神道を好きになれそうな入門書

                                ---- 井上宏生「神さまと神社」を読む(2006.9.19)
もともと持っていた「日本史」への関心、日本人の差別意識の源流である中世的世界観への関心、
ナショナリズムとは別の意味での日本人の自然信仰への関心などから、神道というものに興味を持ちだした。
まずは「八百万の神」を交通整理してくれる手軽な本はないものかと思って、 新書コーナーを探しまわった。

最初にみつけた本は、「なぜそこにあるのか」をサブ・タイトルにしており、
神道そのものよりも神社の配置をめぐる「自然暦」をとりあげたものだった。
(1)
それなりには楽しめたのではあるけれど、当初の目的とは少し違っていた。
そこで、改めて神道全般を見通せる本はないものか、と手に取ったのがこの本だった。
サブタイトルは、「日本人なら知っておきたい八百万の世界」とある。なかなか良い感じである。

一読しての感想は、まさにこんな本を求めていたのだ、というものだった。
まず、著者が神道に対して適度な距離を置いてくれるのがいるところが良い。
神道の価値観だけで神道を語るのではなく、神道にとってはいささか都合の悪そうなことでも、現代人の視線で臆せず解説してくれる。

たとえば、国譲り神話を「大和のアマテラスオオミカミの勢力が、出雲のオオクニヌシノミコトの勢力よりも強大だった」と説明する。
そこには、神話を不可侵なものとして受け取るのではなく、
そのような神話を作り出すに至った歴史があったことも忘れないという著者の判断がうかがえる。
日本人が自然を神として崇拝してきた神道と、支配勢力が政治的に作らせた神話を区別しているというわけだ。

暮らしの中の神道を概説するときも、その考え方は変わらない。
正月については、歳神が五穀豊穣をもたらすものであるとして、
「注連飾りは歳神が家に訪れるときの目印であり、その家が清浄な場だという証」であると、その神道的な意味を説明する。
門松や鏡餅も神を招く依代であるらしい。

その一方で、神前結婚式は明治34年に大正天皇の婚儀を真似て始まった新しい習慣であると言ってしまう。
神道にまつわる習慣というと、何も知らない私たちは、つい神道そのものと同じ位の歴史を持つものと勘違いしてしまうが、
明治以降に作られた神道的習慣は多いようだ。七五三も徳川綱吉由来という説もあるほどで、
江戸時代にはじまり明治に入って流行した習慣だとという。(2)

また、「神宮」に特別な由緒や歴史があるのではないかという私たちの誤解も解く。
語源的に言うと、「社(ヤシロ)」は「屋(ヤ)の代(シロ)」であり、「神々が訪れる神殿」を意味し、
「宮(ミヤ)」は「ミ+屋(ヤ)」で、「神がいる御殿」を意味するという。
つまり、「御殿のような建物を持つのが神宮」
(3)と いうことらしい。

そして、「神宮」がもともと伊勢神宮のみを指していたことをおさえた上で、
「<延喜式神名帳>には2,861の神社が登場するが、
  神宮を名乗っているの は伊勢神宮、鹿島神宮、それに千葉の香取神宮にすぎない」
(4)と説明する。
吉野神宮、橿原神宮、平安神宮、近江神宮、明治神宮のように、明治以降に創建された神宮もある。
要は、明治以降になって、 天皇家ゆかりの「神宮」が次々と生まれたということらしい。

さらに、日本の神道がいかに仏教と一体化していたかも指摘する。
神道にはもともと教義が存在せず、漢神、韓神という渡来神も許容した。
仏も当初は渡来神の一つであったのだが、歴代天皇の仏教信仰とともに、
仏こそが日本の神々の本来の姿であるという「本地垂迹説」にまで至る。
「権現」という言葉も神が仏の「仮の姿」であることから生まれている。
つまり、それほどまでに、日本神道の歴史の大部分は仏教とともにあったというわけだ。(5)
ちなみに、これに反発した反本地垂迹説の神官たちが 仏教に対抗するために活用したのは、なんと儒教であったという。

もちろん、そんなイヤゴトばかりを書いているわけではない。
伊勢神宮の由来や信仰についてはかなり念入りに書かれているし、(ギリシャ神話との比較もしながらだが)日本神話の概説もある。
主だった神社とその由緒や信仰などの紹介もある。
とにかく、神道の入門書でありながら、神道へのこだわりがなく、ありのままに神道を教えてくれるのだった。

著者は、団塊の世代のライターで、皇学館大学中退という経歴。 70年安保の時代に復古調の講義に耐えられず、大学を去ったらしい。
それでも、日本人の心の拠り所としての神道に対する敬意はある。冒頭に描かれたのは、清冽な空気が心地よい緊張をもたらす伊勢内宮だ。
つまり、それを捻じ曲げた者のことが気に入らないのだろう。

