何十年にわたって読み継がれるであろう「やおい・ボーイズラブ」研究の定本―――― 石田美紀「密やかな教育」を読む(2009.8.9に加筆)一年近くも前に読んだこの本のことを
改めて書こうと思ったのは、先日、中島梓が亡くなったからだ。(1)
その訃報に接したとき、無性に「中島梓について語りたい」という衝動に駆られたのだが、 いざ文章にしながら気づいたのは、自分が語ろうとしていた中島梓像はすべて「密やかな教育」に書かれていたものであり、 単に「密やかな教育」に書かれていたことを繰り返したいだけなのだ、という事実だった。 もともと、たいした中島梓読者ではなかったのだが、私があのころの中島梓に対して漠然と感じていたことを、 「密やかな教育」は豊富な情報をもとにしながら、わかりやすくはっきりと表現していた。 と言っても、この本は、中島梓のみを語ろうとした評論ではない。 副題に「やおい・ボーイズラブ前史」とあるように、 現在、日本において女性による新しい表現ジャンルとして確立しているボーイズラブ文化が、 いかにして生まれてきたのかについて語ろうとしているものである。 まず、第一章のタイトルが見事だ。<革命が頓挫したあとの「少女マンガ革命」>とある。 このタイトルだけで、時代の気分を正しくとらえていることが分かる。 「革命」とは、言うまでもなく60年代後半から70年代初頭にかけての全共闘運動に代表される若者たちの異議申し立てのことだ。 運動そのものは「頓挫」したかもしれないが、間違いなく運動が残したものがある。 教養主義の解体と、その裏返しとしての大衆文化の興隆である。 「右手にジャーナル、左手にマガシン」という言葉がある。(2) 既成の教養文化にこそ価値があるということに疑問を抱き、大衆文化を単なる娯楽として否定することを拒否した若者たちは、 大人になっても、マンガを読み続け、語り、そして描き始める。 そして、少女マンガの世界においては、竹宮恵子ら24年組(3)と 呼ばれる新しい描き手たちが、 新しい少女マンガをそれこそ「革命」のごとく描き始めるのである。 こうした事実を、石田美紀は、作品分析やインタビューを通じて丁寧に描き出していく。 増山法恵の薦めで大泉サロン(4)に 集った竹宮恵子らは、既成の教養である文学に負けないマンガを作りたいと志向し、 24年組のプロデューサーともいえる増山は、彼女らにヘッセの小説やヴィスコンティの映画など既成の教養に属する作品を次々と触れさせ、 その感想を作品という形にすることを求めた。(5) そこから生み出された作品について、石田は重要な指摘をしている。 それまで、雑誌「血と薔薇」などに代表される60年代的な男性文化では「政治的」に読み解くべきとされた男性の肉体を、 24年組の少女マンガ家たちは「美と官能」(6)で 読み直しているということである。 つまり、既成の教養が解体する中で、少女マンガたちは新しい視点を発見し、新しい表現を始めたわけである。 一方、教養ある大人の男性のものであった純文学を意図的に回避して、 エンターテインメントという形で文学の世界に登場したのが、中島梓である。 中島梓は、栗本薫という性別不詳のもう一つのペンネームを用い、 性別以外は中島梓本人に酷似した「ぼく」という一人称の男性主人公を使ってミステリを描いた。(7) あるいは、架空のアイドルを主人公とする連作を発表し、 シリーズが進む中で主人公は、 どんどん中島の「あらまほしき姿」へと変化していった。(8) この栗本/中島の戦略を、石田はこう解説する。 「<私小説>は作家による<自己暴露>でもあるわけだが、 暴露だけで足る場合はおそらく少なく、自己演出も行われるはずである。」(9) つまり、性別の違う「薫」を主人公とする「ぼくらのシリーズ」も、沢田研二がモデルの二次創作だったはずの「今西良シリーズ」も、 栗本/中島にとっては「私小説」なのではないですか、というわけだ。 そして、中島梓がエンターテインメントという場所に、一見純文学とは見えない純文学を書きだした事情として、 当時の文壇にあける女性作家の扱われ方を紹介する。 当時、中島/栗本は同時期にデビューした中沢けいや見延典子とともに「「音羽キャンディーズ」という気味の悪い呼称」(10)で呼ばれていた。 中沢・見延の作品は、作者と年齢・性別・出身地などが共通する主人公が一人称で語る手法をとっていたことから、 まさに純文学の王道である私小説を書いていたのだが、 そこで赤裸々に性生活が描かれたことによって文学賞の男性選者からは「妙に生な感じ」が評価され、 「作者中沢を語り手<私>に露骨に重ね、彼女の秘密の暴露として読んでいる」ような状態だった。(11) それが創作なのか自己暴露なのかはともかく(むろん、創作なのだが)、 当時の文壇は「音羽キャンディーズ」と名づけるレベルでしか女性の創作を評価できない場所だったのであり、 そのことが「栗本にもうひとりの<ぼく>こと栗本薫を作らせた事情であった。」 (12) つまり、中島は、オジサン社会であった純文学の世界からエンターテインメントへ脱出し、 理想の自分を男性主人公とすることで(時に男性同士の性愛物語も描きつつ) 誰も手をつけていない場所に自分だけの純文学を作った、というのである。 そして、この竹宮恵子と中島梓が出合って生まれたのが雑誌「JUNE」である。(13) 編集者の佐川俊彦は「文学とポルノを行ったり来たりする」(14) ことを目指し、 その男性同士の性愛物語のコンセプトを「耽美」と名づけた。 中島は「少年派宣言」(15) という檄文を書き、その後も小説やエッセイを書き続けた。 竹宮も、多忙な中、精力的にマンガやイラストを発表していった。 ほどなく、竹宮と中島によるマンガ・小説の教室のコーナー(16) ができ、 二人は惜しみなく手の内をさらし、後継者を育てることに力を注いだ。 ある意味、既成の教養の申し子である竹宮恵子(17) と中島梓は、 「知的前衛が遅れた大衆を正しき方向に導く」という古い左翼的な言葉を思い出させるほどに、 (「少年派宣言」は、共産党宣言になぞらえるかもしれない。) なんとも教養主義的な方法で、新しい表現者を育てたわけである。 石田は、この「JUNE」が発明した新しいコンセプトである「耽美」に 竹宮や中島が紹介する古今東西の男性同性愛表現の蓄積が流れ込むことで、 「娯楽と美という糖衣でくるまれた新たな<教養>」(18) となったという。 確かに、そこにはかつての教養主義のような体形だった知識の集積があるといってよいだろう。 しかし、JUNEの発見した「耽美」の体系を既成の教養主義と対峙させ、 「いうなれば「エンターテインメント教養」の体系として成立し」、 「70年代に起こった<教養>の新旧交代劇の核」(19) とまで言わなくてもよかったのではないか。 実は同じことを言いたいのかもしれないが、「耽美」に限らず、SFでも、マンガでも、アニメでも良いのだが、 70年代あたりを境として、巨大な体系としての教養主義は解体され、小さなジャンルごとの「おたくの体系」に置き代ったのであり、 そんな中で個々のジャンルで、かつての教養主義によく似た小さな教養の伝達が行われ、 「耽美」という場所においても同じことが起こったのだと考えたい。 むしろ、石田の特筆すべき指摘は、この「耽美」というものを「<女・こども>が中心になって作り上げてきた」(20) ということであろう。 今では信じられないかもしれないが、私が学生だった1980年前後でも、女性は一人前の「働き手」としては認識されることはなく、 伝統的に女性が行うとされてきた特定の職業以外に女性が就くことは困難であり、 企業においては補助労働者である女子社員は結婚退職が常識であった。(21) 芸術表現においても上記の文壇の例でもわかるように、「女流」作家は男性文壇を補完するために存在しており、 女性が独自の文化表現を作り上げるとは考えられていなかったのである。 だからこそ、女性たちは、男性中心の主流の文化から見えない場所で、 独自の新しい視点で密やかに「耽美」という文化を築きあげたのであり、 男性文化から見れば存在しないのと同義の、いわば「取るに足らない」ものと認識されつつ、 着実に、それを必要とする女性たちに届けられ、受け継がれていったのである。 そして、その一つの成果として、「JUNE」の「小説道場」門人を経て映画評論家となった石原郁子の仕事を紹介する。 「夫の転勤のために常勤の教師職を離れた石原は、出産と育児を経験しながら、映画批評と「耽美」小説を執筆し続けた。 それは、他の誰のためでもない、 自分のためだけに行った密やかな教育であった。」(22) この「密やかな」という言葉には、「制度化されていない」という意味とともに、 「周囲に告げることがはばかられる」という意味も込められていようし、 もちろん、「自分自身の中での強い決意を秘めた」という意味もあるだろう。 石原は、映画批評の投稿と「耽美」小説の執筆という「密やかな教育」を続ける中で、何冊かの評論集を出すところまでたどりついた。 竹宮恵子や中島梓が、その本業の時間を割いて行ってきた努力は、 社会的には密やかな場所で静かに行われたものであったかもしれないが、 確かに、石原郁子という表現する女性を生み出し、育てていったのだ。 石田は、こう締めくくる。 「そして今、私たちは、彼女が遺した批評と小説のなかに、ひとりの女性が「何かできるはずだ」と筆をとった意志を読み、 彼女の思考が目指すものを辿り、到達したところを知ることができる。 この営みを文化と呼ばずして、何を文化と呼べばいいのだろうか。」(23) このことを、石原郁子一人だけのものとして読んではならない。 日本中でたくさんの女性が「何かできるはずだ」と筆をとり、その「何か」を目指して思考を巡らし、創作し、成長したのである。 そんな新しい場所が(制度とまでは言わぬが)かつて雑誌「JUNE」に存在し、 そこで学んだ多くの女性たちが、現在の「やおい・ボーイズラブ」文化を作るとともに、 その他の女性による創作活動にも少なからず影響を与えたということでなのである。 