あるアメリカ白人の個人的な物語
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「ボウリング フォー コロンバイン」を見る(2003.4.25)
アカデミー賞長編ドキュメンタリー部門受賞の話題の映画「ボウリング・フォー・コロンバイン」を見ました。
受賞式での「恥を知れブッシュ」スピーチ、銃規制がテーマという紹介、著書の「アホでマヌケなアメリカ白人」がベストセラーヒット中、
こうした世間に出回っている情報から考えると、「ボウリング・フォー・コロンバイン」が銃規制を声高に主張す
る政治的・社会的映画なのじゃないかと思われるかもしれません。
しかし、けっしてそのような勇ましさを感じる映画ではなく、
むしろ監督マイケル・ムーアが冷静に自分自身、そしてアメリカという国とは何かを探った
「個人的な物語」なのではないかと感じられたのでした。
映画は、奇妙な場面から始まります。
銀行で口座を開設するムーア。手続きを終えると、銀行の職員は銃のカタログを広げます。
この銀行では、口座開設のサービスとして銃がプレゼントされるのです。
しかも、その場で。簡単な手続きの後、ムーアは銃を片手に意気揚々と銀行から出てきます。
いくら銃社会といっても、銃を持った人物が銀行をうろついているというのは奇妙すぎます。
そんなわかりやすい違和感をムーアは映像という形で、私たちの前に示してくれます。
ムーアは、それがミシガン州だと言います。
ミシガン州フリント、自動車関連の工場が立ち並ぶ労働者の街にムーアは生まれました。
彼もまた子どもの頃から親から買い与えられた銃に親しみ、少年時代には射撃大会で優勝したこともあったと告白します。
そんなエピソードを聞いて「ムーアのどこがリベラル派ジャーナリストなんだ」という感覚は、
おそらく日本人による「非銃社会的な」偏見なのかもしれません。
むしろ、NRA(全米ライフル協会)が全米最大の圧力団体でありえるということは、
特別に狂信的な者だけが銃を保有しているわけでも、銃保有を支持しているわけではないということなのです。
ムーアは言います。
「それでも、こんな事件が起こるなんて、どこかが間違ってると思わないか。」
その日、早朝からボウリングに興じていたコロラド州デンバー近郊のコロンバイン高校の生徒
2人は、
校内で銃を乱射し13人の生徒・教師の命を奪って自殺しました。
この悲しすぎる事件に触発されたムーアは、(「アメリカがコソボで大規模な爆撃を行ったその日に」という注釈つけた上で、)
なぜアメリカでだけこれほど銃犯罪による死者数が多いのかという問題に取り組んでいきます。
使うのは、カメラとインタビューマイクだけ。
これは、彼の出世作といわれるドキュメンタリー映画「ロジャー&ミー」(1989年)でも使った手法だといいます。(1)
まず訪れたのは、訓練中のミシガン・ミリシア(民兵・国民軍・民間武装組織)の人々。(2)
職業をたずねると、ふだんは普通に街で生活をしている人たちです。
そろいの迷彩服を着ている割にのんびりした感じは、消防団の人たちが防災訓練をしているところに似ているようにも思います。
しかし、彼らが手にしているのは銃です。
そして、なぜ銃を持つかという問いに彼らは口をそろえて「憲法修正第2条」で認められた大切な権利だといいます。
「規律ある民兵は、自由な国家の安全にとって必要であるから、人民が武器を保有しまた携帯する権利は、これを侵してはならない。」(3)
そして、「他の誰が自分や家族を守ってくれるんだい、家族を守るために銃を持つことは当然じゃないか」と付け加えます。
その言葉からは、過剰な武装をしながら「権利」ばかりを主張する困った人たちとも、家族思いの頼もしい父親とも見えます。
しかし、そこで強く現れているのは「外敵」に対する強い恐怖心です。
背景には、警察や軍とりわけ連邦政府に対する不信感もあるようです。
そうした言葉を引き出すのに、ムーアはずいぶん自然体です。
太った体に野球帽をかぶったムーアの風貌で「なぜなんだい」と尋ねられると、皆つい本音で話してしまいます。
正義感をふりかざして集団で袋叩きをするような日本のマスコミを見慣れている身には、ずいぶん対話する技術の違いを感じさせます。
ムーアは、銃を持っている彼らの言葉を肯定も否定もせず、そのまま今のアメリカの現状を表わすものとして記録していきます。
インタビューは続きます。
現場にいたコロンバイン高校の生徒に、殺された生徒の家族に、
犯人が心酔していたがゆえに「その過激な歌詞が犯行に影響を与えた」とされたロックシンガー、マリリン・マンソンに。
マリリン・マンソンはきわめて冷静に言います。
「私のせいにしたければ、すればいい。だが、私があの犯人を産んだわけじゃない。
私もあの犯人もこの国が産んだんだ。この国は恐怖と消費をばかりを煽り立ててている。」
確かに、とムーアは言います。
「街には犯罪があふれていて、今日も強盗を行った粗暴な犯人が警察の力で捕らえられた」
というスタイルの警察ドキュメンタリーは、人気番組だ。(その何百倍・何万倍の金を奪った経済犯罪者はとりあげないのに。)(4)
郊外には、しっかりとしたセキュリティが売りの邸宅街が生まれている。
生活にゆとりのある者は都市を捨て、安心を買ったつもりで郊外で暮らしている。
それでも暴漢に襲われることのないように家に銃を置いて。
しかし、ロックシンガーだけが青少年に悪影響を及ぼすわけじゃない。
青少年に悪影響を与える様々な要素、例えば暴力的なビデオゲームの多くは日本製だ。
離婚率はイギリスの方が高い。失業率もカナダの方が高い。
血塗られた歴史と言っても、イギリス・フランスの植民地支配はどうだったか。
ドイツや日本も第二次大戦時には大量虐殺をしてきたではないか。
そして、そもそも狩猟の習慣のあるカナダの方がアメリカより銃の保有率が高いのだ!