この立場ならば、神道のことを少し好きになれそうな気がする。



 (1)  宮元健次「神社の系譜」(光文社新書・2006)。「自然暦」とは、太陽信仰をもとにした宗教施設の配置のことで、
  春分・秋分の日の出・日没の方向・夏至の日の出・冬至の日没の方向・冬至の日の出・夏至の日没の方向という特別な直線上に、大事な宗教施設が並ぶこと を指す。
  このこと自体は、世界中の信仰で見られることらしい。

 (2) 井上宏生「神さまと神社」(祥伝社新書・ 2006・p48-50)
 (3) 同p147
 (4) 同p146。延喜式は、平安期の律令の施行細則 に当たるもので、延喜式だけがほぼ完全な形で残っているため、平安期の日本を研究する基本文献となっている。
   延喜式神名帳に記載されている神社は「式内社」と呼ばれ、歴史のある神社の代名詞である。

 (5) 同p102


   神道というよりも儒教だったらしい靖国神社

                              ---- 小島毅「靖国史観」を読む(2007.5.13)
儒教学者による靖国解説本である。
曰く、「靖国神社の思想的根拠は(神道 というよりは)儒教にある」。

本当かあ?とは思うが、三土修平の「靖国問題の原点」を引用して、
「近世までにおいては、没後まもない人間が神社の神に祀られることは、怨みを残して敗死した者を祀る御霊信仰を除けば、通常は例のないこと」
 と改めて指摘されると、神道とは異なる何かが靖国神社を支えていることに 急に説得力が出てくる。
つまり、この本は靖国史観に代表される明治以降の日本を作った思想が、 いつどこから生まれてきたのかを検証しているのである。

たとえば、「国体」を現在使われているような意味で使い始めたのは、幕末に「大日本史」の編纂に加わっていた「儒学者」会沢正志斎である。
寛政異学の禁をきっかけとする朱子学一尊の風潮で成熟した水戸学は、
朱子学が強調する大義名分論に基づいて臣下のあるべき姿という視点を日本史に持ち込んだ。
そして、その裏返しに会沢正志斎が強調したのが揺るぎなき支配体制としての「国体」なのだという。

また、「英霊」という言葉は、会沢正志斎の後輩にあたる藤田東湖の作った漢詩によるとされている。
単なる死者の霊の美称であった「英霊」という言葉を、
東湖が朱子学的な「気」の思想に基づき使ったことから、特別な意味を持った言葉になっていったものであるらしい。

つまり、人は死ぬことによって気は散じて宇宙に溶け込むものだが、君主に忠誠を尽くす者が不慮の死を遂げると気はそのままの形で残る。
それゆえ、残された者は彼らを追悼し、その気を慰めねばならないというわけだ。ここに、
天皇のために死んでいった者だけが祀られるという 靖国の思想の理論的根拠があるのである。

さらに、「維新」という言葉は儒教の古典「大学」からとられており、「大学」もまた朱子学で重視されたものである。
当時の討幕派のとった行動は、どう見ても時の政府を転覆を試みたのであり、革命である。
現に革命と呼ばれた例もあったのだが、やがて王朝の交代を意味する「革命」という言葉は巧妙に避けられるようになっていった。
「維新」とは、本来、主君が修養により人格を磨くと感化した民も変化するという意味である。
交代することのない君主の下で、臣下がそのあり方を改める。そういうものとして、明治「維新」を語ろうというわけだ。

もちろん、国学などの存在を無視しているわけではない。
靖国史観、そして国家神道のキーワードとなるものが、水戸学によって朱子学の言葉から発見されたものであることを、
儒教史や東アジアの王権理論の専門家の視点から指摘しているだけである。

つまり、現在の日本人が、古くからある日本固有の思想であるとつい勘違いしてしまいそうになる「靖国史観」的な考え方が、
けっして数千年の歴史をもつ神道に由来するものではなく、むしろ中国で生まれた儒学からの借りた言葉を使い、
しかも幕末という比較的新しい時代になって創作されたというわけだ。

