私たちは、忘れない---追悼・花郁悠紀子(2000.2.26 少女マンガMLへの投稿に加筆)1980年12月12日、一人の少女マンガ家が亡くなりました。 花郁悠紀子。享年26歳。胃がんでした。 5年間の作家生活の間に発表された作品が短編中心に30数本、没後刊行されたものを含めて8冊の コミックスが刊行されたことを見ても、彼女が売れっ子作家であったことが十分うかがわれることでしょう。 以下は、兄弟・姉妹まんが家という話題の中で花郁悠紀子さんの名前がでたときに、私が投稿した文章に 手をいれたものです。 花郁悠紀子さんの妹といえば波津彬子さんですが、長い間そのことを知らずにいて同じ金沢組(1)とはいえ 花郁悠紀子さんが亡くなったとたんに、似たようなポジションで商業誌に進出してきたのを、いやな感じで見て いました。「そこにいるべき人は波津さんあなたじゃない。花郁悠紀子さんが描いていたはずの場所なのだ」 と。 確かに、没後刊行されたプリンセス・コミックスを「妹」が原稿整理したとか、いろんな場所で遺族代表として 発言する「妹・開発明子」さんは、とても単なる親族とは思えないほどにマンガのことをわかっている人でした。 (「かい」悠紀子の妹で「かいはつあきこ」なら気づきそうなものなのですが。ちなみに花郁悠紀子さんの本名 は、「ゆきこ」ではなく「公子」です。) それにしても花郁悠紀子さま。あまりに早すぎる無念の死ではあったと思いますが、今年の暮れにはもう 20年になろうというその時にあって、あなたの名前を口にしてくれる人がいることを予想されていたでしょうか。 いまだ、あなたの作品は絶版になることなく、文庫化もされ続けているのです。(2) 萩尾望都さんの「アメリカン・パイ」でグラン・パが唄った「想い」と同じものを、私たちは大切に持ち続けてい ます。この作品が発表された1976年が花郁さんがデビューの年だなんてのは思い入れを持ちすぎかもしれま せんが(没後に発表されたならともかく)、いまだに(いや、もう若くないからこそ)感涙せずには読めない、この 萩尾さんの傑作には、花郁悠紀子さん、あなたのことが重なります。 佐藤史生よりも「やわらか」で、坂田靖子よりも「はなやか」で、今ならどんな作品を描いていたかとまでは いいませんが、せめて残された作品を手にしていただける人が一人でも増えれば、と切に望む作家の一人 です。 (1) 金沢を中心に活動していた同人誌「ラブリ」を中心に、商業誌に少なからず影響を与えた人々。世代的には24年組読者にあた (2) 花郁作品の大部分は秋田書店から文庫化されている。このことは、相当に珍しいことと言ってよい。みんな、花郁悠紀子を忘れ * 私の投稿に続いて、1981年8月に発表された萩尾望都の「A-A’」が花郁悠紀子を追悼する作品ではないかという投稿があっ 「フェネラ」(秋田書店・1977) る。これらの編集をてがけたのが、「妹・開発明子」である。カバーに記された「作品解説」の言葉が重かった。 花郁悠紀子ファンページ「花に眠れ」(個人サイトだが花郁悠紀子さんについては、ここを見ればすべてわかります。) |