・初出1984.6.1.NECO8号。不適切と思われる表現を改めつつ、冗長な部分を大幅に短くした。註はすべて、2000年現在のものである。
ひさうちみちおの真実(上)
あえて註の註をつけておくと、「ガロ」(2)は老舗の劇画誌で、その昔「カムイ伝」(白土三平)や「ねじ式」(つげ義春)を載せていたことで有名。実験的作品を優遇し、今でもそれなりに権威がある。「三流劇画誌」(3)とは、その名のとおり「エロであれば何でもいい」という、小部数ながら大量の種類のある雑誌群。そして、「何でもいい」ところから、一部の物好きの編集者が「エロ的」であればどんな作品でもとばかりに趣味的実験的作品をどんどん登場させ、新鮮な感覚をもった一部の同人誌系の作家とともにブーム的な人気をよんだのが「ニューウェーブ・ブーム」。(4)それらが、(結局、エロ劇画系でも同人誌系でもなかった大友克洋を除いて)ラブ・コメ路線に圧倒されたあと、SFやら美少女やら美少年やらを看板に、商業誌と一線を画した作品を載せている弱小雑誌群が、「マイナー系各誌」(5)なのである。つまり、「ひさうちみちお」とは、ソノスジではけっこう有名な、ケッタイなまんが家なのである。 今回は、このケッタイなまんが家について述べてみようと思う。なぜなら、このまんが家のケッタイぶりの中には、現在というもののさまざまな側面が存在しているからである。 (1) 当然、註の註の註が必要になる。「ひさうちみちお」が今どれくらい知られてい
るのか不明だが、まんがよりもイラスト付き雑文家や あやしいタレントとしての活動が多いようである。花紀京にも通じる孤高の変なオッサン的キャラクターは、関西ではかなり知られてい る。関西在住者は、現在、越前屋俵太とからみながら京都をぶらつく姿を2000年の3月まで毎週深夜にテレビで見ることが出来た。
一
冒頭に二行。
その横には「完全装備をした兵隊の姿」が描かれている。続いて、「半そでシャツを着て頭だけカバになっている男が二人で話をしている風なところに、警官らしい男が「ニッポンゴをしゃべっとるか?」と言っている図」。その横には、 カバの人達の国に侵略して古来の言葉をとりあげ日本語の使用を強制したり とあり、 ムリヤリ日本に連れて来たりだまして連れてきたりしてカバの人達をサクシュしたのだ に続いて、「鉄条網つきのカベのある工場に入っていく首をうなだれた「カバの人達」」が描かれている。(2) 言うまでもなく、ここでいうところの「カバの人達」は、コリアン(3)のことを指している。しかも、そうした表現は、明らかにコリアンを不当におとしめるようなものとしてある。 しかしながら、その表現だけをとらえて差別的な内容として単純に処理してしまうのは、少し待っていただきたい。その「差別的表現」は意図されたものであり、そうして「あえて用いられた表現」がどのような文脈からどのような意図でもってなされているかについて考察の余地があると考えるからである。実際、この作品はそうした「表現」あるいは「表現された言葉と表現した人間との関係」の問題を取り扱っているものなのである。 例えば、先の部分の「カバの人達」とあるところをコリアンに置き換えるならば、差別的であるどころか、まったくもって「正しい」表現になってしまう。つまり、コリアン差別に対する「正しい」表現は、「カバの人達」という表現がなされないことによってかろうじて成り立っているのである。少しユーモラスではあるけれど見る者に優越感を持たせてしまう「カバの人達」という表現は、「正しい」言葉の中に封じ込められた差別意識を目に見える形に表わしたものなのである。
ひさうちは、より具体的に話をすすめるために、こうした「正しい」表現を自分のものとしているはずの女子短大生A子さんを登場させる。(つまり、これまで引用してきた部分は、A子さんの独白だったのである。) 差別的な発言をする母親に「なんで ? なんでやのん ?」と怒り、「教育って恐ろしい」と述懐するような「正しい」教育を受けてきた人物である。(「HAYAKU 25NI NARITAI 19SAI」とバックに註がついている。)(4) 彼女の友達にB子さんがいる。B子さんの父はコリアンだが「全然差別なんか気にしてないし私達もフツーにつきあっている」(5)というのが、A子さんの弁である。ちなみに、B子さんには「BIJIN」と註がつけられ、実際に美人の人間の顔が描かれている。(このあたりの表現と意識の関係が微妙だ。) ある時A子さんは、もう一人の友達C子さんと、B子さんの家へ映画を見せてもらいに行く。B子さんのお父さんが映画にこっているのだ。彼女らをむかえたB子さんのお父さんは、「カバの顔」で登場する。心なしかハッとした表情の二人。 しばらくの世間話のあと、B子さんのお父さんが「ほな、そろそろやろか」と言う。やや憮然とするA子さん。言葉が生身にすぎるのだ。映画の方はつつがなく上映され、「ビールでも飲もか」という話になる。ところが、A子さんはものすごくお酒に弱い上、B子さんのお父さんの熱心に語る映画製作の話、とりわけ専門用語に圧倒され、一気にビールがまわってくる。そして、「もうそれくらいで やめときはったほうが ええのんとちゃう」とB子さんのお父さんがたしなめるのに、救いようのない差別的な発言をしてしまう。 この作品は、A子さんの一言で唐突に終わる。こうした発言が生まれたのは、A子さんの「正しい」表現とその意識の間にある気づかれなかったへだたりが、気づかれないまま増幅された結果である。このようなへだたりは、言葉の「正しさ」を見るだけでは気づくことが出来ない。しかし、その言葉がどれほど「正しく」とも、それによってへだたった意識が消えてなくなるような性質のものではないのである。 このように、ひさうちみちおは、差別意識という、おそらくは誰もが簡単には逃れられず、またそれゆえにこそ抑圧されがちな一つの意識を通して、<意識>とそれが形になったものであるはずの<表現>との間のへだたりを明らかにした。それは、直接には自らの差別意識に気づかないままに「正しい」発言をしていることに満足していることのあやうさを描いているが、同時にもう一つの重要な問題を提起している。それは、本当の意味での正しい<表現>とはどのようなものなのかという問題である。(6) (1) ひさうちみちお「ヒポポタマス」は16pの短編。「夢の贈物」(東京三世社・1983)所収だが、手元にあるのがいわゆる「軽装版」である せいか、初出の記載もない。記憶によれば「少年少女SFマンガ競作大全集」掲載のはずなので、1980年前後の作品のはず。
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