「阪急電車」という気分を再現しようとした映画
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映画「阪急電車 片道15分の奇跡」を見る(2011.5.15)
地元に住む者にとって、「阪急電車」という言葉は、それだけ
で、一つのステイタスを感じさせるところがある。
先行する阪神電車が、江戸時代から続く海に近い街道沿いの町を縫うようにして、
たくさんの駅とカーブのある路線で大阪と神戸を結んだのに対し、
後発の阪急電車は、郊外の農村を一直線の線路で結ぶと同時に、沿線の土地も大量に購入し、駅周辺には戸建て住宅を建設し、
拠点駅に、百貨店や劇場、歌劇団が併設された遊園地、プロ野球の球場などの娯楽施設を置き、自前の映画会社までも作った。
当時、まだ店に住居を構えていた商都・大阪の旦那衆
は、
やがて住宅と通勤手段と娯楽を提供してくれる阪急沿線に住むようになり、
港都・神戸に外国人宣教師が開いた学校は、総合大学として発展していくなかで、
阪急電車が最寄り駅となる六甲山系の丘陵地に移転していくこととなった。
とはいえ、そんなことは何十年も前の話で、代替わりを機会に一軒の家は5、6戸の建売り住宅に変わり、
沿線には、いかにもな良妻賢母型の女子大学も建っている。
しかし、阪急沿線というと、今でも、ゆったりとした一戸建てに住む裕福な人たちと
自由な校風の大学に通う学生が乗る電車というイメージが定着している。
そんなことを踏まえて映画を見ると、この「阪急電車」独特の気分のようなものを、
スタッフも役者も、なんとか再現しようと努めていることが見て取れた。
つまり、映画「阪急電車」は、ちゃんと「阪急電車」であろうとしたということだ。
まず感じるのは、宮本信子演ずる老婦人のリアリティだ。
名古屋育ちでネイティブな関西人ではないにもかかわらず、
抑えた調子で、中産階級の家に生まれた「娘さん」の気品を感じさせてくれた。
主婦の南果歩、大学生の戸田恵梨香、高校生の有村架純、子役の芦田愛菜と関西出身で固めた女優たちも、
きちんと阪急電車の乗客になってくれた。特に、谷村美月の初々しい存在感にも惹かれた。
逆に残念だったのは、翔子に「美しい標準語」を話す中谷美紀を配役したことだ。
翔子には他を圧するような美しさが求められるし、中谷はその期待に応えて、
結婚式に「討ち入り」に行った美しい会社員の役を見事に演じていた。
しかし、それは「物語を演ずる役者」としては十分だったが、
「阪急電車の乗客」ということでは、いささか違和感が残ったのだ。(代替案は難しいが、吹石一恵や黒谷友香ではどうだろうか。)
もう一つは、南果歩の「友人」のオバサンたちの描かれ方だ。
原作では、抽象的に「弾ける品のない笑い声」などと描かれるのみだが、
映画に登場するオバサンたちの品のなさは、やりすぎ感があった。
もっとも、「カバンを放り投げて席取りをする」人たちなら、これくらいはやりそうだ。
ならば、「カバンを放り投げて席取りをする」という原作の方が「やり過ぎて」いたのだろうか。
そのような小さな違和感は残ったものの、
駅構内の景色はもとより、冒頭の「カフェ フロインドリーブ」、回想シーンの夙川公園、関学の正門前など、
イメージが膨らむロケ地が登場するのは、それだけでも嬉しい。
ただし、これは地元に住む者だけの感想であって、
他の地方に住む人々が、どう受け取るかが気がかりではある。
映画そのものに対しても、地方の方には興味がないかもしれない。
いや、むしろそうであるべきなのかもしれないと思っているところすらある。
そもそも、阪急電車を知らない人が、阪急電車のことを描いた映画を本当のところでは理解できるはずがないと、
どこかで思っているところがあるからだ。(1)
関西テレビサイト内映画「阪急電車」ページ
阪急電鉄サイト内映画「阪急電車」特設サイト
阪急電鉄サイト内映画「阪急電車」特設サイト内「制作者たちのスペシャル対談」ページ
もともと「阪急電車」が主人公だった小説
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有川浩「阪急電車」を見る(2011.5.21)
小説については、映画と並行して読んだ。要は、小説を読み終
わらないうちに、映画を観たのだ。
映画のイメージが鮮明なままで小説を読んでいて感じるのは、今もなお阪急電車今津線沿線に住むだけあってか、
有川浩は、ずいぶん「阪急電車的なもの」にこだわっていることだ。(何が「阪急電車的なもの」なのかについては、上に書いた。)
いかにも阪急電車に乗っていそうな複数の登場人物が、駅ごとに乗り降りしながら微妙に交錯し、
それぞれの人生の小さな物語を進めていく。
それゆえ、登場人物の中に、物語全体をリードするような主人公はいない。
さらに言うならば、小説に描かれたのは、たまたま焦点を当てた数名の物語にすぎない。
小説で語られなくとも、乗客の一人一人にはそれぞれの物語があり、
むしろ、その物語たちが同時に進行している場所である阪急電車こそが、この物語の主人公と呼ぶべき立場にあるのだ。
だからこそ、この小説のタイトルは「阪急電車」という名であるのだろうし、
「阪急電車」というタイトルで呼ばれるのにふさわしいものとして、この小説はある。
映画では、視覚的な変化が求められることもあってか、阪急電車の外の部分で物語を膨らませていた。
小説は、その分、念入りに阪急電車の中の物語を描写しており、
回想部分を除いて、電車とホームと最小限の駅周辺の街しか登場していない。
映画のパンフレットの有川浩の言葉によれば、
映像としての面白さを優先する上で原作と違う形になっていくのも当然と思っていますので、
事前にお願いしたのは「タイトルは変えないでください」という一点だけでした。
とある。
裏を返せば、この作品は「阪急電車的なもの」を描くことがテーマなのだから、
「阪急電車的なもの」でなくなることは許さない、と言っているようなものだ。
蛇足ながら、あとがきに、「西宮北口」のことを「ニシキタ」と呼ぶ者と「キタグチ」と呼ぶ者の二派がある、とあった。
地元の人間として言わせていただくならば、「キタグチ」派は昔からの西宮の在住者が多く、
阪神電車やJRの「西宮駅」と区別する意味で、「北口の駅」と呼んでいる。
「ニシキタ」派は、主に学生や転勤族を含めて西宮の外からやってきた若い人たちで、
「キタグチ」ではどこの北口かわからないので、「西宮」の「北口」と二つの言葉をつなげている。
この差は習慣のものでいかんともしがたいが、おそらくは「ニシキタ」が優勢になる中で、
「キタグチ」と呼ぶものがいることをきちんと拾ってくれている有川浩の作家の目に感服した。
(1) 他の映画評の中に、同じ電車に乗り合わせただけで、あんなに会話をしたり、互いに交流するはことはありえない、とするものがあった。
やはり、阪急電車を知らない人には、そのように感じられるのだろう。むしろ、阪急電車なら、そんなことが起こっても不思議ではない。
地元の者には、そう感じられる。
Wikipedia「阪急電車(小説)」ページ
幻冬舎サイト内有川浩「阪急電車」ページ
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