ずいぶん乱暴な紹介になったが、「やおい・ボーイズラブ文化」の前史として、 このような事実があったことを石田美紀は277pという長さで報告してくれる。 巻末には、80pにまでなる竹宮恵子・増山法恵・佐川俊彦へのインタビューもある。 この本は、今後、やおい・ボーイズラブ文化について語られるあらゆる文章の中で、 何十年にわたって引用され続けることだろう。 すでにネット上では、ボーイズ・ラブ文化について書かれた的外れな文章に対して、 「<密やかな教育>を読んで出直してこい」というような感想もあったそうだ。 また、直接取り上げられているのは「やおい・ボーイズラブ文化」についてであるが、 60年代的な男性的文化が70年代以降に女性的に読みかえられていくという過程の分析は、 フェミニズムの出現など同時に起こった様々な状況と重なり合う。 したがって、1970年前後を境とする日本の若者文化、女性文化の変化を記録した点で 「やおい・ボーイズラブ文化」にとどまらない広がりを持っている。 第4回新潟大学人文科学奨励賞を受賞されたようだが、もっといろんな場所で、もっといろんな評価がされてもよのはずだ。 一読者の勝手な思いだが、本気でそう思っている。 * 引用は、すべて石田美紀「密やかな教育 <やおい・ボーイズラブ前史>」(洛北出版・2008)からである。 (1) 中島梓/栗本薫は、2009年5月26日、56歳で亡くなっ た。 (2) 当時の気分を表す有名な言葉で、本書でもp14で引用されている。既成の教養における学生の本分に基づけば、 「朝日ジャーナル」のような政治的 社会的発言が掲載された雑誌を読むべきであるが、同時に「少年マガジン」も捨てることなく 読み続けるのだという宣言である。当時の学生はジャーナルを読み始めても マガジンを捨てないという主張だったが、 論壇誌の方を読む学生の方があっという間にいなくなってしまった。 (3) 24年組に誰が入るかという話を始めると、それだけで本が1冊書けてしまう。この本の「ボーイズラブ前史」という視点に立った上で、 「竹宮恵子 ら」という表現をさせてもらう。 (4) 萩尾望都と竹宮恵子という才能ある新人漫画家を発見した増山法恵が、練馬区大泉にある自宅近くのアパートに二人を住まわせた。 そこに、多くの新 人少女マンガ家や少女マンガ家の卵が出入りして、相互にアシスタントをしたり、連日マンガ論を戦わせたという。 (5) 増山法恵は石田美紀のインタビューに、「ふたりは能力ある作家ですから、わたしは素材を提供するだけでよかった。 たとえば、「デミアン」を読ん だら、その感想をマンガにしてください、というような形で描いてもらったと思います。」(p298)と答えている。 (6) 「このようにして、少女のための「少年愛」は芸術を目指すなかで、少女文化に美と官能を持ち込んだ。 そこには、60年代の男性アングラ(文化) とは異なり、政治的抵抗という身ぶりはまったく介入していない。 ヨーロッパと結合した男性身体は、1970年を境に、政治の手段から美の対象へと移行するのである。」 (p154) (7) 「ぼくらの時代」(1978)から始まる「ぼくら」シリーズ3作。「彼女(栗本/中島)はロックファンであることを公言し、 実際にバンド活動も 行っていたし、マンガ家にも憧れていた。つまり、男性のふりを続けた批評家・栗本の延長線上に生まれた 「ぼくらの時代」の主人公「栗本薫は、作者とプロフィールを分かちがたく共 有する人物なのである。」(p164) (8) 「真夜中の鎮魂歌」(1975)から始まる「今西良」シリーズ。「栗本薫にとっての「パロディ」は、対象を揶揄するものではけっしてなく、 それ を「あらまほしい」姿に作りあげてゆくことであった。テレビドラマ「悪魔のようなあいつ」の可門良から出発した今西良は、 「パロディ」の連鎖の中で変形・整形されつづけ、こ うあってほしい理想の「私」にまで変化したのである。」(p198) (9) p168 (10) p175 (11) p173 (12) p175 (13) 「1978年10月、少女のための男性同士の性愛物語を主題とする少女誌「Comic JUN」がサン出版から創刊された。 その三号めより 「JUNE」 (発音はジュネ)と改題された同誌は、1979年発行の8号から1981年10月発行の復刊号までの 休刊をはさみながらも、1995年11月発行の85号まで20年近く にわたって刊行されることになった。」(p205) (14) 「ぼくとしてはポルノだけというのはつまらない。それに「24年組」はポルノではありませんし、でも、文学だけでも退屈だ。 ポルノ的な部分も 大事だし、文学っぽい部分も面白い。だから、文学とポルノの間を行ったり来たりして、 なにかできないかと思いました。」(p327) (15) 「「少年−それは、ひとつの思想である。」から始まるこの宣言文において、少年とは生殖から隔絶され、 有限の一瞬しか保証されていないため に、「「滅び」をその基盤としたある「美」の体系、そのものである」と明言した。(p215) (16) 「ケーコタンのお絵描き教室」は1982年1月・復刊2号から、「中島梓の小説道場」は1984年1月・14号から連載が始まっている。 (p237) (17) しいて言えば、竹宮は既成の教養の申し子であった増山法恵の筆頭弟子というべきか。 (18)(19)(20) 「「JUNE」は「耽美」という新しいコンセプトで、女性がつくり楽しむ男性同士の性愛物語」を括り直した。 そこに竹宮恵子に よる少女のための「少年愛」マンガと中島梓/栗本薫の批評・創作活動とを経由して、 男性同性愛表象にまつわる古今東西の蓄積が流れ込んだ結果、「耽美」は娯楽と美という糖衣でくるまれ た 新たな「教養」、いうなれば「エンターテインメント教養」の体系として成立したのである。 <女こども>が中心となってつくりあげてきた「耽美」とは、 まさしく70年代に起こった<教養>の新旧交代劇の核に他ならない。」(p249) (21) ついでに言えば、フェミニストたちが「シャドウ・ワーク」という用語を発明して指摘しなければ、 主婦が無報酬の労働をしていることすら意識し てもらえなかった。つまり、女性は社会参加者として一人前のものとして 理解されていなかったのである。 (22) p270 (23) p270 洛 北出版「密やかな教育」ページ 石 田美紀Wikipediaページ 以下 は、本稿を作成するために作ったノートである。 300ページにも及ぶハードカバーを正面から向き合うた めに、必死に立ち向かった記録ともいえる。 上の文章を読んで歯切れの悪さを感じたり、もう少し「密 やかな教育」について知りたいという人は読んでほしい。 ただし、本当に長すぎる。 「密やかな教育」ノート、もしくは長大なレス・0 (2008.12.20) 私はかつて熱烈な少女マンガ読者だった。 当時、応援していた作家たちはほとんどセミリタイア状態になり、喫茶店などで目にするマンガの掲載誌も青年誌の方が多くなっている。 もちろん、少女マンガも変わった。 近年大きく取り上げられた話題と言えば「過激な性描写」だったりするし、 書店の少女マンガコーナーの半分近くがボーイズラブの棚であったりする。 かつて私がワンパターンだと言いつつ読んでいたラブ・コメディの数々は、今の読者には古臭いものに映るのだろう。 私だってひと世代前の母モノ、孤児モノ、難病モノのことを古くて読めないと思っていた。 ただ、多感な10代を少女マンガと多くの時間をすごした理由は、 なにより、そこに24年組、ポスト24年組といった人々が新しい表現を切り開いていったことにある。 そして、そんな少女マンガにおける新しい表現の一つが、「少年」の発見であり少年同士を愛させる少年愛の物語であった。 この作品の副題は「やおい・ボーイズラブ前史」である。つまり、私が一番熱心に少女マンガを読んでいた時代の研究書なのだ。 著者は、1972年生まれ。1970年代から80年代前半を実感できる年齢ではない。 少し下の世代が、私たちの時代をどんな風に語ってくれるのか興味がある。 あるいは、きちんと語ってくれるのか心配でもある。ハードカバー365ページの研究書とはいえ、これは読まなきゃならない。 そうやって実際に手に取って見ると、なかなか読みやすく、また押さえるべきところをきちんと押さえた立派な研究書だった。 ただ、自分の時代がテーマであるだけに、自分の中にも補足したり、感想を書きたい部分が多くあった。 だから、これからの文章はレビューではない。むしろ、長大なレスのような文章になるはずだ。 まだ、どんな長さのどんな文章になるのか、まるで見当がつかないのではあるが。 「密やかな教育」ノート、もしくは長大なレス・1(2008.12.23) 第1章 革命が頓挫したあとの「少女マンガ革命」
