天地の初めて発(ひら)くる時、枠線も生まれる

                         ――――こうの史代「ぼおるぺん古事記」天の巻を読む(2012.9.2)

 
軽妙にして、労作である。
冒頭に(おそらくボールペンで描かれた)ボールペンが描かれ、 その脇には次のような言葉が添えられている。

 玉のついた矛が国生みを助けたように 
 玉のついたペンがこの作品を導いてくれるはずだ

続いて、1ページ30行、4ページにわたって、おそらくボールペンで書かれた手書き文字の漢文が並ぶ。
古事記の「天之御中主神」の誕生から「大国主神」の誕生直前までの原文である。
わずかこれだけの分量しかないのかと驚いたが、もともと暗誦されていたのだと思えば案外こんなものなのだろう。

その次のページには「ボールペンの芯」だけが描かれているが、そう思って見てみると「ポールペンの芯」は矛に似ている。
そして、こんな分量かという30行4ページの古事記の冒頭部を忠実にマンガとして描きだしたのが、
こうの史代版「古事記」である。

マンガの冒頭は、混沌とした薄いカケアミ以前の短い弧のようなものが画面全体を覆い、
やがて、画面の上下にカケアミによる濃淡が生じ始める。
そして、6ページが過ぎたとき、画面の下方に重さが、上方に軽さが感じられるようになったところで、この言葉が入る。
   天地の初めて発(ひら)くる時
気がつくと、出現していたのは天と地だけではなく、
ページを内と外に区切るかのように、濃いカケアミによる線が発生している。

そして、次のページには、そのカケアミが鈍い太線ながら「枠線」となり、
コマの中央には「高天原に成れる神 名は天之御中主神」という言葉と、
その横には「長髪で長い口髭を生やした老人」が点線で描かれている。
ペロペロキャンディを手に持っているのは、「アメノミナカヌシ」だからだろうか。

次のページには、点線の「天之御中主神」の下に、点描と点線で描かれた黒ひげの神と長髪の神が描かれ、
「次に高御産巣日神、次に神産巣日神」という言葉が入る。
ちなみに、「高御産巣日神(タカミムスビノカミ)」は「おむすび」を持っている。

言葉は、冒頭に置かれた古事記原文の書き下し以外は、一切書き加えず、また省略もしない。
予断を加えず、ありのままを描くという姿勢は、「夕凪の街・桜の国」のころから変わらない。
しかし、言葉に残された以上の情報はないから、
言葉以外の部分は、こうの史代が自力で想像力をはばたかせながら描くしかない。

「アメ」や「おむすび」は作者のお遊びとしても、いざ「天之御中主神」や「高御産巣日神」を描くにも、
「天之御中主神=<天上界>の中心となる神」 「高御産巣日神、神産巣日神=美称+生む霊力の神」 という、
その名の持つ意味しか手掛かりがない。にもかかわらず、 こうの史代は、この巻だけで百を越える神々を描いていく。

欄外には、上に引用したような神の名などの注釈も書かれており、
こうの史代が、なぜ、その神をあのような姿に描かれたかが、わかるようになっている。
古事記の注釈本などでも神の名とその意味を羅列していることがよくあるが、
このような形で絵にされる方が圧倒的に理解しやすい。
(もっとも、絵には、それだけの影響力があるので、
描くこうの史代の側からすれば、いろいろと気を遣うところもあるだろう。)

もちろん、自由に脚色で聞きる場面では、マンガ家としての技も生きる。
伊邪那美命は「吾が身に成り成りて成り合はざる処一処在り」と言いつつ、
スカートのすそをまくり上げながら自ら中を覗き込む。
伊邪那岐命も「我が身は成り成りて成り余れる処一処在り」と言いながら、
ズボンの腰のあたりを緩めて、その中をのぞき込んでいる。

また、水蛭子を葦船に入れて流した時も、わざわざ葦船に釣竿を添えているし、
伊邪那美命が本州から九州までの大八島と、それに続く6つの島を生み、
(北海道や南西諸島がない)当時の日本全土を俯瞰するコマにも、
葦船に乗り、釣り糸を垂らす水蛭子を太平洋上に描くことを忘れない。

伊邪那岐命が黄泉の国から逃げ帰るところで、
髪に巻きつけていたつる草を投げると野ブドウが成り、髪に付けていた櫛を投げるとタケノコが成る
という描写をしながら、
「こうして絵にしてみると、ブドウは鍾乳石、タケノコは石筍からの連想のように思えますね」という注釈をつけるあたりにも、
ありのままに描きながら、現代人の目で冷静に見つめ直すという、
こうの史代らしさが現れていると言えようか。

天の巻は、須佐之男命の八俣のおろちの物語までを描き、次は、大国主命の物語になる。
どんな「ありのまま」を描いてくれるのか、今から楽しみだ。



 

