木皿泉が確信する、ゆるくて都会的な関西文化

                                    ――― 木皿泉「二度寝で番茶」を読む(2011.5.29)

木皿泉の「中の人」2人による対話集である。
2006年から2009年という足掛け4年の間、「小説推理」に連載されていたものがまとめられている。

木皿泉のことを意識しはじめたのは、今や伝説と呼ばれているドラマ「すいか」からだ。
この心地よいドラマを、いったい、どんな人作っているのかと調べるうちに、
かつて「やっぱり猫が好き」の脚本も書いていたとか、実は夫婦による共同ペンネームであるらしい、
などといった断片的な情報をネット上から知ることができたものの、相変わらず謎の多い、しかし、魅力的な作家だった。
そんな二人の対話が本になったとなれば、やはり手に取ってみたくなるというものだ。

毎回、テーマらしきものが設定されているので、時の話題について語る場面もないではないが、
二人は並列コンピュータさながらに、それぞれが自分の引き出しを駆使してネタを出しあうので、
今やっている仕事の話から外出先でたまたま出会った人の話や子どもの頃の話まで、
思わぬ方向に話が展開したり、意外なところでオチがつくのもしばしばだ。

本の中から分かったのは、「かっぱさん」(女性)が強力なエンジンを積んだ推進役であり、
一方の「大福さん」(男性)が課題をほぐしたり、解決の糸口をさぐる攪拌役であること。
2人は、もともと同じシナリオ学校の同期だったのだが、「上方演芸科」にいた大福さんは漫才作家や構成作家の道に進み、
かっぱさんはOLを経てコンクールに入選して脚本家への道に入ったこと。
大福さんは少し前に脳内出血で倒れて今もリハビリ中であり、かっぱさんは連続ドラマを執筆中にうつ病で苦しんだことなど、だ。

そして、最初は意外であり、その後に妙に納得したことは、
二人がともに生粋の関西人であり、しかも長く神戸で暮らしているということだった。

というのも、関西には、独特の「ゆるさ」のようなものが地域全体に蔓延している。
もちろん都会の持つ緊張感や田舎の持つ窮屈さもないわけではないが、
それらをさらに弛緩させるような「ゆるい」空気が覆っているのだ。
「笑いとは緊張の緩和である」という桂枝雀の至言があるが、関西が笑いの街と呼ばれているゆえんには、
生真面目でいることを相対化させ、どこかで「緩和したい」という志向があるからだともいえるのである。

たとえば、「すいか」において、登場人物が人生の小さな壁にぶつかったとき、
周囲の人たちは、その問題をずらしたり、別の側面から見たりながら、悩んでいる人たちそれぞれの問題を解決する手助けをしていた。
そして、そんな課題を相対化しながら新しい提案を行うという行為が、いかにも関西的な「ゆるい」感覚と非常に似ているように感じられたのである。

もう一点、興味深かったのは、共通する役者が多く、同じように緩やかな時間が流れることから、
「すいか」とファンが重なる映画「かもめ食堂」について書かれた一節である。

別人の映画評を支持するという形での発言なのだが、
映画「かもめ食堂」で描かれる日本人女性がフィンランドに開いた食堂が、
「何を食べさせる店なのか何の表示もないし、客が中に入ってもメニューも出さない。
そもそも客を呼び寄せる努力を店主はしようとしない。」(p213)という点で、
この食堂のあり方は「たしかに言われてみれば暴力的だ」
(p213)と紹介している。

そして、そんなコミュニケーションを拒絶した店であるにもかかわらず、最後にはフィンランドの人が食べに来てくれるという物語は、
拒絶しているのに相手からコミュニケーションをとってくれる都合のよい話だとしている。
このとき、かっぱさんは、知人から聞いた話として、学級崩壊している教室で、暴れている一人の子どもと、
その子どもが居ないかのように授業を受けている他の子どもたちや、教師や、他の親とのコミュニケーションの断絶を例に上げている。
つまり、「かもめ食堂」のような設定だと、「多分、日本じゃそういう展開にはならない」(p214)だろう、と。

ドラマ「すいか」の脚本家という立場であるからこそ、「似ている」と言われる映画に対して、脚本の「違う」部分を強調したくなるのだろう。
あるいは、2時間で終わってしまう映画(だから許される展開)と、10時間かけて物語を展開し、収束させねばならないドラマ脚本との違いを
ことさらに強く意識してしまうのかもしれない。

