陰鬱な田園風景画家がアクションペインティングの旗手になるまで ――――「生誕100年ジャクソン・ポロック展」を見る(2012.3.31)(中山道旅行のプレイベントとして)東京で「生誕 100年ジャクソン・ポロック展」を見ました。ジャクソン・ポロックは、1912年アメリカ西部のワイオミング州に生まれます。 ロサンゼルスの工芸高校を経て、ニューヨークに出て絵画の専門学校に進んだポロックは、 当初、「地方主義」と呼ばれる陰鬱な田園風景などを描いており、 暗い中にも光が陰影を織りなす、ごく普通の西洋絵画を描いていました。 ロサンゼルス時代からのネイティブ・アメリカン芸術やメキシコ壁画運動の影響に加え、 当時の最先端であったキュビズムの流行などもあって、やがてポロックはしっかりとした輪郭線を描くようになっていきます。 しかも、それだけではありません。 ポロックの輪郭線で区切られた内側の面の描き方も独特で、 面の持っている明暗は陰影のグラデーションではなく、 明暗が異なる何色もの線を塗り重ねることで描かれていました 特に異色に見えたのは色ガラスによるモザイク作品で、 輪郭線をなす黒色のタイルの内側は同じ色や近い色のタイルによって面が構成するのではなく、 様々な色をわざと衝突させているかのように、細長いタイルを乱雑に並べていました。 どうやら、このころからポロックは、線の魅力や線の持っている力に目覚めたようなのでした。 1942年、ポロックはドリッピングやポーリングという技法による作品を発表します。 空中から絵具を滴らせ(ドリッピング)、線を描く(ポーリング)というポロックの代名詞とも言える技法ですが、 当初は画面の一部に申し訳なさそうに描かれるのみでした。 しかも、そんな技法が用いられたのは、やはり絵画のなかで何かが足りないような、 あるいは、のっぺりと塗られていた面にアクセントを加えるかように、何色もの絵具のしたたりが付け加えられていました。 それが、もともとポーリングをするために用意されていた空間なのか、 たまたま間延びした空間を埋めるために、ポーリングが付け加えられたのかわかりません。 しかし、出来上がった作品を見る限り、ポーリングがなければ何か足りない空間だったし、 ポーリングが加わることによって、躍動感のあるいきいきとした空間になっているように見えました。 やがて、ポロックは意図的にポーリングを使用するようになります。 何かが描かれた上にポーリングがなされるのではなく、 ポーリングをより効果的にするために、 いくつかの色で塗られた下地が準備されるようになりました。 そして、それは、画面の中に上下左右や中心と周辺という概念のない 「オールオーヴァー」絵画へと発展します。 1947年ごろのことです。 このころになって、ようやく私たちが知っているジャクソン・ポロックが登場するのです。 ポロックの「オールオーヴァーなポーリング作品」だけを見て、 ましてや「アクション・ペインティングの代表作家」という評判や看板だけでは、 「絵具をたらして巨大な作品を制作する」という過程ばかりを気にかけがちになります。 しかし、ポロックの変化の過程をたどるならば、 ポロックは、突然、ポーリングという技法に目覚めた現代美術の人なのではなく、 ネイティブアメリカン美術を含むアメリカ伝統絵画の影響下で線の魅力を発見し、 それを育み、また増幅し、かつ純化させてきた結果として、「オールオーヴァーなポーリング作品」に結実しているのです。 1956年、ポロックは自動車事故で44年の生涯を閉じます。 しかしながら、名声と栄光の中での突然の事故死というわけではなさそうです。 1950年ごろから、突然、作品の方向が変わります。 飽きたのか、行き詰まったのか、さらに進もうとしたのか、心のうちは分かりません。 しかし、緊張感のある細い線で埋め尽くされていたはずの画面が平気で塗り残されていたり、 すでに細い線が描かれているにもかかわらず、それを塗りこめるような太い線が登場したり、 なぜか画面を人型のように切り裂いてみたり、具象的な作品を志向したりと、 創造への糸口というよりも、過去の作品の否定としか見えない作品が続きます。 (以前に見た、田中敦子の回顧展のことを思い出しました。) ポロックは、作家として不遇だった若いころからアルコール依存症に苦しみ、長くユング派の精神分析を受けていたと言います。 その治療の過程から、ポーリングによる作品が生まれたという側面もあるようですが、 思わぬ成功が、不遇時代とは別の意味で、自己否定的な想いへの引き金を引いたのでしょう。 正史は「自動車事故死」としか書きませんが、 アルコール依存が再発したあげく、 愛人・友人らとともに、自ら飲酒運転する自動車による激突死というのでは、 強い破滅願望にとらわれながらも、自分一人では死ぬこともできず、やっと事故という形で死なせてもらったとしか見えません。 ポロックが、1947年から50年というほんの数年間で現代美術史に名を残すような活躍をしていたことも十分に驚きでありましたが、 一方で、そんな短い期間で、これほまでに大きな仕事をしてしまったことが、 ポロック本人を大きく苦しめることとなったこともうかがわます。 最初、ポロックは、アメリカ西部のありのままの景色を陰鬱に描いていた人でした。 現代美術史に名を残すこととなった線の作品も、 ネイティブアメリカンの作品やメキシコ壁画運動といった庶民の暮らしに近い場所から生み出されたものでした。 ポロックは、自分が作品を生み出す源泉となったものと、ずいぶん異なる質の賞賛を受けて戸惑ったのではないでしょうか。 少し哀しい展覧会でありました。
東京国立近代美術館サイト内「生誕100年 ジャクソン・ポロック展」ページ |