空間を描写することで心情まで表現するマンガ家・萩尾望都によるSF小説

                                             ―――萩尾望都「音楽の在りて」を読む(2011.6.19)

私が10代のある時期、いくつかの少女まんが誌とともに、SF専門誌「奇想天外」を立ち読みしていた。
もちろん、萩尾望都が連載していたSF小説を読むためである。
なぜ立ち読みかと言われれば、こづかいに限界があることもあるが、
どうせすぐ単行本になるのだから単行本になった時に買えばいいと、たかをくくっていたこともある。

ところが、まんが作品についてはすぐに単行本になっていた萩尾望都だが、
 「奇想天外」に連載されたSF小説については、長く単行本化されることがなかった。
というより、版元の奇想天外社自体が倒産し、単行本化どころではなくなってしまった。
あれは、いったいどうなってしまったんだろうと待つこと30数年、
1977年から80年に「奇想天外」で書かれた萩尾望都のSF小説の数々が、ついに単行本化される日がやってきたのである。

当時の萩尾は「ポーの一族」「トーマの心臓」「11人いる!」を発表し、すでに少女まんが家のトップランナーであった。
しかも、ブラッドベリの作品を漫画化したり、光瀬龍原作の「百億の昼と千億の夜」を少年まんが誌で連載を始めるなど、
SFまんがの描き手としても十分に注目される存在であった。
「奇想天外」でSF小説を書くと聞いた時には、「あの萩尾望都が、ついに」という受け止められ方だった。

前半の11篇は、1本10数ページ程度の短編である。当時、全盛だった星新一をほうふつとさせる軽妙な作品が並ぶ。
宇宙開発の末に異星人と出会うというような設定には、いかにも古き良きSFというようで懐かしい。

そんなことを想いながら読み進めると、本編の物語とは別に丹念な情景描写が多い。
たとえば、特段の伏線というわけでもないにもかかわらず、次のように語られる場面がある。

  村の中に駅がある。去年まで電車が走っていたが、廃線になってしまった。  
  駅の窓にも戸にも板が打たれ、線路わきのバラの木には、まだあふれるほどのバラが咲いていた。
  妹はここの風景が好きで、月夜に花で飾った車を引いて、白いユニコーンがこのレールをやってくるのだと言った。
  いま、細い木々の葉はすべて枯れて色づいて、金色にちらちら輝いていた。 (p59 「クレバス」)

なんと、美しい描写だろうか。言葉が生きているので、ただ読んでいるだけでも心地よい。
その情景自体が作者が創作したものではなく、目の前にある本当の風景を丹念に写し取っているかのようにも感じられる。

きっと、「漫画家・萩尾望都が小説を書く」というのは、こういうことなのだ。
萩尾は小説を書くときであっても、人物の背後に綿密な背景を持った空間が見えていて、
そうした空間をきちんと描写することによって、登場人物の心情さえも表現してしまう。
それが、萩尾望都の小説なのだ。

漫画家ならば、人物を背景も含めて映像化出来るのは当然かもしれない。
しかし、美しい背景を描くことで人物を活かすこと強く意識し、それをきちんと描き切るという力は、やはり萩尾望都ならではのものだ。
つまり、漫画家として稀有な才能が、小説でも発揮されているのである。

後半は、中編「美しの神の伝え」である。

  湖の中央に神殿とその周辺に一五の居住地をつくり、これの往来に橋を渡した。
  そして、それぞれの住まいに、それぞれの身分の者たちを住まわせた。 (p177 「美しの神の伝え」)

そこに生活するミューたちは名前もなく、おとなしく従順で「教師」の教えを受けつつ、
「単一の個人として、独立性を持たない」(p179)まま、「ゆるやかな音楽のような日々を過ごした。」(p179)

まるで実験室のような空間を見て、まず思い出されるのは「マージナル」だ。
マージナルの世界では、男性ばかりが中世めいた生活をしていて、その中心にあるセンターが新しい子どもを支給する。
そして、実は、この世界自体が、とあるプロジェクトの一つである。