しかも、(ミシガンから橋一本で渡ることのできる)カナダの人々は、なんと「玄関の鍵をかける習慣がない」というのです。
泥棒に入られたことはあるけど、だからといって、なぜ玄関に鍵をかけなくちゃならないの。そんな窮屈な生活はイヤだ。
それが、アメリカ以上に銃の保有率がありながら、銃による犯罪が非常に少ないカナダの人々の感覚なのです。
じゃあ、犯人は誰なのか?ムーアはいろいろな人々の言葉をつなぎ合わせてたくさんのヒントをくれました。
しかし、それだけでは、今一つ答えが見つからなかったところへ、ムーアはアメリカの歴史を短くまとめたアニメーションを挿入します。
イギリスから「追い立てられた」清教徒がアメリカへ渡った。
友好的だったネイティブアメリカンを銃で追いたて植民地を建設した。
イギリスを銃で排除して独立を勝ち取った。無賃の労働者である黒人奴隷を使って国力は高まった。
南北戦争で奴隷解放がされると、報復を恐れた者がKKKを組織した。
KKKが非合法化された年にNRAが組織された。
いつも銃の力で自分を守ってきたから、いつも銃が手放せない。
どんなにたくさんの銃を 手にしていても、実は不安がいっぱい。それがアメリカ白人。それがアメリカという国。(5)
それは、「悪いのは銃ではなくて人なのだ」というNRAのスローガンを逆の意味で証明したようなアニメでした。
では、その「人」とはどんな人なのでしょうか。最後にムーアは、NRA会長チャールトン・ヘストンの自宅を訪れます。(6)
人気ジャーナリストであり、「NRA終身会員」でもあるムーアは快く迎えられます。
ムーアは、映画の中で何度も繰り返した問いをチャールトン・ヘストンに投げかけます。
なぜ銃を持つのか。なぜアメリカでだけ銃犯罪は多いのか。血塗られた歴史はアメリカだけではないし、
青少年に悪影響を及ぼす社会的条件がそろっているわけでもないのに。銃の所持率はカナダのほうが高いのに。
そして、チャールトン・ヘストンはついに言ってしまいます。
「アメリカには移民が多いからね。」そして、しまったと思ったのか、
さらにインタビューを続けようとするムーアをほったらかしにして、自宅の奥へ入ってしまいます。
エンドロールでは、映画の中盤でアメリカ軍による虐殺シーンで使われていた
ルイ・アームストロンクの名曲「What a wonderful world」(なんという皮肉だ)がパンク調になって再度流されます。
そして、スタッフの名前が出きった一番最後に、「special thanks」としてムーアの両親らしき名前がありました。
その時、この映画がムーアの「個人的な映画」であることに気づきました。
けっして、この映画は、広く世界の人々に向けてアメリカの銃社会の非道を明らかにしたり、
責めたてようなどという意図は見えませんでした。
むしろ、そこにあるのは困った状態になっているアメリカや故郷の町フリントに対する強い愛情です。
愛するアメリカが良くない状態だからこそ、ムーアはいろいろな人に向けて「なぜなんだい」と問い続けるのです。
そして、そんなムーアの視線を支えているのは、銃社会であるアメリカを受け継ぎ、
また子どもであるムーアに受け継がせた彼の両親、そしてそれをさらに受け継いだムーア自身が、
なぜあたりまえに銃を持ち、それに何の疑問を持たなかったかという問題を理解したい、というムーアの個人的な問題なのです。
それは、「ボウリング・フォー・コロンバイン」がドキュメンタリーとして不完全であるというのではありません。
この問題をこれからどうするかというのは、見た側が各自で考えねばならないことでしょう。
迷い悩む等身大のムーアが見えたことで、(意図は見え見えであるものの、
それでもなお)扇動的にならない作品に仕上げることに成功したようにも思います。
そして、それは、「今この場所で自分の目の前にいる者との対話を通しながら真実を探る」という
ムーアの取材スタイルとも重なっているのでした。
(1)アメリカの自動車大手GMの城下町だった故郷フリントが突然の工場閉鎖で寂れて行くことに憤ったムーアが、GM会長である「ロジャー」を