考えてみれば、会沢正志斎や藤田東湖という人たちは、マルクスやエンゲルスとそう変わりない時代に生きた人なのである。
その新しさに、少しばかり安心した。



    筑摩書房サイト内「増補  靖国史観」(2014)紹介ページ
    Wikipedia 小島毅ページ



    それぞれの土地にそれぞれの神がいることを教えてくれる神様ガイド本

                                    ---- 戸部民夫「<日本の神様>がよくわかる本」を読む(2013.8.1)
文庫本だが、辞書的に日本の八百万神の概要がわかるスグレものだ。
全国で祀られるメジャーどころ25神をはじめとして、宇宙創成の5神、母性の5神、山・水・海にかかわる14神、
農耕にかかわる17神、鉱工業にかかわる5神、商業等諸産業の12神、 文化・芸能にかかわる17神など100を越える神々を紹介している。

古事記や日本書紀のような公式見解として作られた物語だけではなく、
明治政府によって無理やり神道と仏教がひきはがされる以前の
長年にわたって日本人が生活の中で培ってきた信仰の歴史を、その成り立ちや背景なども含めて簡潔に説明してくれる。
具体的な神徳や祀られている主な神社など実用的な面もある。

中山道徒歩旅行をしていて、信濃にさしかかったあたりから、関西では見かけない信仰が根付いていることを強く感じるようになった。
たとえば、諏訪神というと、古事記では「服従した神」として記されている。
しかし、著者は、その神話自体が中臣氏による創作とする説が有力とした上で、
諏訪神(タケミナカタノカミ)は、もともと風の神であり、山にあっては狩猟を守り、里にあっては水源の神、風の神として農業を守る、
諏訪地方の生活に深く関係した有力な地方神であるとする。

なるほど、それぞれの土地に暮らす、それぞれの人たちに、それぞれの信仰がある。
日本に八百万の神がいるとは、このようなことを指すのだと、改めて思い至った。


    PHP 研究所サイト内「<日本の神様>がよくわかる本」紹介ページ
    Wikipedia 戸部民夫ページ



    神仏習合という日本の伝統的信仰と、それを改変したもの

                          ---- 新谷尚紀監修「神社に秘められた日本史の謎」を読む(2015.9.16)
日本史としての神道を語ってくれる新書が登場した。
監修者の新谷尚紀は「稲の民俗学」の研究者てあり、執筆者の古川順弘は「宗教・歴史をメインとするライター」とある。

それゆえ、神道を語るのに古事記や日本書紀の記述に過剰に引きずられることはない。
かといって、強引な解釈でアクロバット的に自説を主張する郷土史家の乱暴さもない。
むしろ、神道をめぐる日本史的な事実を古代、中世・近世、近代・現代とに分けて、
神道の基本的な知識を織り交ぜながら、わざと冷静に事実を書き連ねているつくりである。
ただ、力点を置いているところから、言わんとしていることはよくわかる。

もともと、大和言葉の「かみのやしろ」はマツリの時だけ人が集まる場所のことであったが、
記紀の時代に、中国の宗教用語である「神社」「神宮」と呼ばれる常設の場とになった。
実は、朝鮮半島にも「堂」と呼ばれるよく似た信仰があり渡来人創祀の神社もあることから、
神社の原点には、「東アジアの中の日本」という視点も必要であるとされる。

仏教による鎮護国家を目指した奈良時代には、神は仏に至る修行中の身とされており、
本地垂迹説では仏が神の本体と見なされ、仏像が御神体になることさえあった。
浄土思想が流行した平安時代末期には、上皇、法皇が繰り返し熊野御幸を行うなど、
地縁・血縁という従来の神社参拝にはない、個人の現世と来世の安穏が願われることとなった。
つまり、古代から中世に至る神社とは、朝廷主導で神仏習合が強化されたことを強調する。

今でこそ、英雄の死後、神として祀るという神社は珍しくないが、
本来、死を穢れ・不浄とする神道においては葬儀への関与はタブーとされていた。
初めて墓所に霊社建てたのは、吉田神社の発案による豊臣秀吉を祀った豊国社だが、
徳川家康の日光東照宮は神仏習合式であり、霊廟は日光山輪王寺内におかれている。

明治新政府は、仏教以前が神道の本来の姿であるとして、神社から仏教的な文物は破却され、
仏教的な祇園社や石清水八幡宮は八坂神社、男山神社に改称され、興福寺は廃寺となった。
山の神、地主神などの民俗的信仰だった神社も、記紀神話の神に祭神が改められる。
また、天皇・皇族、南朝方の忠臣、幕末・明治の武人など人間を祀る神社が次々と生まれた。

こうした各時代のキーとなる出来事を、52の素朴な疑問に答えるように提示していく。
そこから見えてくるのは、時の政治に翻弄されつつ姿を変えていった神社の姿である。
もし、神社が政治も時代もを超越した普遍的なものであるかのような見せ方をしているなら、
それ自体がすこぶる政治的で、実は新しい考え方なのであるということを、 この本は明確かつ平易に主張している。


   

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