・マンガという新たな<教養> >70年の三島由紀夫の自殺と72年のあさま山荘事件は、 68年に頂点を迎えた変革の機運に冷や水を浴びせる出来事であった。 24年組を後の世代が語るときに、忘れられてしまうのではないかと心配していたことがあった。 それは、24年組(世代)の全共闘運動との連なりである。 別に、個々の作家たちが運動をやっていたということではない。 少なくとも、あの時代の若者であり、また表現するものであるなら、 全共闘運動が持っていた気分のようなものを共有していたはずだ、ということだ。 より具体的に言うならば、「間違った大人」が作った社会を「正しい僕たち」が異議申し立てをすることを通して変えられる、 そう本当に信じていた(瞬間がある)ということだ。 政治的には、まさに頓挫したわけではあるが、 例えば、音楽の世界で言うならば、職業作詞家と職業作曲家が作った楽曲を、 音楽プロダクションがマネジメントする職業歌手が歌うというスタイルから、 自分で作った楽曲を自分で歌うというスタイルが登場し、大きく支持された。 既成の作品のような完成度はないかもしれないけれど、 受け手である自分たちに近い場所から発信された作品は、 既成の大人の社会から押し付けられたものではなく、「本物」だと感じられた。 そうした自分たちが表現したいものを表現する。 力を持った大人たちの決めたルールに従ってばかりはいられない。 そんな24年組の作家たちが持っていた感覚が、実に全共闘的なのである。 そのあたりの気分を1972年生まれの著者が理解してくれるだろうか、 正直、心配していたが、杞憂であった。 しかも、全共闘運動と並列させて三島の自殺を語っている。 なるほど、そう来るか。 まして、章のタイトルが「少女マンガ革命」とある。 全共闘運動(革命)が頓挫したあとに成し遂げられた「少女マンガ革命」として24年組を位置付けている。 まさに、わが意を得たりの書き出しである。 >近代日本の基盤を形作っていた<教養>は地殻変動を起こしていたのである。 今でこそ「教養主義」というと古臭さを感じさせるが、かつては支配階層が当然に持っているべきものとして共通の教養があり、 大衆の娯楽とは切り離されているものとして考えられていた(らしい)。 著者も引用している「右手にジャーナル、左手にマガシン」という言葉があるが、 支配階層ではないが、その予備軍たる資格を持っている学生は、 マンガのような大衆娯楽(まして子供向け)に触れるべきではなく、 哲学書か何かを読むことが望ましいとされていたのである(らしい)。 全共闘運動が大人の作った枠組みを否定する思想であるとするならば、 当然に既成の教養を鵜呑みにするようなことはしない。 まして、政治における党派性よりも大衆運動を重視する立場からすれば、 大衆に支持されているものこそが正義であり、 マンガは自分たちの近いところから発信された自分たちの文化であった。 今となっては、かつての教養であったものの多くは書庫の中にしまいこまれ、 サブカルチャーばかりが目につくようになっているが、 マンガも既成の<教養>にも負けない、あるいは十分教養足り得る。 そんな動きが起こり始めたのがこの時代であり、 そんな運動の一つが少女マンガという場所でも起こったのである。 そのことを著者は、こう書く。 >少女文化は、当時のサブカルチャーのなかでももっとも周縁に位置していた領域である。 >70年代、少女マンガの躍進は、その「中心」からの遠さゆえに、 >鮮烈なインパクトを周囲に与え、時代のシンボルとして語られることになった。 「密やかな教育」ノート、もしくは長大なレス・2(2008.12.24) ・「少女マンガ」という驚き >(村上知彦のエッセイを紹介しつつ)しかも、興味深いことに、 1978年当時、青年の<教養>として読まれたのは、少女マンガであった。 既成の<教養>が解体した全共闘世代たちも、<教養>が不要だと主張するわけではない。 それだけなら、単に教養のない人間としてバカにされるからだ。 既成の<教養>に代わる自分たちの<教養>を発見し、その<教養>がいかに既成の<教養>に負けない存 在であるかを示そうとしたのである。 ちなみに、まんが専門誌「ぱふ」の78年度総決算号のベスト10は次のようになっている。 1位カリフォルニア物語、2位スターレッド、3位はみだしっ子、4位地球へ 、5位風と木の詩、 6位いらかの波、7位妖精王、8位バナナブレッドのプディング 、9位ファンタジーゾーン(ますむらひろし)、10位すすめ!パイレーツ 少女マンガの強い雑誌とはいえ、少女マンガが上位8位まで独占している。 そして、青年の<教養>と言っても過言ではない名作ぞろいだ。 こんな名作を生むようになった少女マンガの変化を、こうまとめている。 >70年代に少女マンガは、愛とは何か、死とは何か、人間とは何か、と問いながら、 >表現を<文学>にまで進化させた、この見解はすでに史観として定着している。 そして、さらに問う。 >少女マンガは何を契機に質的に飛躍したのか。 >質的向上の例としてなぜ少年同士の世界を描く作品が挙げられるのか。 >これらの作品が評価されるときには、たいてい<文学>が引き合いに出されるのはなぜか。 >70年代少女マンガを評価するにあたっての<文学>とは何を意味するのか。 ・モノローグが露(あらわ)にする内面-竹宮恵子「サンルームにて」 (1970年) >読者はこの始まり方に少々面食らってしまうであろう。その原因は二つある。 >第一の原因はモノローグと絵の複雑な関係にあり、 第二の原因は少女マンガの範疇を超えた出来事の到来にある。 俯瞰の視点から画面上登場しない人物の慟哭に近いモノローグから始まり、 そのモノローグの主は3ページ目に登場する。(第一の原因) そして、少年は「きみ」と呼ばれた少年にキスをする。(第二の原因) 事実として目の前に起こったことに驚くと同時に、興味を掻き立てられる。 なぜなら、主人公の恋慕は、 >慟哭に近いモノローグによって、彼の登場以前に読者に提示されていたからである。 ・内的ヴィジョンの横溢 >動的なアクションの描写は最小限に押さえられ、そのかわりに想像の翼を羽ばたかせる「ごっこ」遊びが見せ場として選ばれる >登場人物の内的ヴィジョンを見せて内面描写に徹する、という方針が窺える。 >つまり、語り手の内面を剥き出しにして読者に差し出したモノローグである。 著者は「サンルームにて」の仕掛けを、このように評価する。 「密やかな教育」ノート、もしくは長大なレス・3(2008.12.24) ・「少年愛」のために選ばれた表現スタイル
続いて、著者は他のいくつかの竹宮作品を取り上げる。 >1970年の「サンルームにて」から、 >散発的に−多作な竹宮においては 「少年愛」作品の数はけっして多くない−発表されてきた「少年愛」作品は、 >モノローグを中心にした構造をもつ。 そこで、こう仮定する。 >「少年愛」というテーマをどう描くかという意識が、マンガ家の表現を開拓させた、とはいえないだろうか。 「ここのつの友情」の投稿作とリメイクを見比べて、こう結論づける。 >モノローグによって物語を始め、結ぶというスタイルと、それを軸にした内面描写。 >これらの表現は「少年愛」を描くための表現であると同時に、作家の成熟の一里程でもあったのである。 ・少女マンガ、ヘルマン・ヘッセと出会う >竹宮、萩尾というふたりの才能あふれる少女マンガ家と出会った増山は、 >自身の読書・鑑賞体験を伝えるべく、自らが選んだ音楽、文学、映画をふたりに薦めた。 >目標は「芸術」として遜色がない少女マンガであった。 >この目標のために、ヘルマン・ヘッセの「車輪の下」、「デミアン」、「知と愛」がふたりのマンガ家に「推薦」されることになった。 24年組、あるいは「少年愛」を語るのに、増山法恵の存在は欠かせない。 竹宮恵子の昔のエッセイによれば、竹宮は実は美少年的なものは苦手で、 彼女の好む少年は、ちぱてつや的な泥まみれのガキ大将タイプである。 現にそれをうかがわせる竹宮作品はいくつかあるが、大ヒットには至らなかった。 増山法恵のプロデュース能力が、竹宮に美少年を魅力的に描かせ、 いくつもの大ヒット作を生んだということは、それとなくわかっていた。 今回、増山が竹宮に果たした役割をかなり突っ込んで書いてくれている。その入口がヘルマン・ヘッせと言うことなのだろう。 「密やかな教育」ノート、もしくは長大なレス・4(2008.12.25) ・少年たちの世界「車輪の下」「デミアン」「知と愛」 増山が少女マンガ家に薦めた表記の作品は、 「<教養>小説として広く読まれてきた作品群である。」 >主人公はいずれも思春期を迎えた少年である。 >(主人公たちは)特別な存在と出会う。時に対立しながらも、彼を補完するこの存在は女性ではなく、男性である。 >男性が女性と結ばれるのではなく、あくまでも「女性的なもの」を媒介にして、男性の絆が堅く結ばれる物語なのだった。 なるほど、これは、少年愛マンガの王道のパターンだ。 あるいは、「やおい」が二次創作の題材にしたのも、BLが描こうとしている人間関係も(たぶん)、この基本線の延長上にある。 そして、増山がヘッセを読ませたことが、萩尾や竹宮にどう影響したかについては、 増山のこの言葉を引用する。 >ふたりは能力ある作家ですから、わたしは素材を提供するだけでよかった。 >たとえば、「デミアン」を読んだら、その感想をマンガにしてください、というような形で描いてもらったと思います。 おお、何という貴重な証言だ。 これなら、萩尾も竹宮も、突然、寄宿舎の少年たちを題材にした作品を描きだしたこともたのもわかる。 彼らは天才だったが、その天才にインスピレーションを与える増山という存在があり、 見事に彼女らに少女マンガの歴史を変える作品を描かせたのである。 ・マンガと<文学>の軋轢 内面描写を巡って 大塚英志の言葉を引用する。 >手塚にとって、まんがが表現困難なものとは「内面描写」である、と意識された。 >(24年組の文字による表現を)スピーチバルーンから解放された語りは >登場人物の意識の内側での葛藤を「文字」で表現することに成功している。 1998年の大塚の文章を、著者は「挑発的」と言う。 サブカルチャーであったマンガの側が持っている<文学>コンプレックスを、著者は「軋轢」という。 ある意味、堂々としている。 「密やかな教育」ノート、もしくは長大なレス・5(2008.12.29) ・目標としての文学
