「現実」と「幻想」の出会いと別れというファンタジーの王道
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映画「借り暮らしのアリエッティ」を見る(2010.8.23)
主役の少女が志田未来。相手役にあたる人間の少年が神木隆之介。
少女の両親が、三浦友和と大竹しのぶ。屋敷の主である少年の大伯母に竹下景子、その使用人に樹木希林。
少女の同族の少年に藤原竜也。
なんという、豪華キャストなんだ。脇で登場しても、さっと場の空気を作ってし
まうすごい人たちが集まっている。
アニメで感動した直後なのに、このメンバーで実写で見たい、あるいは、設定の困難さを理解した上でも、舞台で見たい。(1)
そんな場違いな感慨に浸ってしまうような豪華なメンバーである。
物語は、萩尾望都の初期作品が好きな人なら、絶対に好きになるに違いないファンタジーの王道である。
違う世界に暮らす二人は、人生の中の特に感受性が強い少年・少女期のほんの一瞬だけ交錯し、
絶対に一生忘れないような強い思いをお互いに残したまま、もう一度、それぞれの世界に帰っていく。
(映画「転校生」のラストシーンにも通ずるようにも思える。)
しかも、そんな思いが、実は、少年が顔も知らないような少年の曾祖父と同じものであったりするのだ。
少年の静養する部屋に曾祖父が残した思いは、オズワルド・O・エヴァンスの遺書にも通ずる。
人は何もしてやれないことがわかった上で、それでも何かをしてやりたい、
あるいはその可能性に賭けてみたい、と強く思うことがある。
そんな少年の思いを強く肯定する一方で、「見えていた」ものを「見ていなかっ
た」ことにしてしまうことが、
「大人になる」ことなのだとも諭すようでもある。などという感想は、いささかくたびれた大人のものなのか。
しかし、現実の世界に地に足をつけるのも、「大人のたしなみ」というようにも思う。
最初に気付いたことは、「狩りに出掛ける」だと思っていたら、実は「借りに出掛ける」だったという小さな違和感だった。
そして、我々ニンゲンと借り暮らしの人たちの世界の見え方のズレを、少しずつ意識させてくれることとなる。
借り暮らしの人々から見たニンゲンの世界の大きさや、ニンゲンが発する響きや振動の強さ。
ニンゲンの世界の物を「借り」た器用な暮らしぶりの見事さ、
そ
んな違う世界観の人がもの凄く近い場所だが、違う場所で生きている。
本当にはわかりあえないことはわかっている。そんなことを全部わかった上で、それぞれの暮らしを大切にしたい。
そんな思いを、うまく形にしてくれた。
ひょっとすると、ジブリ映画で一番好きな作品になるかもしれない。
ジブリ第二世代の米林宏昌監督が、ファンが望んでいる純粋にジブリ的なものを、
自分の作品として描いてくれたのではないのかとさえ思う。
ぜひ、「次」を期待したい。
(1)
実際のところ、この設定を舞台化することよりも、舞台のスケジュールでキャスティングすることの方が、ずっと困難なのかもしれない。
イギリス階級社会を背景にしたお金持ちの物語だった原作
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小説「床下の小人たち」を「借り暮らしのアリエッティ」目線で読む(2010.9.12)
「借り暮らしのアリエッティ」を見た勢いで、その原作とされる「床下の小人たち」を
読んだ。
一言でいえば、宮崎駿の映画脚本とは全然違った。
実際のところ、ポッド、ホミリー、アリエッティという「借り暮らし」の家族がいたことと、
アリエッティの一家が人に見つかったために、住みなれた屋敷を離れたこと、という骨格以外は、
ほとんど全て宮崎の創作なのだった。
まず、原作は1952年にイギリスで描かれた作品なのだが、
年老いたおばさんが子どものころに、弟から聞いた話として描かれる。
つまり、原作は20世紀になるかならないかのころのイギリスが舞台なのである。
(言わずもがなだが、映画は現代日本の小金井近辺が舞台に置き換えられている。)
時代背景もあって、屋敷には男女二人の使用人がいる(映画は女性一人のみ)。
女主人のもとに男の子がやってくるのだが、男の子は入院などせず、
しばらく屋敷に滞在したのち、家族のいるインドに帰っていく。
しかも、ラストの男の子とアリエッティとの切ない別れのシーンはない。
そもそも、男の子は9歳で、ほのかな恋心を感じるは幼すぎる。
そして、アリエッティの男の子への思いを引き継いでいくはずの、外で生活する「借り暮らし」の少年も登場しない。
「人形の家」も特別な思いが載せられたものではなく、
イギリスのお金持ちの家に当たり前のようにあるおもちゃの一つとして存在している。
というわけで、映画「借り暮らしのアリエッティ」の「泣き」のツボは、ことご
とく原作の中には存在していなかった。
逆に、原作から読んだ人に言わせれば、いろんな設定が映画版では改変され、
原作の大切なエピソードは削られ、ありもしないエピソードがつけ加わっている、ということになるのかもしれない。
また、アリエッティの家の内装やや家具類の「借り暮らし」ぶりの描写も事細か
に表現してくれているのだが、
100年前のイギリスの生活ということもあって(あるいは、訳が50年前のものであることもあって)いささかまどろっこしく、
想像力の欠如と言われるかもしれないが、今一つピンとこなかったのだった。
やはり映画は、人間とアリエッティたちとの大きさの違いや彼らが小さなものを大きく使う生活ぶりを、一目で納得させてくれる。
逆に、小説であれば表現しないで済ませるようなことを、映画では全部描かなきゃならないという苦労があることにも思い至った。
ただ、唯一、映画版で納得できなかった「使用人の過剰な敵意」は、原作を読ん
で、ようやく謎が解けた。
どんな小さなものでも、どんな少しのものでも、お屋敷から物がなくなると最初に疑われるのは使用人なのであり、
自らの潔白を証明するためには自分たち以外の何者かがこの屋敷に生活しており、
彼らが屋敷内のいろんな物を「借り」、いや「奪っている」ことを示さねばならなかったのだ。
舞台もイギリスなので、階級社会をにおわせる表現も多く、
妙にもったいぶった言い回しが多いのも、イギリス的というべきなのか。
そして、「借り暮らし」という素敵な言葉を発明してくれた訳者なのだが、
「The Borowers」(借りる人)という原題を「床下の小人たち」としたのは、少々ワクワク感に欠けるなあと思ったのだった。
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