しかし、言われてみれば、「かもめ食堂」から始まる一連の映画が、
都会の日常を脱出して、特に説明のないまま「幸せな時間」をすごすのに対して、
ドラマ「すいか」をはじめとする一連の木皿ドラマは、
自分が過ごしてきた日常生活と向き合いながら、
自分たちの力で解決しようと努力している(たとえ、緩い生活に向かう強い志向を伴うにしても)。

そして、都会から脱出などしなくても自分の努力次第で「ゆるく」生きることはできるはずだという木皿泉の確信の背景には、
やはり、あの関西独特の「ゆるい」文化があったのではないか。そんな風なことを、勝手に確信してしまったのだった。

 


   * 引用は、いずれも「二度寝で番茶」(木皿泉・双葉社・2010)からである。

           双葉社サイト内「二度寝で番茶」ページ               
           Wikipedia内「木皿泉」ページ



    名優たちが参加したいと願う目配りの効いた脚本家の秘密

                                      ――― 文藝別冊「総特集 木皿泉」を読む(2013.5.12)

副題に「物語る夫婦の脚本と小説」とあり、「脚本」には「これまで」、「小説」には「これから」というルビがふられている。

木皿泉というと、練り込まれた人間味あふれる脚本で知られている。
視聴率的には今一つでも、DVDが売れ続けるような長く深く愛される作品を描く。
そんな木皿泉だけに総特集ムック本が出ると聞いて内心驚いたものの、木皿泉のムック本なら迷わず買うというコアなファンも確実にいそうだ。
むろん、私もその一人だ。

定番のインタビューからは、二人による木皿泉の関係性が見て取れた。
夫の和泉努が脳内出血で倒れたこともあって、現在は、妻の妻鹿年季子がほぼ木皿泉の仕事を進行しているようだ。
しかし、妻鹿にとっては今でも「木皿泉」は和泉のペンネームであり、どこかで木皿泉としての和泉の仕事を手伝っているような感覚があるらしい。

木皿泉は、仕事にかかるるにあたり、まず、二人で会話する。
そして、その中で和泉がアイデアやネタを提供し、妻鹿がシナリオという形にする。その出来上がりを和泉が点検して、出来上がりとなる。
 昔はそのあといろいろ手が入ったりしたけど、今はもう「これでオッケーです」みたいな感じで、
和泉による「直し」が入らない仕事ができていることに、妻鹿が素直に喜んでいるというあたりが独特だ。

ドラマ制作の現場と脚本との微妙な関係の話も興味深い。
 私たちが考えているのは、目先のプロデューサーが気に入ればいい
という割り切りの良さを見せつつも、
 出演者がみんな集まるシーンは難しいんですよ。集まれないから。
 「Q10」の時は、お金がないから未来をやってくれるなって言われましてね。
という制作側の事情にシナリオが制約される実情も語る。

また、脚本家がドラマの出来上がりに関わることのできない例として、
  コメディだと思って書いたのに、出演した女優さんが途中でさめざめと泣きだした
と嘆いたのには驚かされたが、逆に「Q10」で大人の事情もあってルービックキューブをリモコンにした際には、
 福田麻由子さんの演技の説得力だけで、あのシーンはもったんですよ
と素直に賞賛する。

そして、つまるところドラマは脚本家ではなく現場のもので、
 現場のみんなが工夫するところが一番面白いんですよ
とまとめる。

それでいて、出演者代表の薬師丸ひろ子をはじめとする関係者の寄稿からは、
木皿泉のシナリオの力強さと、目配りの利いた細部へのこだわりが書き連ねられている。
プロの目から見ると、木皿泉のシナリオは、ドラマとして完成させるには大変だが
ぜひとも、その制作に携わりたいとと強く思わせる魅力的なものであるらしい。
それは、このムックに収録されている数本のラジオドラマのシナリオからも、いくぶんかは感じ取ることができそうだ。

このたび、木皿泉は小説集「昨夜のカレー、明日のパン」を河出書房新社から出版する。 (なあんだ、それで「KAWADE夢ムック」なのか。)
小説は現場に任せる余地がないという点で、脚本家の立場とは大きく違う。
そうした点で、読者の側が考えるよりも木皿泉にとっては意外と冒険であったし、それなりの手ごたえもあったようだ。