竹宮恵子の次の言葉を紹介する。 >マンガは子どもの読み物と捉えられていた。 >深い表現やわかりにくい表現は避けなさいとか、芸術的になるとだめだとか、そういう規制みたいなのがあった。 >でも、読み手の方がついてきてくれるのなら、 深い表現をしても芸術的なものであっても、成立するんではないか、 >なんとかそれを成立させよう、というのが私たちの試みだった。 この「芸術的なもの」という感覚として「文学」という比喩が使われる。 当時、マンガというもの自体の地位は低く、少女マンガの地位はさらに低かった。 売れることが最優先の編集者の側からすれば、芸術的だが売れない作品はいらない。 だからこそ、24年組は売れる「芸術的なもの」をめざしたというわけだ。 ・ヘッセの内面描写 具象的で可変的なイメージ イメージを喚起するヘッセの文字表現がマンガとの相性が良いことを指摘し、著者はこう続ける。 >内面が近代小説によって発見され創出されたこと、 >そして、ヘッセが「青春の悩み」という内面を描写するのに長けた作家であること、 >ヘッセの内面描写が「具象的で可変的なイメージ」を伴うこと 薬物体験を思い起こさせるほどに、ヘッセの文字表現には、 具象的でありながら「刻一刻と変化するイメージに彩られた内面描写があった」 と指摘する。 ・ヘッセから離れて 「エロティシズム」と「美」 まず、ここまでのまとめがある。 >竹宮は「少年の世界」という新しいテーマに出会い、内面を表現する方法を開拓した。 >彼女が作家として成熟していくプロセスは70年代少女マンガの躍進の過程であった。 >少女マンガの質的向上は、サブカルチャーが仮想敵としてみなしてきた<文学>を「芸術的な深さ」の別名として理解し、 >マンガという表現形式と非常に相性のよいヘルマン・ヘッセの文字表現を自家薬籠中のものとしながら、果たされた。 「仮想敵」という言葉づかいは過激だが、 少女マンガを支持することが既成の今日の一環である<文学>に対する異議申し立てという視点である。 途中に、大塚英志に対して批判的だった箇所があったのは、<文学>をマンガを「仮想敵」とする視点が評論家的であり、 創作の現場においては「自家薬籠中」のものとしていたというのが著者の主張だ。 上でも書いたが、敵は<文学>などという抽象的なものではなく、現場の編集者であったのだろう。 では、竹宮恵子は、ヘッセをどのようなものとして受け容れたのか。 たとえば、竹宮は「車輪の下」のキスシーンを「なんという美しさだろう」という。 本来、「車輪の下」の登場人物ハンスの肉体的ひ弱さは出自の低さを表すものらしい。 それを竹宮は「性愛化」し、繊細で美しいものとして描写した。 >「性愛化」からは少年間の熾烈な闘争の産物という意味は後退し、 >社会的弱者の悲哀や挫折を語る物語というよりも、美しい少年たちの恋愛物語としての様相を取り始める。 つまり、日本の女性たち、少なくとも増山法恵、竹宮恵子、萩尾望都たちは、ヘッセの物語の中に少年たちの恋愛を発見した。 むろん、本来の物語の持つ意味は理解していたのであろうが、そのように読めてしまうということを発見したのである。 「密やかな教育」ノート、もしくは長大なレス・6(2009.1.10) ・それを「少年愛」と名づけたこと−「少年を愛すること」なのか、そ れとも「少年が愛すること」なのか なぜ、このような問いを立てるのか意味がよくわからなかった。 著者も言うように、歴史的には、大人の男性が「少年を」愛することだった。 しかし、「風と木の詩」の物語では「少年が」愛していた。 >少年を愛する主体は読者である、と考えて、やはりうまく説明できない。 >「風と木の詩」の読者は、(略)あくまでも「男の子が好き」な女の子である。 >「少年愛」を少女たちが少年を愛することであると解釈するなら、女性が介在しない、という「少年愛」の大原則を逸脱してしまう。 この問いに、20数年前に私が示した回答は、<愛する側の「少年」は読者である少女自身の理想の人格である>というものだった。 「少年愛」漫画に出てくる「少年」たちは、とても男性には見えなかったし、少なくとも、男性である「少年」たちが愛し合うマンガを、 女性を愛するセクシュアリティをもつ男性である私が読むには、そうした手続きが必要だったのだ。 ・稲垣足穂「少年愛の美学」 −少女マンガにおける「少年愛」の起源 著者の言うように、「少年愛」の語源は稲垣足穂の「少年愛の美学」なのだろう。 そのなかで、稲垣足穂が「同性愛については、男性同性愛のほうが女性同性愛よりも 独自なものとして評価」していることを示して、著者は「少年愛」の世界に女性が立ち入ることを恐れる。 何をそんなに恐れているんだろう。 「密やかな教育」ノート、もしくは長大なレス・7(2009.1.11) ・からっぽにされた「少年を愛する主体」
>高原英理によれば、日本近代文学の底流の一つである「少年への憧憬」は、男性作家の自己愛の表出にほかならない。 >つまり、憧憬の対象である「少年」はかつての自己をも含んでいるために、 >男性主体は「近代的自他区別を超えた無垢」を手にすることができる。 稲垣足穂的な少年愛は、無垢な存在である少年を称賛することであり、 それを愛する側の立場は「可能な限り希薄なものにした」としている。 ・「少年が愛する様」を愛すること >稲垣が「近代的自他区別を超えた無垢」を手にするための戦略として採用した、 >からっぽの主体については、もっと自由に考えることができる。 >「女」もまた少年を愛する主体を占めることができるのではないだろうか。 「この無謀な仮定」と著者は書くが、そんなにたいそうなことかなという印象だ。 それはともかく、稲垣の「少年愛」が少年愛マンガにつながる理由として、増山法恵の次の言葉をあげる。 >三島由紀夫、澁澤龍彦は少年愛の世界ではなくて、ホモセクシュアルの世界だと思うので、大分違いますね。 著者は、ここでいうホモセクシュアルの意味を「男性身体の関与」と読み替える。 稲垣の少年愛は、愛する主体が空っぽであるがゆえに、 >女性に「少年が愛する様」を愛させてくれる体系である。 著者は、「少年であったこともない癖に」という言葉に過剰に恐れを抱く。 それが、何によるのかわからない。著者自身の経験もあるのかもしれない。 少なくとも、稲垣の体系なら、女性が少年愛を描いてもよいという免罪符を手に入れることができたというわけだ。 ただ、竹宮恵子は必ずしも少年愛的な作品ばかりを描いていたわけではなく、 少年愛以前でも「空が好き」のような少年を主人公とする作品を描いていた。 当時の竹宮のインタビューには、 「子供の時から、男ならしてもよいが女だからしてはだめ、ということがあまりに多いのに疑問を感じ、不満を抱いていた。」とある。 竹宮が少年を主人公としたマンガを描くことは、著者のいう文学史的なアプローチもさることながら、 女性の可能性を否定する社会に反発した竹宮恵子が、少年の姿を借りて自分自身がやってみたかった冒険を描いみせたという、 社会学的なアプローチの方がわかりやすいように感じられる。 もっとも、読者が共感できるような少女を主人公とすることが常識であった当時の少女マンガ界からすれば、 「少年を主人公とする物語」を描くこと自体、増山を通じて竹宮が少年愛的な感覚を発見したことによるのかもしれないが。 以上、第1章終わり。 「密やかな教育」ノート、もしくは長大なレス・8(2009.1.11) 第2章 ヨーロッパ、男性身体、戦後
・憧れの土地 章が改まり、著者は新しい視点を提示する。 >70年代少女マンガの代表作の多くは、(略)「少年愛」作品に限らず、ヨーロッパを題材にしているのである。 >日本でヨーロッパを夢見ていたのは少女だけだったのだろうか。 >「少年愛」マンガの登場は、(略)近代化を推し進めたあげくに経験した、第二次大戦の敗北以降の変遷とは切り離せない出来事なのである。 ・三島由紀夫という背中合わせの隣人 >三島は稲垣の熱心な読者であり、(略)評価していた。 >(三島と少女のための「少年愛」とは)稲垣の「少年愛」の魅力について共通理解を示しながらも、まったく別の方向に歩んだ >かれらはそれぞれヨーロッパで何を発見し、それをどう受けとめたのだろうか という前提の下で議論は展開される。 ・ふたつのヨーロッパ体験 三島のヨーロッパ体験は、1952年朝日新聞社特別通信員の肩書で、竹宮、増山、萩尾、山岸の初のヨーロッパ滞在は、1972年の個人旅行だ。 >アメリカの占領が終わり、60年安保、70年安保を巡ってふたつの闘争が起こり、ともに頓挫した。 >ゆえに、ふたつのヨーロッパ体験が異なっていても、ある意味あたり前かもしれない。 ・肉体の発見 三島由紀夫のヨーロッパ体験(1952年) >三島がヨーロッパ滞在から発見したものを一言で述べるなら、男性身体に尽きるだろう。 >それも、内面にふさわしい外面に備えた男性の肉体である。 「外面は内面であり、内面は外面である」というギリシャ思想、 それを体現するヴァティカン美術館のアンティノウス像をはじめとする彫刻たち、 >すでに十分な内面を自負していたこの作家は、 かの地で芽生えた肉体への関心を、ほかでもなく自らの肉体で引き受けたのである。 なるほど。その後の肉体鍛錬については、よく知られているところだ。 ・男性身体の露出 少女マンガ革命以前 >60年代になれば、三島の鍛えられた肉体は、写真、映画によって誇示されることになった。 >誤解を恐れずに言うならば、1960年代は男性が身体を衆目にさらすことに 特別な意味が与えられていた時代であった >土方巽の暗黒舞踏、唐十郎の<状況劇場>、寺山修司の<天井桟敷>。 >こうした60年代アングラ文化の立役者たちの共通項として、肉体の誇示が挙げられる。 アングラ文化の立ち位置は、既成の文化運動に対して、さらにアンダーグラウンドにいるという意味である。 文化運動という違和感があるかもしれないが、 戦後のある時期まで、知的前衛が遅れた大衆を正しく指導し団結させていかねばならないと考えられていた時代があり、 演劇にもそんな役割を担わされていたところがある。 そうした既成の左翼運動が体制との正面衝突した上で敗北した60年安保以降、 反体制とともに、既成の左翼運動に対する異議申し立ても目につくようになった。 つまり、結局勝てなかった組織や団結という力で権力に対抗するのではなく、 もっと違う形で対峙するという意図があったようにうかがえる。 60年代に出現したアングラ文化において個の肉体が強調される背景には、 こうした文化をめぐる政治的状況があったことは見過ごせない。 「密やかな教育」ノート、もしくは長大なレス・9(2009.1.11) ・男の体で政治を語る 「血と薔薇」(1968年)
