あからさますぎる性的暗喩を使った少女の成長物語
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映画「思い出のマーニー」を見る(2014.9.3)
「借りぐらしのアリエッティ」でデビューした米林宏昌監督の
第二作である。
前作では脚本に宮崎駿が携わっていたが、今回は米林本人が脚本に参画しており、
「宮崎・高畑」が全くかかわらない初めての「ジブリ作品」というフレコミである。
喘息の療養のため、海辺の小村でひと夏を暮らすこととなった杏奈は、
入り江の向こう側の奥深くに、どこか懐かしい謎めいた洋館があるのを見つける。
そこには、マーニーと名乗る金髪の少女が暮らしていた。
孤独な心を抱えた二人の少女による、現実とも幻想ともつかない不思議な交流が始まる。
原作は同名のイギリスの児童文学の古典で、岩波少年文庫に収録されている。
ジブリの仕掛人・鈴木敏夫から「思い出のマーニー」の映画化を勧められたとき、
米林は、原作を文学作品としては感動したものの、映画にするのは相当に難しいと感じたという。
「思い出のマーニー」のような会話とその微妙な変化で進む物語は、
動きを中心とするアニメ―ションでは描くことが困難なのだ。
しかしながら、舞台をいったん現代の札幌という、一見、身近そうな場所に置き換えた上で、
いきなり「釧路近郊の湿地帯」という底知れないほどに謎めいた、得体のしれない場所に展開してしまうと、
アニメーションの「魔力/魅力」によって、どんな不思議なことが起こっても許せる気分になる。
こっそり洋館を訪れた杏奈が、初めてマーニーと向き合い、言葉を交わした夜、
入り江が満潮になって帰れなくなってしまった杏奈を、マーニーはボートを自ら漕いで村まで送り届ける。
やさしく包み込むように静かな海面を進む、二人だけを乗せた小さなボート。
月の光にぼんやり浮かび上がった二人の少女の妖しく、かつ美しいこと。
と、ここまで書いて、おそらくは原作そのままであろう舞台のしつらえが、あからさまなまでに「女性的」であることに気付く。
マーニーの洋館が「湿っ地屋敷」と名付けられているのだから、なおさらだ。
そして、物語の後半、二人の少女が秘密の交流を続けた湿地帯の入江を離れ、
マーニーにとって「トラウマ」となっていた「丘の上のサイロ」を勇気を出して訪れたとなると、
もはやサイロは屹立する男性器の象徴としか見えなくなってしまう。
サイロを訪れた少女たちに、天は突然に表情を変え、激しい雨を浴びせかけたのも象徴的だ。
かくして、杏奈は、秘密の存在であった「大好きなマーニー」を失う。
もしくは、マーニーを思い出の中に返していくことで、
「他者(あるいは、異性)」とも暮らしていくことができるようになった自分を見つける。
もう、杏奈は、都会でも暮らすことができるようになっているはずだ。
などという飛び道具な感想になってしまったのは、
パンフレットに寄せられた三浦しをんの<「いま」を生きるすべてのひとに>が
あまりにも的確すぎて、それ以上付け加える言葉が見いだせなくなくなったのだ。
最後に、三浦しをんの一文を引用して締めくくりたい。
映画「思い出のマーニー」は、「大人を慰撫し、郷愁へ誘う作品」では断じてなく
「子どもと、かつて子どもだったすべてのひとに、「きみは一人じゃないよ」と囁きかける作品」ではないかと思う。
全文を読みたい方は、今すぐ映画館へ行って、パンフレットを買ってほしい。
そのために買ってもよいくらいに、三浦しをんの言葉は静かだが深く響いた。
とはいえ、空を飛ぶことも、落ちることも、破壊されることも、浄化されることもない
地味な児童文学をアニメーション映画とすることで、商売として成立するのかが、いささか気になるところだ。
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