超えられるものなら超えてみろ、という絶望的な挑発――― 上野千鶴子「女ぎらい ニッポンのミソジニー」を読む(2011.2.11)「おひとりさまの老後」がヒットしたことで女性から高齢者に関心がシフトしたかに見えた上野千鶴子の新作は、 真正面から女性の問題を取り上げているものだった。 「ミソジニー」とは聞きなれない言葉だが「三十路」とは全く関係なく、要は「女性嫌悪」や「女ぎらい」と訳される一般名詞であるらしい。 その背景にあるのは、地位と富と栄誉を独占する男性の間の「男性同士の絆」(ホモ・ソーシャル)という強い連帯感であり、 父のように「なりたい願望」と(父のように)女を「持ちたい願望」を持った「性的主体」として互いに認め合うものだけがメンバーとなりうる。 それゆえ、女性は「性的客体」の側として、あらかじめメンバーから排除されており、 男性同性愛者もまたメンバーとなる資格を持たないものとして「放逐」(ホモ・フォビア)される。 そして、女性の側には男性のミソジニーを受け入れて「性的客体」となることが求められ、 その結果、男性のミソジニーを内面化した女性は、「女性である自分」を嫌うことで自己嫌悪に陥る。 主として、イヴ・セジウィックの分析から出発する「ミソジニー」の理論を使って、 上野千鶴子は、世にあまたある女と男の問題、言説などを片っ端からとりあげる。 そして、この一見、単純すぎる理論が、なかなか破綻しないのである。 あらゆる場面で通用してしまう理論は、かえって何も主張していないとしたものだが、 モテナイ男の愚痴も、一流企業OLが売春婦として殺された事件も、児童性虐待者の心の闇も、皇室の男系男子継承も、春画の男根幻想も、 母から娘にミソジニーが受け継がれる近代の家族制度も、ミソジニーなきアジールとしての女子校文化も、すべてミソジニーで説明されてしまう。 率直な感想を言えば、ずいぶんとあけすけな物言いの本、というところか。 心の根源的なところを取り扱っているとはいえ、こんなにまで「冷静に/冷酷に」切り開いて見せて、 反論や例外が存在するというような主張も含めて、その根源にミソジニーが存在していると言われてしまえば、なんとも救いがない。 もちろん、社会学者の本分は分析することであり、「救い」を示す義務はない。 最終章に「ミソジニーは超えられるか」と置かれているが、結論は「超えられるものなら、超えてみろ」に近い。 ひょっとすると、上野は絶望してしまったのかもしれない。 女性を、そして、男性をも取り巻く大きな高い壁があっても、その矛盾を告発しつつ平明に解説し、多くの人に訴え続ければ、 少しずつだが壁は崩れ、より良き社会に近づくにちがいないというような、そんな希望は、この本からは読み取りにくい。 むしろ、長年、一身をかけた戦いを、ほとんど単身で続けることで、さんざんヘトヘト、ボロボロになってしまい、 残念ながら、ここには、どうにも「越えられない壁」が存在していると絶望してしまったようにも見てとれるのだ。 もし、この本を読んで読者がつらくなったとすれば、 それは、すべてのフェミニストが、そしてすべての女性が悲鳴をあげながら日々送ってきたつらさの一端を垣間見た、ということなのだろう。 当初、この本は「入門書」のつもりなのかと思っていた。 世の中のさまざまな事象を軽快なフットワークでとりあげ、いささか乱暴ではあるものの鮮やかに切り取って見せたからだ。 しかし、その傷口の鈍く重い痛みを思うと、どうやら上野千鶴子の遺言であると理解した方が良いように思えてきた。 日々、つらい思いをしている女性に対しては、その構造を示すことで寄り添いつつも、 フェミニストを志す人には、格闘すべき対象の大きさを示すことで、覚悟せよと指し示しているのだ。 聞けば、今年度で上野千鶴子は、東大を退官するらしい。 これから、私たちは「上野後」の世界を生きなければならないということなのだ。 朝日新聞出版サイト内「女ぎらい」ページ WAN上野千鶴子web研究室 来るなら来い、というタフで恋愛も快楽も上等な女たち――― 上野千鶴子・湯山玲子「快楽上等!3.11以降を生きる」を読む(2013.3.10)全共闘世代にして、日本のフェミニズムを代表する巨人・上野千鶴子と、 社会に出た全共闘世代から強い影響を受けた世代で、「女ひとり寿司」で売り出したライターにして編集者・湯山玲子の対談集である。 湯山玲子の言葉には、この本で初めて接したのだが、何とも激しい人だった。 小学生でヒトカドの左翼となり、中学生でいったん挫折し、 高校生にして「体制側の論理を体現しないとメインを張れない」と悟り「ブル転」したという。 しかも、「ブル転」して「女装」することで男からもモテるようになり、 大学で腰の座っていない左翼かぶれの学生を黙らせるために、ブランドバッグを手に資本主義万歳な女風を吹かせていたというほどだ。 主戦場も戦い方も戦う相手も違っていたものの、 上野も、湯山も、自分が自由に発言できる場所を確保するために、男社会の中で戦い続けてきた。 そんな潜在的な同志ともいえるようなつながりを感じていたせいか、対談からは二人の意気投合ぶりが見て取れる。 そんな筋金入りの論客の対談が、なぜ「快楽上等」というタイトルになるのかと思ったが、 読み進めるにつれて、話題が「恋愛」の話になり、「快楽」にまでシフトしていった。 男社会に対して異議申し立てをしていることから、フェミニズムは「男性」という存在自体を忌避し、攻撃していると誤解されがちだ。 しかし、上野も湯山も、男が好きで、セックスが好きで、快楽も大好きなようだ。対談では、「予測誤差」という含蓄のある言葉も登場した。 湯山は、あとがきで自分が発見したフェミニズム観について、こう書いている。 「フェミニズムは、そんな、女が内面化しているロマンチックな欲望をも 肯定して全然オッケーな、思ったよりもタフな思想なのだ。」 そして、この言葉をアケスケに要約すれば、「快楽上等」になるのだろう。 むろん、それはフェミニズムという思想よりも、上野千鶴子や湯山玲子本人たちのタフさを端的に表している言葉でもある。 「来るなら、来い。そのかわり覚悟しておけ。」 そんなことを平気で言ってのけるだけの場数を踏んだ、大人の女性の対談なのである。 |