カメラ一つで追い掛け回した作品らしい。
(2)ミリシアの訳はいろいろあって、「国民軍」と「民間武装組織」とではずいぶん印象が違う。ネットで検索すると、全米のミリシアは約10万人。
ミシガン・ミリシアは、その最大のもので1万2千人の動員力を誇るらしい。戦争ごっこマニアとさほど変わらないという説もあるが、この組織が
一躍注目をあびたのはオクラホマの連邦ビル爆破事件の犯人がミシガン・ミリシアの一員だったためだ。この犯罪が組織なものではないにしても、
伝統的なアメリカ社会を覆すような「間違った行動」をおこす連邦政府に懐疑的で、自らの手で自らの生活習慣を武装してでも守らねばならない
という思想は、「連邦ビル爆破」という行動に通じるものがある。ちなみに、彼らにとっての「間違った行動」の一つは有色人種・女性・障害者などの
社会的弱者に配慮するさまざまな福祉政策で、結果として現実に 「ワリをくった」経済的に中・下層の白人男性がミリシアに多く参加しているらしい。
(3)憲法修正条項の前半は、連邦政府の行き過ぎを規制し各州の独立を図ったものとされている。これまでも、この「修正第2条」は議論の的であった
らしい。
(4)この場面で、ムーアは、「高級大型車から引きずりだされ、スーツ姿のまま後ろ手に道路に倒された経済事件の犯人らしい白人を屈強な警官数名が
袋叩きにする」という人気番組のよくある光景らしきものを再現している。このあたりが、この映画が「喜劇」であるところだ。
(5)このアニメーションを製作したのが、「サウスパーク」で知られる(らしい)マット・ストーン。実は、彼もまたコロンバイン高校の卒業生であり、犯人
の
こともよく知っている証言者の一人だ。
(6)この映画の日本公開から間もない2003年4月、チャールトン・ヘストンは全米ライフル協会会長を辞任した。前年に告白していたアルツハイマー病が
理由かもしれないが、この映画も影響なしとは言えまい。だとすれば、映画で描かれたコロンバイン高校卒業生の快挙に継ぐ具体的な「成果」と言える。
ところで、アルツハイマー病の人間に失言させて手柄だと言い張るのは卑怯という主張もネット上にあったが、チャールトン・ヘストンの「発病告白」は、
この映画がカンヌでの受賞の後でのことだ。ひょっとすると、「発病告白」すらも映画の影響なのかもしれない。いずれにしても、この映画でのチャールト
ン
・ヘストンは損な役回りである。
ムーアは奥崎謙三になりたかったのか
―――「華氏911」を見る(2004.8.31)
とてもわかりやすい映画でした。
「9.11」(1)を出発
点に、根拠のないままに始めたイラク戦争とどさくさで成立させた「愛国者法」の誤りを訴え、
ブッシュ一派(あるいは一家)のサウジアラビア(2)と
の密接な関係
(ビン・ラディン一族とは家族ぐるみのつきあいだ)を暴き、
この不幸な戦争によって命を失っているのがイラクという貧しいの国の人々と
アメリカという国の中のの貧しい人々であることを明らかにし、
石油資本を始めとする大企業は全くそんなことにおかまいなしに戦争を自分たちの商売の糧としてしかとらえておらず、
その中心にいるのがブッシュ一派(と一家)だというものです。
それらは、初めて聞いた衝撃の真実というよりは、どこかで聞いたことがあるような話を丹念にまとめたという感じです。
そもそも、日本ではイラク戦争への派兵の是非を問う際に、
そのあたりのイラク戦争にまつわる胡散臭い話は一通りされてたようだし、
もとより「アメリカの正義」などというものを深く信仰するような立場でもありません。
そんなわけで、さほど驚いたりがっかりしたということはなく、
「どうせ、そんなことだろう」というような醒めた見方をしてしまいました。
ムーア流の直撃インタビューの場面が少ないのも、痛快さに欠けるゆえんです。
前作の「Kマート」や「チャールトン・ヘストン」のような「快挙」はなく、
ムーアは議会周辺で「愛国者法」の条文を読んだり、議員(の子どもたち向け)に軍隊の入隊パンフレットを配ってみても、