       限られたカラーボールペンが表現する豊かな色彩

                       ――――こうの史代「ぼおるぺん古事記」地の巻を読む(2012.10.20)


地の巻は、大国主神にして、大穴牟遅神にして、他にもいくつかの名を持つ、
要するに、オホクニヌシが主人公になる。

オホクニヌシは、数々の試練を乗り越え、この地の王となり、
各地のヒメたちと浮名を流し、高天原の神々に国を譲り、出雲に祀られる。
このあたりは、まあ、誰でも少しは知っているようなことだが、
いざ、マンガとして描かれると、絵の持っている表現の強さによって印象がずいぶん異なる。

心優しいオホクニヌシがヒメたちにモテモテであるとき、
言葉だけの古事記を読み流すとオホクニヌシの魅力や威光という目線で見ることになるが、
その背後に怒り、苦しみ、悲しむ女性たちの姿を描き込むと、オホクニヌシの節操のなさが印象付けられる。
また、国譲りの場面も、言葉では偉大な高天原の神々にオホクニヌシが伏したと読めるが、
絵にすると、繁栄しているオホクニヌシの国に突然やってきた高天原の勢力が言いがかりをつけ、
無理やり武力で国を奪い取ったとしか見えない。

さらに、こうの史代の絵の力を感じさせるのは歌の場面だ。
オホクニヌシがヒメたちと歌を交わす場面は、突然、カラーになる。
といっても、「ぼおるぺん古事記」なので使われるのは色つきボールペンのみだ。
しかも、赤・青・緑・黄・紫という限られた色しか使っていないにもかかわらず、
そこから描き出される色彩が実に豊かなのだ。
線の間隔やかけあみの違いによって色の濃淡を変えてみたり、
複数の色の線を重ねることや、隣に別の色を置くことで、色にも変化をつける。

これまでも、こうの史代についてはカメラの位置の自由さについて、
つまり、どんな角度からでも人物やモノを表現する力があるということで、
デッサン力があり絵が上手いマンガ家であると言われていたが、
色彩についても、限られた3-4色のボールペンの線だけで、
色や明暗を的確に表現するだけの力を見せつけてくれたということなのである。

そして、これだけの表現をするには、試作も含めて相当な苦労があるだろうとは思うのだが、
そこに苦労があるということを、こうの史代は感じさせない。
ひょっとすると、こうの史代は、こうした手間のかかる仕事に対して、
なぜそこまでやるのかと他人が思わせるほど丁寧に仕上げることに、
実は、無上の喜びを感じているのではないかなどとも思ってしまったのだった。

勝手な思い込みかもしれないけけれど。



 

       苦労の跡がしのばれる4ページにわたる神々の系譜

                      ――――こうの史代「ぼおるぺん古事記」海の巻を読 む(2013.3.17)

こうの史代の意欲作の最終巻。
なのだが、いささか本は薄めで、本編は100ページ弱しかない。
というのも、もともとの書き下し文が2ページ分しかなく、 天の巻・地の巻が4ページあったのと比べて少ない。

物語としても、ニニギの降臨と結婚、その子らの海幸彦・山幸彦のエピソードと、
山幸彦の子で後に神武天皇となる子らの誕生という流れは、
「神代編」というには妙に人間くさく、かといって「人世編」ほどの史実感もなく、
こうやって巻を分けてしまうと、けっこうダレ場なのだった。

見どころは、ニニギの降臨にアメノウズメら天岩屋戸で活躍した神が再登場することと、
ニニギの妻・コノハナサクヤの父や、山幸彦ことホヲリの妻・トヨタマの父が、
実はオオヤマツミ(山神)や、オオワタツミ(海神)という古い神で、
古事記でも、アマテラスなどより先にイザナギ・イザナミから生まれていたことか。

そんな再登場の神々は、もちろん初出時と同じ姿をしているが、
描かれた姿を見て、そういえばそんな神もいたなあと思い出させてくれるあたりも、絵で表現されている強さでもある。

巻末には、「神々の系譜」と題された神々の顔入り、親子関係入り、初出頁入りの表が、
4ページを使って描かれている。これも、一目瞭然でわかりやすい。
数えてみると、描かれた神々は200人を越えている。よく描いたものだ。

そんなこともあってか、あとがきによれば、
 複雑で悲壮な人代編を描くのはとうていわたしには無理だと思っていました。
 でも今は気が変わりました。いつか力を付けて、必ず続きを描きます。
と宣言した。

よし。また気が変わらないうちに、すぐにでも描いてほしいところだ。
それには、まず、大人の事情をクリアしなければならない。
この文章を読んだ、そこのあなた、1冊1,050円の3巻本でも大人買いしてみないかね。



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