>1968年秋、「エロティシズムと残酷の綜合研究誌」と銘打たれた、 澁澤龍彦の責任編集誌「血と薔薇」が天声出版より創刊された。 >名前をあげるときりがないが、 >「実に錚々たる面子が一堂に会した「血と薔薇」の 「創刊号の巻頭を飾った」のは「グラビア特集<男の死>」であった。 >エロティシズムに何が賭けられていたかは、編集者一同が執筆した「血と薔薇」宣言の中で表明される。 >「エロティシズムは何ら体系や思想を志すものではないが、 >階級的・人種的その他、あらゆる分化対立を同一平面上に解体、均等化するものは、 >エロティシズムにほかならないと私たちは考える。」 >つまり「血と薔薇」とはあらゆるものを解体し再編する行動のシンボルであり、 >それゆえ、男性が自らの肉体をさらけ出すグラビア<男の死>も、 >キワモノすれすれの見かけとはうらはらに、真剣な政治行動の一環であった この「解体と再編」というのは、1968年の気分を表すキーワードの一つだろう。 そして、エロティシズムを使ってでも政治行動を模索していたのが1960年代末であり、 1970年代以降は、そんな政治的な意図さえも、再編されることのないまま解体されていったのであるが、 この時点ではすこぶる政治的行動であったわけだ。 ・官能のヨーロッパ 異議申し立ての足場として >同誌に集った男性知識人・芸術家が異議申し立ての一環として実践する「エロティシズム」の源は、 >日本でも、アメリカでも、アジアでもなく、ヨーロッパだった。 >「血と薔薇」がヨーロッパで起源の官能に傾倒したのは、 >第二次大戦後、政治・経済・社会・文化のあらゆる領域において日本に絶大な影響を及ぼすアメリカに抵抗するためであったからである。 なるほと、明快だ。 さらに引用される種村季弘の回顧文も、当時の非アメリカ的立場を明らかにしている。 >アメリカはもともと万年ユースフェティッシュ(青春崇拝)の国だから。 >「血と薔薇」のほうは(略)それとは無縁の、いわば永遠の少年の世界、もっといえば子どもの多形倒錯(フロイト)の世界を夢見ていた 「密やかな教育」ノート、もしくは長大なレス・10(2009.1.18) ・男の肉体の失墜 1970年、「地獄に堕ちた勇者ども」と三島の死
1970年は、三島が死んだ年だ。 >その死に方ゆえに三島はシンパからは神格化され、シンパでない者からはキワモノ扱いされている。 あけすけに言えば、そういうことなのだろう。 ヴィスコンティは、日本とヨーロッパでは評価のされ方が違うらしい。 >日本では「地獄に堕ちた勇者ども」以降の(略) >徹底した時代考証による「華麗な映像美」でヨーロッパ世界をスクリーンに再現した後期作品群が代表 作 とされているが、ヨーロッパ圏では「戦後イタリアの厳しい現実と向き合う監督」である。 では、なぜ1970年の日本で、「地獄に堕ちた勇者ども」が評価されたかだが、 >政治と性という、いかにも60年代的問題をダイレクトに反映した映画 として理解された、ということであるらしい。 たとえば、ナチスに取り込まれる登場人物は「性倒錯者」として描かれている。 ちなみに、三島はというと、 >荘重にして暗欝、耽美的にして醜怪、形容を絶するやうな高度の映画作品 として「手放しで誉め讃えている。」 三島にせよ、「血と薔薇」にせよ、政治的立場の左右は別にして、 >60年代という政治の季節に現れた「男の体で政治を語る」姿勢を期せずして映像化したとして受け入れられた ということであり、三島の死によって >「男が男の体で政治を語る」姿勢が奇妙奇天烈な振る舞いとなってしまった ことが指摘される。 三島の死が「男の体で政治を語ること」の終焉に結びついたのかもしれないが、 身体への興味は70年代以降も続いているようにか感じる。 ヨガやドラッグなどの流行は、 革命という形での「みんなで幸せになる」ことをあきらめた人たちが、 自分の身体に興味をもつことから生み出された文化であるように感じられるのだ。 それは、「みんな」ではなく「私」の単位で幸せになるということであり、 体制に「勝つ」のではなく、体制の「外で生きる」という感覚である。 そして、そんな流れが、たまたま、再び政治の方向へ向かったのが、オウム事件だったのではないか、と。 ・少女マンガとヨーロッパ とはいえ、この本は60年代文化を描くことが目的ではない。 1970年代に立ち上がった少女マンガ家たちは、 >60年代<アングラ文化>とは別の方法で、男性身体を表現し、演出する方法を獲得した(略)そこにもヨーロッパ経験は作用している。 少女マンガにおけるヨーロッパは、1950年代の高橋真琴の時代から登場しており、 1960年代の水野英子の「白いトロイカ」では、「帝政ロシアを舞台に、圧政に苦しむ農奴の解放」をめぐる物語が展開される。 しかし、当時は、「パリやロンドンという固有名が与えられ」るものの、 「どこでもない空間」としてヨーロッパが描かれる作品が多かった。 ・ディテールの追求 70年代の少女マンガが目指していたのは、 >地理的に(そしてときには時間的にも)遠いヨーロッパをより本当らしく みせることであった。 増山法恵は、インタビューの中で、 >「窓を開けたらパリ!」にしないために、服飾史だとか、壁紙の歴史だとか、 家具の歴史とかを知るために洋書を買って調べたわけです。 >映画もね、最初は物語を観るわけですけれど、 >観終わって話し合うと、 石畳がどうなっているか、窓がどうなっているか、把っ手がとうなっているか、そんな話題になっちゃって。 >その点、ルキーノ・ヴィスコンティの描く世界は完璧 と語る。なぜなのか。 「リアリティをだすことは、主題を活かしますからね。」 つまり、「少女マンガ革命」はヨーロッパを正確に描くことを武器としたのであり、 「政治を男性身体で語る延長線上で」理解されていたヴィスコンティは、「ヨーロッパの空間を演出する手本として」理解されたのである。 さらに後の世代の私などは、新書館の本でヴィスコンティの名前を知ったので、 ヴィスコンティと言えば絢爛豪華なお耽美の人とという印象しかない。 日本におけるヴィスコンティ評価がヨーロッパとそんなに違うのかとか、 日本の中でも評価の方向が違っていたとか、まったく新しい情報で面白かった。 そして、ヴィスコンティから影響を受けたという竹宮恵子の「風と木の詩」は、 少女のための「少年愛」という作者や読者の日常から離れた題材を描くために、 「物語の時空間は慎重に選ばれ、演出されなければならなかった」のである。 「密やかな教育」ノート、もしくは長大なレス・11(2009.1.20) ・空間の厚みを知ること 1972年のヨーロッパ旅行
1972年、竹宮・増山・萩尾・山岸の4人は、40日間のヨーロッパ旅行に出た。 >この旅は戦後の女性史においても画期的なものである。 と著者は言う。 というのも、 >三島がヨーロッパへ旅したのは「朝日新聞社」特別通信員という肩書を得てのことであるし、 >ヨーロッパの紹介者である澁澤が初めてヨーロッパを旅したのは意外にも遅く1970年のことである。 そんな時期に、4人の少女マンガ関係者が「自身の目と耳でヨーロッパを感じ取り、 表現を深めようと」ヨーロッパに出かけたのだから、これは特筆ものというわけだ。 そして、 >ヨーロッパ経験から得られたディテールは、少年たちの性愛の物語に、 表象としての細やかさと重み、 >つまりはリアリティを与えたのである。 つまり、ただでさえ絵空事の不可解な物語と思われてしまう恐れのある少年同士の性愛物語を、 リアルなヨーロッパ表現を駆使することで、無理やり納得させてしまうこととなった。 あるいは、納得させるだけの表現力を身につけることとなった、というわけだ。 ・リアリティと夢想のアマルガム 1972年のヨーロッパ旅行は、1973年に「竹宮と萩尾が共同執筆した」 エッセイマンガ「こんにちは・さようなら」で報告されている。 >少女マンガ家の身体は、ギャグ・マンガ調に徹底的にデフォルメされている。 >しかし、彼女らの視線の対象であるヨーロッパ人たちは、(略) ふたりの作品からぬけだしたようである ここで石田が何を提起したいのかというと、 高橋真琴以来の「華やかさとデザイン性が追及された」身体表現は、 「少女マンガの伝統の産物である。」 しかし、 >この帰朝報告にて描かれるヨーロッパで出会った実在の身体は、 >少女マンガ家たちがすでに体得していた表現体系から逸脱するものではない。 つまり、彼女らがヨーロッパで手に入れたものは、 >写実的ではない身体表現を演出する手段、つまり表象としてのリアリティを備えた空間である。 ここで、「写実的」か否かにひっかかっては論旨を見誤る。 後に、ヨーロッパを舞台に少年愛ドラマを描くようになった竹宮や萩尾が 実際にヨーロッパで見聞きすることを通して変化していったのは、 身体表現ではなく、その演出方法だということである。 ・政治から美へ さて、まとめである。 >少女のための「少年愛」は、ヨーロッパ経験と男性身体への関心という点で、 >戦後直後の三島由紀夫、そして60年代の男性アングラ<文化>と通じ合いながらも、まったく異なる結果へと至ったのである。 その変化を、石田は「美」への志向であるという。 萩尾が少年身体が好ましい理由として、「男性だと知らない部分が多いので理想的にかける」「思考的に遊べる」と語っていることから、 >少女のための「少年愛」とは、理想化を柔軟に施せる少年と美化の体系である少女マンガの身体表現の結合 とする。 つまり、性が異なるがゆえにより理想的なものとして描かれる少年身体は、 少女マンガの美化の体系によって、美の方向へ進んでいくというわけだ。 ただ、男性(少年)読者であった私の立場からすれば、 少年愛マンガに登場する「少年」たちは、実在の少年を美化したものとも思えず、 むしろ、美化し理想化した少女自身の姿として理解していたことを付記しておきたい。 いずれにせよ、政治の時代であった60年代は終わり、1970年代は美の時代として始まる。 第2章終り。 「密やかな教育」ノート、もしくは長大なレス・12(2009.1.22) 第3章 <文学>の場所で 栗本薫/中島梓の自己形成