どんな形であれ、木皿泉が幸せでいて、幸せな物語を発信してくれるのであれば、 それを心待ちにしよう。
ということで、小説も買った。 まあ、上手くやられたような気もするが、それはそれで良しとしよう。



     河出書房新社内文藝別冊「総特集 木皿泉」ページ



    引き出しの多い夫がヒントを出し、妻が必死に出力するという夫婦共作

                                          ――― 「木皿食堂」を読む(2013.6.22)

今年は、いったい、どういう木皿祭りなんだろう。木皿泉関係の本が、何冊も出版されている。
この本は、新聞に月1連載をされた表題のエッセイを中心に、
「すいか」以来のインタビューや文庫の解説、大学で行ったシナリオ講座の要約などが掲載されている。

夫婦で一つのペンネームであることから、インタビューでは常に創作の秘密が問われる。
妻の妻鹿がもっぱら出力を担当しているため、
私は勝手に、本当の木皿泉は妻だけであって、 夫に気を遣って夫婦共作ということにしていると勘違いをしていたのだが、
  私が「吸血鬼の話をやりたいんですけど…」と言うと、
  彼が「じゃ、テーマは<孤独>だな」とすぐに出してくる。
とか、「野ブタパワー、注入!」やQ10の「ぱふ」が夫の和泉の発案と聞くと、
夫の方が「ご神託をくれる」「引き出しの多い人」というのも実感できる。

羽海野チカとの対(鼎)談では、創作の現場で脳漿を絞るきる感が見えて、
居住まいを正さねば作品を見ることが許されないような迫力がある。
もちろん、こうした創作態度は木皿泉(や羽海野チカ)だけのものではないだろうが、
木皿泉の作品を愛するものとしては、こうして練り込まれた木皿作品(羽海野作品も)がとりわけ大切なもののように見えてくる。

そんな思いで、巻末に載せられた、Q10のDVD特典として書き下ろされた「#2015」と、
木皿泉の自宅でロケをした「世の中を忘れたやうな蚊帳の中」のシナリオを読むと、
改めて、大切にしながら木皿作品とは向き合って行きたいと思うようになったのだった。


            双葉社サイト内「木皿食堂」紹介ページ



    仕事の多様さが映し出す木皿泉の豊かな創作活動

                                   ――― 「木皿食堂2 6粒と半分のお米」を読む(2015.8.27)

副題に「木皿食堂2」とある。一昨年に出た「木皿食堂」に続く、エッセイを中心とした雑文集である。
とはいえ、表題の新聞連載「木皿食堂」からの収録は50ページ弱しかない。
逆に言えば、木皿泉は、この2年ほどの間に、 残りの180ページ分を埋めてしまえるだけの創作活動を行ったということでもある。

「小説推理」などでの身辺雑記エッセイや文庫本の解説などの書評・映画評のほか、
NHK・Eテレ「SWITCHインタビュー 達人達 佐藤健×木皿泉」などのインタビューや、
シナリオ作家協会の公開講座「物語は誰のものか」の起こし、 NHKFMでのラジオドラマ「どこかで家族」のシナリオも掲載されている。

エッセイはもとより書評であっても、 自分の日常生活でのちょっとした事件を交えながら話を展開していく。
それは、木皿泉の脚本が一見奇想天外に思えても、けっして頭の中での作り事ではなく、
むしろ木皿泉の日常から着想を得た生活実感に根ざした物語であることと共通している。

そんな中で気になったのは、出世作「すいか」の主演をつとめた女優・小林聡美の映画「紙の月」での演技を取り上げたことだ。
「かつての小林さんなら、そんな役であれば、なおさら私たちの心に残る芝居をしたはずである」
「私は、小林聡美は天才だと信じてきた。そう言う人がたくさんいた」とフォローしつつも、
「はたして、これを観た業界の人は、この先、小林さんをどう使うのだろう。」
「本人は重荷だったんだろうか。それで背負ったものをおろしてしまったのか。」と書く。

それにしても、なぜ、わざわざ「小林さん」というタイトルまでつけて、 小林聡美と訣別するかのような文章を書いてしまったのだろう。
自分にとって思い入れのある女優であり、自分自身が感じたままに描いただけ、という点では、すこぶる木皿泉らしくはあるのだけれど。



    
            双葉社サイト内「木皿食堂2」紹介ページ  

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