1985年にマージナルの連載が始まった時、まず既知感があった。ぼんやりとではあったが、「美しの神の伝え」を思い出していたのだ。
改めて、読み直してみると、マージナルでは設定がより綿密に練り上げられているが、
性の存在しない世界に性を生み出す可能性をはらむ巨大プロジェクトと、その決定的な破たんという物語の本質は変わっていない。
互いに感応する「マージナル」のキラたちも、「美しの神の伝え」のミューに通ずる。
「マージナル」連載当初から感じていた「美しの神の伝え」との相似を、今回、改めて、確認させてくれた。

などという話以上に、私が密かに狂喜したのは、「プロメテにて」に登場する宇宙船が「開発オバタマ号」だったことだ。
宇宙開発の話だから「開発」という名前がつくのはわからなくもない。
しかし、「開発オバタマ」といえば、愛称「オバタマ」で本名「開発」の、26歳で夭折した少女まんが家・花郁悠紀子以外にはいない。

彼女の夭折は1980年のことだが、この作品は1978年に発表されている。
単なる遊び心で花郁悠紀子にちなんだ名前をつけたのかもしれないが、
こうやって密かに埋め込まれた宝物が、30年ぶりで掘り起こされたことが
なんとも嬉しくもあり、やはり少し切ないのである。

 


       イーストプレス サイト内「音楽の在りて」ページ



    多忙な萩尾望都が無名のSF作家の挿絵を担当していた理由

                                               ―――萩尾望都「ピアリス」を読む(2017.8.19)

「ピアリス」のことを知ったのは、「萩尾望都SFアートワークス」展でのことだった。
「残酷な神が支配する」と「あぶない丘の家」を連載中で多忙なはずの1994年に、
木下司という「無名のSF作家」の雑誌連載の挿絵を萩尾望都が担当していた。
それだけで、十分に驚いていた。

しかし、今回、「SF作家の木下さん、実は私でした」と萩尾望都名義に改められ、
多忙なはずの1994年に実は小説まで書いていたと知って、さらに驚いた。
マンガをもう一本連載するよりは小説のほうが楽、ということだったらしい。

主人公は、戦争により故郷のアムルー星を追われたユーロとピアリスの双子の兄妹、
ユーロは、惑星ムゥーンの荒野に建つ修道院で生徒として暮らすこととなり、
ピアリスの方は、エトランジェン星で最下層にあたる島で養父母に育てられている。
二人は、アムルー星の宇宙空港で別れたきり、お互いの生死すら知らない。

4章に分かれた物語は、ユーロ篇とピアリス篇に分かれ、1章ごとに二人の周囲で大きく物語が展開する。
さて、これからどうなるのだろう。二人はいずれ再会するのだろうか、 というところで、唐突に物語は終わる。

続いて置かれた「巻末インタビュー」では、 上にも書いた萩尾がSF小説を発表するに至った事情を始めとして、
文章に自信がなかったのでペンネームを使用したこと、掲載誌が4号で廃刊したため連載も終了したこと、
20年以上も前のことなので続きを書く予定はないことなどが語られている。

とはいえ、残りのページが減っていくにつれて、この物語をこのページ数でどうまとめるのだろうと心配していたので、
未完成と知って、かえって納得したところもある。
また、そう思って読むからかもしれないが、まっすぐに相手に立ち向かい一気に進むような語り口には、
絵がないにもかかわらず「萩尾節」のようなものを感じさせる。
大団円はなかったかもしれないが、 萩尾作品を読み始めた時の疾走感やワクワク感は十分に感じられた。

そして、この本もまた、「図書の家」の編集協力による本だった。
最近、どうも「図書の家」の手の内で転がされている感かある。それだけ、欲しい本を出版し続けている、 ということでもあるのだろうけど。

ところで、ピアリス篇に登場する「乱暴でワガママだが純情な男子たち」に、
最近、気になっている萩尾望都の「炭鉱テーマ」を見出すのは、読み過ぎだろうか。


            河出書房新社サイト内「ピアリス」 ページ

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