>本章の主人公は、作家・評論家である栗本薫/中島梓である。 ・「栗本薫」というペンネーム 栗本薫は、中島梓というもう一つのペンネームも使いながら、 20代半ばにして、文学評論からミステリまで、さまざまな分野で受賞し、華々しいデビューを飾った。 さらに、栗本/中島は、同時期にデビューした中沢けい、見延典子と3人で、 「音羽キャンディーズ」と呼ばれるなど、「一括りで語られることが多かった。」 しかし、栗本は違った。そう、石田は言う。 >中沢や見延がうら若き女性の内面世界を屈託なく綴って見せたのに対し、栗本/中島は抵抗の姿勢をとったからである。 ・「ぼく」という一人称 評論と実作の華僑 >中性的な名である「薫」が選ばれたことは、この文筆家の作品の姿勢に深く関わっている。 >(都筑道夫論で)使用された一人称は、「私」ではなく「ぼく」であった。 そして、「(女性でありながら男性の文体を用いる)この遊戯精神は、見事である。」と評価される。 裏返しに言うと、当時の女性は、女性の文体で女性の感覚で書くものであり、 女性の文体で書くゆえに、男性と同じ土俵には乗らなかったという側面も否定できない。 まだ女性の創作者が「女流」と呼ばれる時代であった。 ・作者と主人公の一致とズレ 「ぼくらの時代」 このミステリ小説の主人公は、作者と同じ栗本薫であり、「ぼく」となのる。 自己紹介で言っているマンモス私大の学生」もロックバンドのメンバーだったことも、「みずがめ座」であることも、 栗本/中島本人と同じだ。 ついでにバンド名を「ポーの一族」としていることに、 「ロックと少女マンガ。それらは70年代に大学生であった作者・栗本の精神的支柱」 と指摘しているが、 同時代に読んだ者としては、バンド名などの固有名詞に自分の好きなものの名前を適当につけるのは、 安易だし、よくあるよな、という程度の印象だった。 ま、いずれにしても >主人公「栗本薫」は、作者とプロフィールを分かちがたく共有する人物である ということは確かだ。 ・求められる「私」への抵抗 この栗本/中島の戦略を、石田はこう解説する。 >「私小説」は作家による「自己暴露」でもあるわけだが、暴露だけで足る場合はおそらく少なく、自己演出も行われるはずである。 つまり、性別の違う「薫」を主人公とする「僕らの時代」も、栗本/中島にとっては「私小説」なんじゃないですか、というわけだ。 ちなみに、先の「音羽キャンディーズ」の中沢や見延の小説は、 限りなく本人に近い主人公の一人称による性生活が描かれ、男性選者からは、その「妙に生な感じ」が評価された。 それが創作なのか自己暴露なのかはともかく、 当時の文壇は、「音羽キャンディーズ」と名づけるレベルでしか女性の創作を評価する場所であったのであり、 そのことが「栗本にもうひとりの「ぼく」こと栗本薫を作らせた事情であった。」 「密やかな教育」ノート、もしくは長大なレス・13(2009.1.24) ・「エンターテインメント」を味方にして
栗本/中島は、戦略的に「エンターテインメント作家」を選んだ。 そこには、正統派である純文学に対する「複雑な意識」があり、その対立図式は、「「マンガvs<文学>」の素地となるものである。」 この感覚は、今の時点から見ると、補足する必要があるかもしれない。 当時、角川書店が映画制作とともに打ち出したエンターテインメント路線は、 まだそれなりの勢力を持っていた「教養としての文学」論者から批判されていた。 後世に残すべき歴史的名著だけが文庫化される栄誉を得るべきなのに、 読み捨てられがちなエンターテインメント作品を文庫化するとは嘆かわしい、と。 現に、エンターテインメント作品の文庫が次々とヒットすると、いつのまにかそれが当たり前のものとなってしまった。 しかし、まだ当時は、純文学というものに特別な地位があるものと、少なくとも純文学関係者は考えていたのである。 >70年代末、マンガという新しい<教養>の台頭を前にして、<文学>の旗色が悪かったからこそ、 >純文学の伝統である「私 小説」が必要とされたと考えられるだろう。 >その際に、白羽の矢が立てられたのは、うら若き女性の内面であったのである。 それほどまでに<教養>としてのマンガに力があったとは思えないが、 若い女性による私小説が、開拓されつくしたかに思われた私小説におけるフロンティアであったことは確かだ。 >いっぽう、「エンターテインメント」小説と呼ばれる大衆小説は、こうした伝統に縛られない。 >事実、一人称はより柔軟に用いられる。 例えば、社会学者・金田淳子は、新井素子が「あたし」を使うことで、 >読者、主人公、そして作者の連続性が三人称小説よりも容易に確立される と指摘する。 それは、「わたし」を主人公とした性愛を含む若い女性作家による純文学が、 作者の実体験であるかのように思われて評価されるのとは、状況が違うのだ。 ・「私小説」的ミステリ小説 「ぼくらシリーズ」 栗本薫の「ぼくらシリーズ」は、「「ぼく」が綴る手記という形をとっている。 「ぼくらの時代」では、「探偵役を務めていたはずの語り手である「ぼく」は、事件を演出していた張本人でもあった」。 それは、「事件」の当事者に共感し、演出までしてしまう「ぼく」のことを、石田は、「理想化された作者」なのだという。 つまり、ミステリという「不完全な現実を「あるべき」姿に修正する」物語の主人公は、 たとえ作者に似ていたとしても、「あるべき姿に改変した人物である」というわけだ。 マンガ同人誌の世界を扱った「ぼくらの気持」では、「ぼく」は、「少女マンガ誌のベテラン編集者に食ってかかる。」 小説の中で「成人男性の「ぼく」がおとなを叱責することによって、」 女性であり、同人誌即売会の参加者でもある栗本/中島という 「当事者の主張を第三者の批判として装うことができる」のだという。 つまり、20才前後の女性が純文学作家として好奇の目にさらされたり、 10代の少女マンガ家が編集者にバカにされつつ商業ベースに乗せられるというそんな状況への憤りを小説の形式にする手段として、 「成人男性」の「ぼく」という姿を借りたのが、主人公としての栗本薫というわけだ。 ・理想の「私」をつくるための習作 「今西良シリーズ」 栗本の今西良を主人公とするシリーズには、「ぼく」こと栗本薫は登場しない。 >「今西良シリーズ」は作者が自身の現実から「あらまほしい」虚構をつくっていく過程そのものだからである。 >興味深いことに、この過程もやはり男性身体を文字で表現し、作り上げることであった。 今西良のモデルは、当時人気の絶頂にあった沢田研二である。 三億円強奪事件を題材に沢田研二と藤竜也の「男同士の愛憎を官能的に描いた」 ドラマ「悪魔のようなあいつ」が出発点であるらしい。 実在する沢田研二が演ずるドラマの主人公を「素材として、自分の読みたい物語を紡ぎだした」という栗本は、まさに二次創作の走りだ。 しかも、新しい作品が書かれるたびに、主人公の今西良は「より「あらまほしい」姿に改変されてゆく。」 そして、ついには「随分と中性的であり、モデルであった沢田研二の面影をほとんどとどめていない」という段階にまで達する。 >中性的であることが強調される「真夜中の天使」の少年歌手の身体は、 >少女マンガにおける少女のための「少年愛」がつくりあげた肉の重みと厚みを欠いた身体に近づくのである。 著者自身の発言はというと、 >今西良はもうまったく、沢田研二でも可門良でもありません。 誰になったかというと、たぶん私になったのだと思います。 >「パロディ」の力、すなわち現実から出発しつつも虚構を構築する という栗本の力によって、今西良という主人公は >変形・整形されつづけ、こうあってほしい理想の「私」にまで変化したのである。 ここへきて、男性身体を持った主人公たちが「理想の私」としてとらえられており、長年の私の持論に重なるところとなった。 ・作者としての私 「ぼくらの世界」の中の「ぼく」は、ミステリの賞を受賞し、怒っていない。 すでに「グイン・サーガ」「魔界水滸伝」が書き始められており、 >物語の語り手として十二分の自信と余裕を身につけていたのである。 そして、 >彼女が培ってきた蓄積は、(略)少女たちに積極的に伝授されてゆくのである。 第3章終り 「密やかな教育」ノート、もしくは長大なレス・14(2009.1.27) 第4章 新しい<教養>の効能 雑誌「JUNE」という場
>70年代に少女マンガと小説で起きた<変動>。 >その現れの一部が、 質の向上を目指す「少女マンガ革命」が生み出した竹宮恵子による少女のための「少年愛」と、 >栗本薫/中島梓が作家としての自己形成を果たすために書いた初期小説であった。 >彼女たちが紡いだ男性同士の性愛物語に賭けられていたものは、 創作と表現の可能性である。 >それは、世間から<女こども>とみなされる若い女性の創作者が発した「私に何ができるのか」という問いかけであった >それまで、少女マンガ、小説といった既成の表現ジャンルの一隅で、 >あるいはマンガ同人誌といったアクセスの限られた領域で培われていた少女のための男性同士の性愛物語は、 >「JUNE」という全国展開の媒体ができたことにより、急速に体系化されてゆくからである。 そして、ここから「密やかな教育」が展開された「JUNE」の物語が始まる。 ・1978年、「Comic JUN」創刊 >「JUNE」の創刊を「事件」と呼ぶ理由は大きく分けて次の三点にある。 >第一の理由は、同誌が少女のための「少年愛」マンガを支持する読者を想定した最初の商業誌であったこと。 >第二の理由は、執筆陣をはじめ参加者が大変豪華で会ったこと。(略) >第三の理由は、同誌の版元が少女誌・少女マンガ誌を発行していた大手出版社ではなく、 >同性愛、異性愛を問わず多様なポルノグラフィを扱う「大衆娯楽誌」専門のサン出版であったこと、である。 確かに、発刊当時は儲かるなら何でもありのポルノ系出版社が、何を勘違いして「少年愛」を取り上げたんだろう、という印象だった。 その一方で、豪華な執筆陣は、「本気」で取り組んでいることを感じさせた。 