桂米朝に一番近かったはずの人

                      ----------追悼・桂吉朝(2005.11.8没,50歳)

 上方落語界の中堅落語家、桂吉朝さんが亡くなりました。 体調不良で、昨年の11月から休養していたとのこと。 まだ50歳でした。
 思えば、桂米朝という人は弟子に恵まれませんでした。ひ孫弟子も含めて50人を超えるという一門の繁栄を考えるなら、「弟子に恵まれない」という表現は奇異に感じられるかもしれません。しかし、それほどに多くの弟子がいたにもかかわらず、一門の中にいかにも「桂米朝の弟子」と呼ぶのにふさわしい人がいなかったのです。

  一番弟子の桂米紫、三番弟子の桂枝雀は、すでに亡くなっています。二番弟子は月亭可朝、ギター漫談などのタレント活動で活躍しましたが、 小米朝から可朝に改名した時点で米朝一門から距離を置いています。 四番弟子の桂ざこばは、六代目松鶴に可愛がられた破天荒な芸風で独自の「ざこば落語」を確立させました。亡くなった枝雀も含めて、可朝もざこばも、なぜか学級肌の米朝に似合わない個性派の落語家ばかりでした。

 その下には、朝太郎、米蔵、歌之助、小米、米輔、米太郎と6人の弟子がいましたが、残念ながら目立った活躍をしたものはいません。歌之助は、落語会をするたびに会場に大アクシデントが起こる
(1)ことで知られていましたが惜しまれつつも平成14年に亡くなり、 もう1人米太郎も若くして亡くなっています。

  その次が桂吉朝でした。 系図上では20数名いる弟子の真ん中にいますが、いつのまにか一門の中心的な立場になっていました。私が最初に吉朝さんのことを意識したのは、平成元年に大阪市が芸術文化活動で活躍する若手を表彰する「咲くやこの花」賞
(2)を 受賞したときでしょうか。 テレビなどでのタレント活動をほとんどしていない芸人さんの受賞ということで、いくぶんかの驚きとともに、地道に話芸をつちかってきた吉朝さんの実力をうかがわせてくれました。反面、中島らもの劇団に参加してみたり、茂山千五郎と「落語と狂言の会」を催すなど、 舞台に関しては貪欲なまでに多彩な活動を続けてきました。

 桂米朝の「最後の独演会」を紹介するテレビ番組で、 袖から師匠を見守っていたところが印象的でした。 自他共に認める最も桂米朝に近い落語家でした。 上方落語の大名跡である米団治襲名も用意されていたと聞きます。上方落語界にとっても大きな損失ですが、また一人の弟子を、それも、ようやく現れた正当な後継者を見送らねばならない米朝師匠の思いたるや、推し量ることすらできません。

 といいつつ、私が生で見た吉朝さんの最後の舞台が、93年の芝居「毒薬と老嬢」(3)だったりするのですが。


 (1) 歌之助が起こしたアクシデントの数々は、中島らも「寝ずの番2」に詳細に書かれている。知らないエピソードもあったが、文庫版の
  解説に「もちろん筆記したのはらもさんだが、あの中のエピソードをしゃべったのは我々だ。」とあるので、すべて歌之助のエピソード
  なのだろう。なお、この解説を書いたのが桂吉朝だった。しかも、歌之助がモデルとなった「橋次兄さん」の死因が、「飲み屋の雑居
  ビルの三階から階段落ちになって、打ちどころが悪くて、脳内出血で死んでしまった」とあるのは、中島らも本人の死の場面を思い
  おこさせる。(引用は、「寝ずの番」・中島らも・講談社文庫・2001から)

 (2) 歴代受賞者は、大阪市・咲くやこの花賞ページで。
 (3) MOTHER/リリパット・アーミー共同プロデュースで、映画にもなった原作を戦前の大阪に舞台を写し、現代大阪口語で演じられ
  た。

       米朝事務所・公式サイト 


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