「自画像」になりきって語られる森村流の美術史 ――――森村泰昌「自画像の告白」を見る(2016.7.30)2016年春、国立国際美術館において、「森村泰昌:自画像の美術史―「私」と「わたし」が出会うとき」が開催された。最初は、森村作品全般を「自画像」になぞらえた回顧展なのかとも思ったがさにあらず、 「自画像の美術史」のタイトル通り、美術史上の「自画像」に着目した上で、 例によって森村自身が画家本人になりきって再現された「古今の自画像」を並べた 多くの新作を含む大がかりかつ戦略的な個展だった。 つまり、<「私」と「わたし」が出会う時>とは、 「森村泰昌本人(私)」が「古今の画家が描いた自画像(わたし)」と出会うという意味であり、 「自画像に扮した森村泰昌(私)」が「自画像に投影された古今の画家の心情(わたし)」と出会ったということだ。 ところで、「本人になりきる」と言えば、「本人術」の創始者・南伸坊を忘れることはできない。 2004年、滋賀県立近代美術館の「コピーの時代」展の記念講演会においても、 森村泰昌は、自分の仕事に通じるものがある試みとして南伸坊の当時の近著「本人の人々」を取り上げていた。 当時、森村はゴッホの自画像に自ら扮する作品などを発表していたものの、 まだ、自画像そのものへの特別な関心や執着はなかったように思う。 むしろ、「服装から姿勢、表情に至るまで本人になりきると、本人が憑依してくる」とする 南伸坊が提唱する「本人術」に大いに触発され改めて美術史的に展開したものが、今回の森村泰昌の展覧会と言えそうだ。 展覧会では、100点を越える森村泰昌扮する古今の自画像作品が並んだあと、最後に、70分の映像作品が用意されていた。 そこでは、展覧会の平面作品でも登場したレオナルド、カラヴァッジョ、ベラスケス、レンブラント、ファン・エイク、 デューラー、 ルブラン、 フェルメール、ゴッホ、カーロ、デュシャン、ウォーホルに扮した森村と、森村本人が登場する。 厳密には、テュシャンは「不在こそが存在の証だという見解で、欠席」している。 この本は、映像作品に登場した「森村が扮する画家たち」の写真を背景に、 その画家たちが「告白」という形で語っていた言葉を、そのままノーカットで収録しているものである。(長い前置きだ。) したがって、「第1章 レオナルド・ダ・ヴィンチ」をはじめとするあらゆる章において、 そこに登場している画家たちを演じているのがすべて森村泰昌であるなら、 横に添えられた画家たちの告白も、すべて森村泰昌によるものである。 この手法は、まさに南伸坊の「本人術」である。 南伸坊の場合は、シロート感覚を売りにしているところもあるので、扮装の不十分さもわざとライブ感覚の味にしているが、 森村の場合、あくまでも芸術作品として丁寧に仕上げているので、細部にまでスキのないよう綿密に構成されている。 たとえば、レオナルドは、なぜか浮浪者のようないでたちで大阪の下町を歩いている。 「ラス・メニーナス」の登場人物たちは作品を飛び出し、自分たちのいない作品を眺める。 ゴッホは、あのゴツゴツした筆致のまま、あこがれの国・ジパングのネオン街に立つ。 映像作品では、というか、それを書籍化したこの本では、 いかにも考え抜かれた感のある手法で古今の画家たちやその作品は解体され、 それを演ずる森村の視点に基づき、新しいイメージに再構築されている。 こうした一連の森村泰昌の仕事は、南伸坊の「本人術」の実践の一つではあるが、 南伸坊の「本人術」を出発点にしながら、 見事なまでに森村泰昌の作品して昇華させている。 ひょっとすると、レオナルド・ダ・ヴィンチの素顔が、実は自分たちが知っているのとは全く違っているのではないか、 と、つい勘違いしてしまいそうになるほどに。 * 形式的には、森村泰昌著の「自画像の告白」という書籍に対するレビューではあるが、本文中にもあるように、 この本自体が「森村泰昌:自画像の美術史 「私」と 「わたし」が出会うとき」展の主要作品であるビデオ作品「自画像の告白」を 書籍の形にしたものであり、むしろ、「森村泰昌:美 術史 「私」と「わたし」が出会うとき」展に対するレビューとしてある。
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