他にも「OUT」が「宇宙戦艦ヤマト」特集をきっかけに、アニメ系サブカル雑誌として売れ、 三流劇画誌に執筆する新しいマンガ家たちがニューウェーブとしてもてはやされた。 かつての「教養」の外で、新しい文化を立ち上げようとする努力は、 「少女マンガ革命」以外にもいろいろな場所で見ることができた。そんな時代だった。 ・「耽美」というコンセプト >創刊号表紙に掲げられた「耽美」という語。これが「JUNE」のコンセプトだった。 >「耽美」という呼び名を少女のための「少年愛」に与えたのは、 「JUNE」の企画を立てた佐川俊彦であった。 >マンガ・マニアであった佐川は、 70年代に相次いで発表された男同士の恋愛を描く少女マンガに感銘を受けていたという。 佐川は言う。 >「24年組」はポルノではありませんし。でも、文学だけでは退屈だ。(略) >だから、文学とポルノの間を行ったり来たりして、なにかできないかと思いました。 このアイデアが「「耽美」という語にまとめられることになった」のである。 >佐川は、少女のための「少年愛」が演出する「美」が、少女マンガ家たちが獲得した質であると同時に、 >エロティックな「娯楽」としての商品価値をもつことも見抜いていた。 つまり、「少年愛」専門誌というコンセプトは、24年組の芸術性を保ちつつエロティクであるがゆえに売れるということなのである。 >そして、彼が企画した同誌によって、少女たちの男性身体への関心は、エロティック視線としてはっきり体を成すのである。 たとえば、かつては「白馬の王子様」がやってくるという幻想の内にも、 少女の中には美しい男性身体への興味やら願望は秘められていたのであるが、 少女たちは「JUNE」という雑誌を読み、買い、楽しむという能動的な行為を通して、 男性身体に興味を持つという自らのエロティックな欲望を自覚する/させられるのである。 「密やかな教育」ノート、もしくは長大なレス・15(2009.1.31) ・70年代サブカルチャーの総花としての「耽美」 では、「JUNE」はどんな雑誌であったのか。 石田は、創刊号の目次から検証する。 >イラストおよび実写グラビア、マンガ、小説、コラム、読者投稿と、雑誌媒体で可能なあらゆる手段によって、 >主題である、少年身体の美とエロティシズムが扱われ、論じられていることが分かる。 >竹宮恵子は、表紙だけではなく、マンガ「VARIATION変奏曲」を描き下ろし、 >小説「薔薇十字館」の挿絵を担当するなど、八面六臂の活躍をし た。 >(竹宮は)多忙を極めていたが、「「風と木の詩」の援護射撃として、そういう本がある方がいい」と考え、積極的に参加したという。 1978年から79年の竹宮恵子はというと、隔週連載の「風と木の詩」に加え、月刊連載の「地球へ!」を発表し、 連載を時々休んでは、「砂時計」などの読み切り作品を発表していた。 20代後半という若さもあったのだろうが、描きたいものの多過ぎて時間がない、それても、わずかな時間さえあれば作品を発表したい。 ヒット作家として、そんな多忙な生活を、もう数年も続けていた。 >中島梓/栗本薫は(略)「少年派宣言−来るべき美少年時代への眼メッセージ」を執筆した。 >彼女は、「少年−それは、ひとつの思想である。」から始まるこの宣言文において、 >少年とは生殖から隔絶され、有限の一瞬しか保証されていないために、 >「「滅び」をその基盤としたある「美」の体系、そのものである。」と明言し た。 それはまさに、米独立宣言、仏人権宣言、共産党宣言や水平社宣言を思わせる激文だ。 美少年を愛する者よ立ち上がれ、とでもいいたげな中島梓/栗本薫のこの文章は、 かつての政治の季節のパロディとして書かれていたのであろうが、 少数者を正当化し、勇気づけ、動かそうという意味では、リアルに有効だった。 >ヨーロッパへの傾倒と宣言文。この二点から、(略)「血と薔薇」を思い出すことは、穿ちすぎではけっしてないだろう。 しかし、60年代の「血と薔薇」は70年代の「JUNE」とでは、おのずと時代が違う。 >大学生として70年代を過ごした佐川は「血と薔薇」について次のように語る。 >ペダントリーや本物感がちょっとダメでしたね。(略) 自分たちは、もっとマンガで、もっとロックだと思ってました。 このことを、石田美紀は >70年代を特徴づける<教養>の新旧交代劇を語ると同時に、「血と薔薇」を生み出した世代に対する両義的な感情の表明でもある。 と位置付ける。 「ペダントリーや本物感」と「マンガとロック」の対比について言うならば、 「マンガとロック」がより大衆的で身近に感じられるのに対して、 「ペダントリーと本物感」には教養主義を無理やり捻じ曲げようとする重さや、 インテリが支配階級につながる責任感のようなものへの忌避を思わせる。 実際にどうであったかは「血と薔薇」を知らない身には手にあまるが、 佐川の言葉を見る限り、教養主義の悲鳴であった「血と薔薇」に対して、 「JUNE」は、教養主義のくびきを逃れた軽快さを感じさせる。 石田は、少女マンガ家のみならず、同人誌系作家やガロ系の文化人が集った点でも、 70年代サブカルチャー文化の「JUNE」を、60年代アングラ文化の「血と薔薇」と対比する。 そして、「JUNE」を80年代のサブカルチャーの「ゆりかご」と位置付ける。 「密やかな教育」ノート、もしくは長大なレス・16(2009.2.1) ・少女たちへの教育装置としての「耽美」 「ジュスティーヌ・セリエ作品」
ようやく、この本のタイトルである「教育」という言葉が登場した。 では、誰をどう教育したのか。まず、佐川が「JUNE」読者層とは、こうだ。 >少女マンガ世代で、ロックも好きな、高校生・大学生以上という感じでしたが、 >メインには学校の図書委員みたいな人がいっぱいいたという印象があります。 >いわゆる文学少女で「心の不良」ですよね。 このことから、石田は「<文学>が機能不全に陥りつつある時代の「文学少女」というが、 そこまで当時の「文学少女」が行き場を失っていたと言い切るのはどうか。 むしろ、もっと身近で、もっと楽しそうで、「文学少女」の琴線に触れるものが、そこにあったというべきだろう。 そして、話題は「第二のフランソワーズ・サガン」と注目されたという、 「耽美的な少年愛」を描くフランスの新進小説家ジュスティーヌ・セリエに移る。 その四作の日本語訳が創刊号から六号にかけて「JUNE」誌上に掲載されたからである。 ちなみに、挿絵は竹宮恵子によるものだ。 >つまるところ、セリエ作品とは、少年を巡るエロスとタナトスの物語である。 と書いたとされるフランス人小説家セリエの正体は中島梓であり、 中島は他にも複数のペンネームで「JUNE」誌上に登場したらしい。 石田は、その意図を、中島梓がセリエ作品の訳者・あかぎはるな名義で書いた「世界JUN文学全集」(西洋篇・日本篇)から探る。 そこでは、「古代から現代にいたる西洋文学史が男性同性愛という観点から整理」され、 入手しやすさや読みやすさで分類し、列挙しながら、次のように主張する。 >われわれJUN文学ファンは、決して、ソレさえ出てくれば満足する、というほど低次元であってはなるまい。 >あくまでも、文学的にすぐれ、かつ美学的に洗練されたものでなくてはJUN文学と認めるわけにはいかない。 >中島は、読者と同年代の女性たちの手によって世に出されたという設定を作り、 >読者に知ってほしいヨーロッパ文学ならびに日本文学を、イラストを添える竹宮の画風と齟齬をきたさない形に、 >つまりは少女たちに馴染みやすい形に編集したのである。 ああ、なんと親切で念入りな教育なのだろう。 しかし、そこに見てとれるのは、教養主義の崩壊と言いつつも、知識人として当然にもつべき知識の体系としてではなく、 「JUN文学」を志す者にとって必要な文学的教養のパロディとしての教養であった、ということである。 「密やかな教育」ノート、もしくは長大なレス・17(2009.2.2) ・80年代、次世代創作者の育成(その1)「ケーコタンのお絵描き教室」
「JUNE」は、より積極的に「書き手/描き手」を発掘する。「ケーコタンお絵描き教室」と「中島梓の小説道場」である。 >事実、こうした要請コーナーから、マンガ、とりわけ小説の分野において、次世代創作者が輩出されることになった。 >竹宮の「お絵描き教室」から。第1回目は唇の、第2回目は手の描き方が取り上げられた。」 >竹宮の創作の秘密とでもいうべき「少年愛」マンガを描くためのテクニックは誌上にて公開され、読者に伝授されてゆくことになった。 そして、1985年10月から「いよいよ実技添削指導編」が始まる。 >竹宮は投稿作に対して、男同士の性愛シーンを描くには、そこに至る「内的理由」がなけければいけない、と指導している。 竹宮は、現在はマンガ家として活躍する西炯子に対する指導を 「<自己改革>という言葉でまとめている。その中身は<1・気づくこと 2・変えること 3・客観>であった。」 この竹宮の指導方針を見ていると、マンガを描くのは単なる技術のみではなく、登場人物の「内的理由」を描き切ることであり、 そんな描く力を得るには、「自己改革」が必要なのだとまで言っている。 経験に基づくものとはいえ、竹宮はマンガ家を目指すものに対して、惜しみない情報を提供を行うと共に、 全人格的な成長までもを求め、 しかも、それを実現させているのだ。 今、精華大学マンガ学部教授として活躍する竹宮だが、実は、さかのぼること20数年前に、すでに後進の指導をやっていたわけである。 「密やかな教育」ノート、もしくは長大なレス・18(2009.2.3) ・80年代、次世代創造者の育成(その2)「中島梓の小説道場」
