今のはかなり意図的な誤読をしたのですが、それでも、ともすれば荒唐無稽と受け取られかねない物語を
わざわざ映画化しなくてもいいのに(貴重な少女ま
んがの映画化の機会であるのに)、正直いってそんな思いがありました。
特に、「成績表を改ざんしている登校拒否の中学生」とか、
「エリートコースに乗りながらも一流企業を自ら退職してしまったサラリーマン」とか、
「家事一般を引き受けるなんでも屋」という設定の中途半端な生々しさ
が、
生身の人間が演じる「映画化」への不安感をことさらにあおるのでした。
さて、その不安な「映画化」をしたのが金子修介で
す。
少女まんが読者にとっては、「1999年の夏休み」の監督として知られている人といってよいでしょう。
この作品は、「翻案」にとどまったとはいえ萩尾望都の
「トーマの心臓」を映画化したもので、
ドイツのギムナジウムの物語を近未来(1988年制作)の日本に移し替えながらもなお、
「トーマ」原作という雰囲気
がそこなわれることのない作品に仕上がっていました。
そこでなされた判断は、本物のドイツの少年やギムナジウム
を使うよりも、
閉塞感を強めた近未来の日本という設定で日本の少女たちを少年役として撮影する方が、
より「トーマ」的であるということであったのでしょ
う。
ストーリーや設定をなぞることよりも、「トーマ」的な世界を構築するために本当に必要なものを見極めることができたからこそ、
「1999年の夏休み」
は成功したのだといえます。
では、金子修介は、大島弓子・作「毎日が夏休み」をどのようなものとしてとらえたのでしょ
うか。
冒頭、入道雲が美しい夏独特の青空から始まります。
一転、模型のような新興住宅地に画面が変わると、登校拒否中学生スギナのナレーションが入ってきます。
新興住宅地って、よくドラマの舞台になるけど、
それは本当は、ドラマが何もおきないからなんだと思う。
快適な空間すぎて、空気がうすいのだ。
でも、いきなり金属バット殺人事件や、
コンクリート詰め殺人事件がおきちゃっ
たりするのも、
その、うすい空気のせいなんだろうか。
このフレーズは、原作にはありません。にもかかわら
ず、いかにも原作にありそうな感じです。
それに続く、母・父・スギナの登場シーンから出勤・通学(してないけど)までのシーンが、
原作をほぼ忠実に再現し
たスギナのナレーションで導かれているので、
見ている側は最初から大島弓子がそんなナレーションを書いていたのか、と思わせるほどです。
むしろ、この原作にないナレーションを潜り込ませること
で、この映画はより大島弓子的に見えてきます。
「快適な空間すぎて、空気がうすい」という表現は、そのまま大島弓子の白っぽい画面のことを思い起こさせま
す。
映画ではありえない大島弓子の真っ白な背景のかわりに何をおくのか、
あるいは、大島弓子は真っ白に描くことでどんな背景を想定していたのか。
この問い
に対する金子修介の答えが、「快適な空間すぎて、空気がうすい新興住宅地」であったのでしょう。
だからこそ、映画は、この「新興住宅地」をどの人物よりも先に「登場」させています。
それは、この物語の本当の主役が「新興住宅地」であり、その「快適な空間すぎる空気のうすさ」を描くことによって、
大島弓子作「毎日が夏休み」の世界を映画化することができるのだと主張しているようにもみえます。
たとえば、さらに続く、公園で登校拒否のスギナが退職した
父親と出会うシーンです。
ゆるやかに傾斜した芝生の緑は、鮮やかな太陽の光を照り返して青空と強いコントラストを描いています。
よくこんな場所を探してき
たものだ、という単純な感想が素直に出て来るほど、
それは無機質で美しく、自然の緑でありながら人工的な都
会の快適さを表していました。
確かに、そんな新興住宅地はありそうです。
少なくとも、人工的な「快適さ」に満ちあ
ふれたとされる「新興住宅地」は、いくらでも現実に存在しています。
「空気がうすい」という表現は、快適なはずの空間の「快適さ」を支えるリアリティが
「うすい」ということなのでしょう。
<本当にそこに存在しているにもかかわらず、存在していないような快適さ><リアリティがないとい
うことが現実に存在しているという事実>、
そんなイメージがこの「新興住宅地」には付与されているのです。
そんな新興住宅地であれば、突拍子もない人物に見え
た父(佐野史郎・好演)も上品な優秀さをただよわせるし、
中学生だったスギナ(佐伯日菜子・当時は新人、初々しい)が「なんでも屋」の「かわいい助手」と
して活躍するのもあたりまえのように見えてきます。
むしろ、「なんでも屋」の仕事をしている父娘の姿は、「快
適で空気がうすい」新興住宅地のなかで、
思い切り「濃い空気」をすっているような(あるいは、まさに「毎日が夏休み」のような)さわやかな充実感さえを感
じさせてくれます。
エンドロールにつながる最後のシーンは、再び公園です。
ハ
ンカチを枕に芝生でまどろむスギナを初夏の陽射しがやさしくつつみこみます。
マンガにもあった「考えてみれば / あの日、わたしは
/まぶしい永遠の夏休みを手に入れたのだと思う」に始まる
スギナのナレーションがはいります。
そして、最後の最後に、金子修介は、映画だけのこんな言葉を付け加えました。
そしてわたしは今日も思い出す
あの夏の初めの日の満ち足りた温かさを
そのまま引いていったカメラはぐんぐん視点が高くな
ります。
そして、どこまでも広がる芝生の中に、背の高い樹木とその影がうれしい遊歩道が遠く見える、
いかにも新興住宅街らしい美しい公園を俯瞰するところ
までカメラが引ききって、映画は終わります。
その陽射しのやさしさと広がりは、スギナがみつけることのできた「快適な空間すぎて、空気がうすい」新興住宅
地の
もう一つの姿であるのでしょう。
「快適な空間すぎて、空気がうすい」新興住宅地は、
同時に「夏の初めの日の満ち足りた温かさ」にもあふれている。
それが、金子修介がみつけた「毎日が夏休み」です。
そして、そこで演じられたちょっとした和解や成功の物語はそんな新興住宅地を描ききるための小道具でし
かない、
そのようなことさえ感じさせてくれる、なんともさわやかな映画だったのでありました。