歴史のナゾを解明するには、本人になるしかない
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南伸坊「歴史上の本人」を読む(2006.8.10)
腰巻にいわく、「歴史には、さまざまなナゾがある。 解明したけりゃ本人に訊くしかない。」
ところが、当然、本人はもう死んでいる。 そこで南伸坊が開発した画期的な手法が、 本人になって書くということである。
南伸坊には、すでに「顔面学」(1)
という新理論により、 顔を似せることで考えを似せることが出来ると主張していた。
顔から、衣装から、小道具からすべて本人になって、 本人ゆかりの場所に行けば、それはもう本人なのである。
「ちょうど記憶喪失の人が自分の記憶をとりもどすように歩き回り、 思い出そうとした。」(2)
実に、良い言葉だ。なにより、本人との距離感が良い。
そして、南伸坊は本人になる。
二宮尊徳、松尾芭蕉、徐福、聖徳太子、大村益次郎、大国主命、運慶、左甚五郎、清水次郎長、樋口一葉、西郷隆盛、
小野道風、織田信長、 実に堂々たる歴史上の人たちだ。
しかし、左甚五郎が「猫の着ぐるみ」で本当にいいのか。
そもそも、金太郎、シーサー、キジムナー、天狗というのは、「歴史上の人たち」に含めても良いものなのか。
もっとも、そういうツッコミをしたくなるのは最初だけで、南伸坊自身にも見られた恥じらいやためらいが姿を消すにつれ、
むしろ堂々の本人ぶりに、いつしか大喝采をしてしまっている。
きっと取材中も、周囲にいた人々のうちの何人かは、 偶然出会えた「本人」に対して手を合わせていただろうと思う。
そんなことさえ感じさせるほどに、見事な「歴史上の本人」なのである。
(1)「当時、私は「顔面学」という学問をでっちあげ、顔と脳とは緊密に結びついているという理屈を展開していた。平たく言うなら、外見の似た人は考え
も
同じになるという理屈である。これをもうすこしつきつめると、顔をいじれば、いかなる本人にもなりうるということになる。」(「歴史上の本人」・日
本交通公
社・
1997年 p5) この当時の南伸坊は、風呂敷の広げ方がまだためらいがちだ。
(2) 上掲書 p5
本人が本人というのだから、それはもう本人だ
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南伸坊「本人の人々」を読む(2008.8.30)
とっくに読んでいなけりゃならない本だったが、縁がないまま5年が過ぎ、ようやく古本屋でめぐり合うこ
とが出来た。
この本がどんな本であるかは、まえがきに全部書いてある。
「私は単に、人間をわかりたいと思うばかりである。 昔から「ヒトの身になって」考えよという。
なかなかそうはいかないのだが、それは人々が「ヒトの身に」ならないからなのだ。 私は文字通り「ヒトの身に」なってみようと思った。」 (1)
要は、顔マネなのだが、化粧や衣装や小道具はもとより、表情のつくり方や写す角度に至るまで、
本人になりきるための努力を惜しまず、本人になりきっている。
これを南伸坊は、「本人術」と名づけた。
「不思議なものだが、そのようにして書くと、 ごく自然に自分の文章とは違う文が書けるのである。
外見は内面を映すが内面は外見に左右されるのだった。」 (2)
つまり、南伸坊が「ヒトの身に」なって写真に写ろうとし、
そうやって到達した「本人術」にしたがって、本人の人になりきった文章を残したということだ。
2000年から2003年の「ダカーポ」連載というから、 登場する「本人」たちの中には誰だったっけという人もいる。
しかも、政財界・文化人・タレント・ミュージシャンという各界の著名人から 外国人や「タマちゃん」まで、登場する本人たちの幅も広い。
それにしても、あの特徴のある南伸坊の顔が土台だというのに、 いかにも「本人」らしく見えるものが多い。
やはり、「本人術」が相当な高みに至っているということだろう。
しかも、それなりに資料も読んでいるということもあるのだろうが、
内面まで似てしまった「本人の人」は、いかにも「本人」が言いそうな文章を生み出す。
外見が似ているということは、そんな外見を作り出すために内面から似せなければならないということなのだろう。
表情を似せていこうとすると、だんだん本人の人が世間に対してどんな距離のとり方をしてているかがわかってくるのかもしれない。
本人術が「ヒトの身に」なるというのは、あながち冗談で言っているとも思えない。
いや、相当に本気であるからこそ、「歴史上の本人」に続いて、本人の人の元の本人が読む可能性が相当あるにもかかわらず、
「本人の人」であり続けたのだろう。
なんというか、それほどまでに「本人の人々」だったのである。
(1) 「本人の人々」(マガジンハウス・2003年) p10
(2) 上掲書 p12
東京人・南伸坊の意外な弱点
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南伸坊「本人伝説」を読む(2012.10.6)
南伸坊の「本人術」も表芸となり、「オール読物」での連載をはじめ、いろんな雑誌で企画特集をされるようになっているようだ。
この本は、撮り下ろし・書き下ろしを含む近作71点を紹介している。
本人写真の出来映えはともかく、
文章については、政治家やタレントを扱った時事ネタよりも、文化人を扱ったものの方がよく出来ていると感じた。
やはり、文化人の方が評価が定まっているからだろうか。
そんな中、唯一、南伸坊の弱点を発見した。関西人の言葉使いである。
仙谷由人独特の、いささか乱暴なもの言いを再現しようとしているのだが、
仙谷本人は語調やアクセントで表現している部分を無理やり関西風にしてしまい、かえって本人らしくなくなっているのだ。
そういうこともあってか、島田紳助については、文章の部分を南伸坊自身の言葉ではなく、すべて紳助本人の言葉を引用している。
東京生まれの南伸坊にとっては、どうにも苦手な分野であったようだ。
あとがきでは、「北一輝」を使って本人術の技法の一つが紹介されている。
それは、まさに「北一輝の陰影を顔に描く」としか言いようがないもので、
ある意味、単純でわかりやすい技法なのではあるけれど、その完成度の高さに、なぜか感服してしまった。
本人術にも、やはり技術とノウハウの蓄積があるということなのだろう。
南伸坊Wikipediaページ
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