>この道場は、「お絵描き教室」のスタートから二年遅れて開始されたものの、「お絵描き教室」以上に活発な教育の場となった。 >中島は道場の開設理由を述べている。 >小JUNE(「小説JUNE」のこと)、及び、佐川君からみせてもった小JUNEの没原稿を読み、つくづく考えてしまったのです。 > こ、このままでいいのだろうか! >中島を抱腹絶倒させたのは、見よう見まねで書かれた拙い投稿原稿だった。 >しかし、それらの原稿は、自分も何かができるはずだと思い立った読者の意思表示にほかならなかったのである。 なんというか、まさに知的前衛が目覚めかけた大衆を正しき方向へ導くの図だ。 竹宮にしろ中島にしろ、なぜそこまでかかわるかと思われるほどに、 目覚めかけた「JUNE」読者を「正しく」目覚めさせることに力を注いでいる。 >添削の対象となる「JUNE小説」は、以下の四点を挙げて定義されている。 >1 とにかく美少年ないし美……ノベルである。 >2 ロコツ度のいかんをとわずゴーカン・和姦ないしその種のシーンが自己目的化しておる。 >3 程度と美意識の差は別として基本的に耽美派である。(略) >4 であるから、それはその種の特殊ノベルの特性として、仲間内の符牒や寛容さによって多々支えられてのみ成立している。 このことを著者は >「JUNE小説」が「美」と「娯楽」を要諦とするジャンルであることが、はっきりと定義されている。 というが、むしろ、中島がまだそこに存在していないジャンルを、あらかじめ定義づけてしまっていることのほうが驚くべきことだ。 あるいは、中島の評論家的な資質が、そこに存在しないジャンルについても、 その批評眼をもって、その特性を明らかにして見せているというべきか。 「小説道場」は、「マンガで描くのは難しい」という読者に大反響を呼んだらしい。 中島は語る。 >「現実と遊離したものほど、堅実な技術に支えられてなければならない」のだ。 >フィクションがフィクションであるほど、それを支える幻想に首尾一貫性や、文章力、妄想の力というものがなかったら、 >それは破綻する可能性が大きくなります。 そういえば、「文学の輪郭」だったか、「蟹工船」と他のプロレタリア文学を区別して、 「蟹工船」はプロレタリア文学だから評価されるのではない。 文学として優れたものが、プロレタリア文学のジャンルで登場したのだ。だから、後世に残った。 そんなことを中島は書いていた。 書く力がないと伝わらない、まして自分の趣味の世界ならなおさらという立場は、中島の中で一貫している。 著者も、「文学の輪郭」について触れている。 >私にとって物語の価値はただひとつ、その「質」にあるのであって、 >その思想によっても、形式によっても、意図によっても区別はつけないつもりである。 この定義を石田は、「純文学と大衆文学とを分かつ社会的な価値付けへの異議申し立て」 ととらえる。 確かに、非純文学=エンターテインメント作家の栗本薫の視点に立てば、「質」の問題は純文学であるか否かというジャンルにはない。 そして、同じことを「JUNE小説」に求めることは、当然と言えば当然だ。 そして、こう結論づける。 >「耽美」は娯楽と美という糖衣でくるまれた新たな「教養」、いうなれば「エンターテインメント教養」の体系とし成立したのである。 ><女こども>が中心となってつくりあげてきた「耽美」とは、まさしく 70年代に起こった<教養>の新旧交代劇の核に他ならない。 >そして、「このエンターテインメント教養」は、80年代には次世代創作者を養成する母系として機能したのである。 とはいうものの、教養の新旧交代という感覚には違和感がある。 新旧というよりは、教養主義が崩壊し、大衆文化と等価なものとしてとらえる中で、 大衆文化の中のいろいろな場所で、教養主義の手法が用いた小さな権威化がなされたと考えたい。 「密やかな教育」ノート、もしくは長大なレス・19(2009.2.7) ・「JUNE」発「耽美」小説と映画批評 石原郁子の仕事
最後に、映画評論家であり、七紀というペンネームで小説道場に入門した石原郁子を紹介している。 20数ページの長さであることからみても、別に発表した文章を、この本の中に組み込んだのかもしれない。 まず一般的な「耽美」小説を改めて定義づける。 >女性が男性同士の性愛物語を支持するのは、 >男同士の関係が、 男女のそれ以上に緊張感をはらみ、ドラマティックであるからとされる。 >(生物的にも制度的にも正当でない)彼らの恋愛には個人の意思と愛のみが賭けられている。 >また、女性よりも社会とのコミットが深い分だけふたりの関係は複雑にもなる。 >ふたりの関係が「攻」と「受」の型からずれていくことも醍醐味の一つである。 >つまり、このドラマツルギーは、人間関係を性愛における役割分担「攻」と「受」にいったん還元してから、 >再構築してゆくダイナミズムにある。 ほうほう。そういうものなのですか。 ところが、石原郁子は、そんな中では異質であったらしい。 「キネマ旬報」の「読者の映画評」に投稿されたカサノヴァ評では、 「カサノヴァが女たちを通り過ぎたのではなく、女たちが彼を通り過ぎた」と言いつつ、石原自身の「受け身の男性への偏愛」を語る。 そして、そんな「偏愛の対象を文字でなぞり直し、自由に演出した」のが石原の「耽美」小説であった、と著者はいう。 しかし、「キャラへのつよい感情移入」に裏打ちされた内面描写は行われず、 むしろ、「「見る」ことに偏重する」観察者に徹するような姿勢に対して、 中島梓は批判的でありつつも「あなたは私の誇りだ」と評価し、その一方でスタイルの違いに「あまりにタイプが違いすぎる」と書いた。 そして、「日本語で執筆された唯一のアントニオーニのモノグラフ」である石原のアントニオーニ評では、 アントニオーニの映画の作り方を 「謙虚に、深い敬意を払って、彼は対象と向き合い、それを完璧な姿で写しとるための鏡になり切ろうとする。」としている。 細かいアントニオーニ作品にかかわる描写は省略するが、 要は、「石原が「耽美」小説で試みたことは、アントニオーニが映画において実現したことであった、といえないだろうか。」 ということである。 最終的に、石原は映画評論を書き続け、「耽美」小説を執筆することはやめた。 しかし、石原は、「耽美」小説でつちかったユニークな視点を映画評論に持ちこんだ。 木下恵介のモノグラフでは、作中の「弱く美しい男たちがまとう官能」を評価し、 「家父長主義・男性優位社会からしなやかに降りた元・男性」として木下恵介を評価する。 >誰もが知る映画監督のもうひとつの側面を鮮やかに照らし出し、従来の映画批評を異化する石原の視点は、 >彼女が80年代に公的な<制度>の外で積み重ねた研鑽の結果である。 >それ(石原が映画批評と「耽美」小説を執筆し続けた)は、他の誰のためでもない、自分のためだけに行った密やかな教育であった。 ここで、初めて「密やかな教育」という言葉が出てくる。 「密やかな」という言葉には「公的な<制度>の外で」という意味もあろうが、 いくぶんかは「耽美」小説という人前で語ることがはばかられるような場所で、という意味も含まれているようにみえる。 もちろん、映画評論という比較的「表の社会」で結果を出したからよしとするのではなく、 竹宮恵子や中島梓が、その本業の時間を割いて行ってきた努力が 後進の表現者を育てるという意味で、社会的には密やかに行われたものであるが、立派な教育であったということだ。 著者・石田美紀は、こう締めくくる。 >そして今、私たちは、彼女が遺した批評と小説のなかに、ひとりの女性が「何かできるはずだ」と筆をとった意志を読み、 >彼女の思考が目指すものを辿り、到達したところを知ることができる。 >この営みを文化と呼ばずして、何を文化と呼べばいいのだろうか。 このことを、石原郁子だけのものとして読んではならない。 日本中でたくさんの女性が「何かできるはずだ」と筆をとり、 何かを目指し、思考を巡らせたのである。 そうした場所(制度とまでは言わぬが)を作ったこと自体が「JUNE」の功績であり、 「JUNE」という場所でなされた「密やかな教育」なのである。 「密やかな教育」ノート、もしくは長大なレス・20(2009.2.8) ・おわらないおわりに
最後に5pほどのまとめというか、あとがきがある。 <女性がつくり楽しむ男性同士の性愛物語>の誕生の背景には、 ヘッセ、稲垣、三島、「血と薔薇」、ヴィスコンティ等の「古今東西の蓄積」をどん欲に取り入れた 「エンターテインメント教養」ともいうべき独自の体系があった。 それは、「旧い教養を換骨奪胎しながら、新しい教養が成立していく過程」でもあった。 そして、「男性身体へのエロティックな関心を積極的に肯定する点でそれまでの女性<文化>と一線を画し、」 その関心の奥底には、「「私にも何かできるはずだ」という信念」があった。 エクスキューズとして、フェミニズムと同人誌文化に触れてなかったことを言及しており、 フェミニズムについては、「<エンターテインメント教養>とフェミニズムとのいくつかの接点を暗示するだけにとどまっている」とし、 同人誌文化については、「やおい」という言葉を「らっぽり」が発明したことに言及し、いくつかの先人の論考があることを紹介している。 フェミニズムとの関係については、確かに時折もどかしく感じる部分もあったが、 丁寧に読み解いていくと、確かにフェミニズムとの「接点」は明らかにされている。 「<私にも何かできるはずだ>という信念」という考え方自体が 全共闘世代が社会に発信し続けたものであるし、 それを女性に広げたのはフェミニズムの功績なしには語れない。 いくつかの謝辞の後、最後に石田美紀は現在の<女性がつくり楽しむ男性同士の性愛物語>について、こう語る。 >成熟したあらゆるジャンルがそうであったように、いつかはジャンルの外、つまりは共同体の外と向き合う瞬間がくる。 >作品はすべての人に開かれ、読まれ、解釈される。そして、賛辞も、批判も含めて、思いもよらなかったものが生まれいずる。 >この終わりなき繰り返しが文化と呼ばれる営みだ、と私は考える。 この後、80pにわたって、竹宮恵子、増山法恵、佐川俊彦のインタビューがある。 中島梓もキーとなる人物であるが、中島が当時何を考えていたかについては、 インタビューするまでもなく、いろいろな場所で書いているため不必要だったのだろう。 |