それで新事実が飛び出してくるわけでもありません。
単にイヤな顔をして受け取る議員の姿を映すだけでは、ひと昔前の日本の芸能レポーターとさほど変わりません。
とは言うものの、ムーアもちゃんと仕事をしています。
「9.11」という事件を飛行機やビルを使わずに表現したところには、やはり映像の使い方の上手さを感じさせます。
また、その瞬間にブッシュが小学校で絵本を読み続けていた映像は、ムーアが学校に問い合わせて発掘したものです。
戦意を高揚させる偏向したニュース番組の映像と重なり合うように流されていた
(おそらく公式のニュース番組では映らなかったであろう)イラクでの生々しい戦場の映像は、
ムーアが送り込んだフリーのカメラマンが撮ってきたものです。
ところが、アメリカ国内でどのような映像が流されていたのかを知らない日本人(というか、少なくとも私)には、
そうしたお宝映像と単なるニュース映像の区別がつかないので、
ムーアという変な人がすでにみんなが知っているテレビの映像を見ながら、
一人で何やかやと突っ込んでいるだけのようにも見えてしまったのです。
そんな意味でも、日本よりもアメリカ国内の方が、この映画が映し出したものに対する衝撃があったかもしれません。
小気味よく流れるロックの歌詞にも、いろんな意味(というか皮肉)がこめられているのでしょうが、
それも私にはわかりません。(アメリカ人には、笑える映画でもあるらしい。)
しかし、そんな中からも見えてくるものがあります。
前作と同様の故郷フリントへのこだわりは、ムーアが「愛国者法」とは違う意味で強く故郷を愛し、
アメリカという国を愛していることを感じさせます。
時に「極左」とまで言われるムーアの抗議のエネルギーを支えるのが「愛国心」であるあたりが、
奇妙であるような半面納得できるような感じがします。
ところで、ムーアが独特のドキュメンタリースタイルの手本としたのが
「ゆきゆきて、神軍」(3)の原一男なのだという話を最近
聞きました。
それで非常に納得したというか、ひょっとするとムーアは、自分が奥崎謙三になりたかったんじゃないか。
そんな自分自身を自分で映画にしたかったんじゃないか、だが奥崎謙三自身が奥崎謙三を撮るというのはどうなんだろう。
などということを考えながら、映画館をあとにしたのでした。
(1) いうまでもなく「9.11」とは、2001年
9月11日ハイジャックされた飛行機がニューヨークの世界貿易センタービル・国防総省に激突した自爆テロ事件である。
犯人は、オサマ・ビンラディン率いる国際武装勢力アルカイダとされている。「華氏911」というタイトルは、ブラッドベリのSF小説「華氏451」に
よるもの。
(2) 冒頭、必要以上にサウジアラビアを攻撃していることが気になった。さっそく、一部で「華氏911」は「ユダヤ隠し」をしているという評
価が出ているらしい。
確かに、宗教戦争の側面も持つイラク戦争にユダヤ系の勢力が何らかの影響を及ぼしていても不思議ではないが、〔華氏911」では全くふれられていな
い。
なお、最も過激な説は、「ネオコンに影響力のあるユダヤが、日和見気味のブッシュを見限って、ネオコンごとユダヤ系のケリーに乗り換えた。
「華氏911」はその
意向の元で制作された。」というものだ。ここまで行くと、噂なのか真実なのかというより、トンデモに近づいてきてい
るようでもある。
(3) 「神軍平等兵」を名乗る奥崎謙三を追ったドキュメンタリー映画(1987年)。ニューギニア従軍経験を持つ奥崎は、昭和天皇の戦争責任を追及し、
天皇
に向けて
パチンコを発射するなど特異な行動でそのスジには知られた人物である。監督の原は、殺人までやりかねない奥崎をなだめつつフィルムをまわすうちに、
凄
惨な戦地で奥崎らの隊で起こったある事件が明らかになる。原は、他にも「全身小説
家」(1994年)で作家・井上光晴をとりあげるなど、日本を代表するー
ド
キュメンタリ映画監督である。
Wikipedia内「華氏911」ページ
原一男・疾走プロダクションサイト