にじみ出る小さな流れをつかまえようとした二人
―――映画「伽倻子のために」を見る(1985.1.12を一部訂正)
印象的なシーンでした。
大学生になる主人公と高校生の娘とのささやかな暮らしは、娘
の両親に踏み込まれることによってついえさってしまいます。
その夜のことでしょうか。二人は人気のなくなった道路を歩いています。
その前を奇妙な男が(な
にせ蟹江啓三 なので相当奇妙です。)ハンマーのような物で舗装された道路をたたきながら歩いているのです。
「何をしているのですか。」と問うと、男はこういいます。」
「漏水検査をしているんですよ。水道管から土にしみでていく水の音を聞いているのです。こういう静かな夜でないと聞こ
えないもので。」
カツーン、カツーンという漏水検査の音が街頭の灯りをゆらしながら、男の姿は遠くなってい
きます。
二人はアスファルト道路に顔を押し当てて、その水音を聞こうとします。
いつのまにか娘の目からは涙があふれているのでした。
映画の中で伽倻子の登場する最後のシーンであるこの幻想的な場面には、どのような意味があ
るのでしょうか。
主人公は林相俊、イム・サンジュニと読みます。父は樺太で「終戦」をむかえた在日朝鮮人
で、彼自身は二世に
当たります。
その父の友人と言うのが伽倻子の父なのです。しかし、伽倻子自身は朝鮮人の子どもではありません。
日本人である彼女を産んだ両親は、終戦の混乱の中で女である伽倻子を捨て、今の両親のもとに預けたのでした。
そして、もう一つややこしいことに、彼女の義父は朝鮮人ですが、義母は日本人であり、
苦しい生活の中で朝鮮人と結婚したことを悔やんでいるのでした。
母国語があまり話せないことに象徴される「朝鮮人になりきれない」在日朝鮮人二世の林相俊
と、
朝鮮人でも日本人でもない日本人の子・伽倻子、
ともにあいまいな自分自身をかかえた二人が恋におちても、なんら不思議なことではないでしょう。
しかし、たとえ二人にとっては久方ぶりに再会した幼なじみであったとしても、
戦後の日本社会という大きな流れの中で、ただ二人のままでいることは出来ようはずはありません。
おりしも1950年代の後半と言うと、朝鮮戦争も終わり「帰国運動」が起こるなど、
戦後の日本社会の中で在日朝鮮人としてどう生きていくのか、という問題が改めて出てきた時代でした。
いつとは言えないまでもいつかは朝鮮に帰国しなければと考えている相俊、
大事に大事に育てられ在日朝鮮人として生きる両親にとっては希望であり宝である伽
倻子、
そして何より貧乏苦学生と世間知らずの高校生である二人のままごとが遊びがからまわったような暮らし、
今しか見えないのに今のままがありえない二人なのでした。
そのことは、両親に詰め寄られた時に突然「相俊と朝鮮へ行く」と言って
まわりの者を(おそらくは相俊をも)驚かせた伽倻子が、一番よくわかっていたのかもしれません。
守られないとわかっていながらも、相俊が卒業すれば結婚するという約束で、伽耶子は北海道に連れ戻されることとなります。
冒頭のシーンは、このあとに続くのです。
「戦争が二人を引っ張りまわしたおかげで二人は出会うことができた。」
相俊は、二人が初めて結ばれた夜にこう言いました。
その言葉とうらはらな別れが、ことさらに重苦しく、またせつないのでした。
結局、相俊が次に北海道に渡るのは、それから十年後のことでした。
相俊が伽倻子の家の近くで彼女の
娘らしき子どもと出会うところで映画は終わります。
原作と読み比べてみると、意外なことにというか、やはりというか、漏水検査の場面はどこに
もみつかりませんでした。
地中に埋められた水道管からにじみでる細い小さな流れをつかまえようとした二人、アスファルトの冷たい触覚のもつエロティシズム。
それは、監督の小栗康平、小栗と共に脚本を手がけた太田省吾が作り出した一つの美学なのでしょう。
まさに伽倻子のために書かれたラブレターだった原作を含めて、
久しぶりに重みのあるフィクションに出会えたように思えたのでありました。
*
かつて、「伽倻子」の字が出せず、「伽耶子の「や」は、実は「人偏に耶」である。」と追記していた。
当時、いろんなページを見たが、「耶」だったり「椰」だったり、機種依存を表わすのか、「二本の太い横線」だった
りした。
「美しい琴の音色にちなむ名前を出せないのはつらい。」とも書いていた。
ちなみに、この文章は、1950年代後半のことを描いた1970年の小説を1984年に映画化したものを
見た直後に書いたものである。
公開当時でも「あのころはそんな風だったんだろう」と推測しながら見ていたのだが、今のような豊かさが当たり前な時代には、
もっとわけがわからなくなっているのかもしれない。
朝鮮民主主義人民共和国も、希望の新天地からいつのまにか悪役の代表のようになってしまった。
なお、伽耶子役はこの映画がデビューの南果歩で、当時は「主役をはれる映画女優の出現」を強く感じたものだった。
(と過去形にしてしまったのだけれど。)
小栗康平オフィシャルサイト内「伽倻子のために」ページ
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