演劇的空間と映画的リアリティ
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「12人の優しい日本人」をテレビで見る(2000.1.2)
お正月の深夜にNHKでやっていた「12人の優しい日本人」を再見しました。
脚本は、今や大家の三谷幸喜です。
ただし、クレジットは「三谷幸喜と東京サンシャインボーイズ」となっていて、
三谷個人ではなく、あくまで劇団員との共同作業でできた脚本であるという姿勢が表れています。
公開当時も少し話題になったのですが、「12人の怒れる男」の日本版を作ったという翻案の方が主で、
まぁ、そんな企画をした劇団の作品を映画化したんですよ、という感じでした。
(個人的に当時の「東京サンシャインボーイズ」を知らなかったため、過小評価をしている可能性は大いにあります。)
さて、ストーリーですが、日本に「陪審員制度」があるということを前提に、
とある殺人事件をめぐって12人の陪審員が有罪か無罪かで揺れ動きながら、評決に至るまでを描いています。
なにせ「陪審員制度が日本にあったとしたら」という脚本ですから、
理由がないとだめなんですかという人、何も言わなくてもかまわないと聞いてきたから何も言わないという人、
意見を言ってるつもりで事実関係だけを一所懸命言う人(客に設定を教えてるということでしょうが)、
意味もなく仕切る人、仕事が気になってとにかく早く終わらせたいという人、
かつて出した有罪評決が死刑になったことを気に病んで無罪から動かない人、
あんな男は殺されて当然だし犯人の若い女はかわいそうな身の上だから殺してたって無罪と言う人、
とにかく「正義」や「議論」というアメリカ的な発想とは無縁な「日本的」な世界が展開されます。
全員一致の評決の原則から、全ての人物の意見とそのゆれにスポットがあたるため、
全ての人物を描きこまなければならないし、全ての人物が動かねばならない。
そんな荒業を三谷幸喜は見事にやってのけます。
このような12人の人間が平等な立場で交錯するという状況は、
伏線を巧妙にはり、とんでもないところから答えを導いてくる三谷脚本が最も活かされる場所といってよいでしょう。
この三谷脚本を、監督の中原俊が形にします。
この映画が1991年ですから、あの名作「桜の園」(中島ひろ子は、その後どうしてるんだろう。)の次の作品になるわけです。
中原は、外部からの影響を受けないように遮断
された会議室の中ですべて行われる
というメリハリの付けにくい設定をそのまま変えることなく、
ごく一部のトイレや中庭のシーンをのぞけば、ほとんどが会議室の中の映像を使っています。
回想シーンも空想シーンもなく、あくまで時間の流れにしたがって、
陪審員の会議室で会議が始まり評決が出るまでが淡々と描かれていくのです。
良い意味で「演劇的」という印象を受けたのですが、
これはいかにも映画らしい大がかりな撮影や動きがなく、
ただただ会議室で議論をつづけるだけで映画が進んでいくことから来るのでしょう。
それでも、視点が固定しているわけでもないし、アップも(それなりの)ロングも使い分けられているので、
それなりの映画的な「わざ」は使われています。
むしろ、映画をよく知っている人からみれば、
よくこんな設定で退屈させないような映像化をしたもんだ、というものなのかもしれません。
とにかく、明るくも暗くもならず、視線が上がりも下がりもしない会議室の映像を、2時間弱楽しませていただいたのでした。
と、何もしていないように見せる映像の技という話をしているのは、
どうしても、もう一つの「三谷脚本」の映画、「ラヂオの時間」と比較してしまうからです。
この作品も「東京サンシャインボーイズ」の舞台を映画化したもので、
「女優のわがままからセリフを変えてしまった生放送のラジオドラマがだんだん辻褄があわなくなり・・・」、という悲喜劇です。
同じようにドラマの始まる直前から終わるまでという時間の流れに拘束されながら、
ラジオ局のスタジオとその周辺という限られた空間で映画が進行するという点では、同じ脚本家という以上によく似た作品です。
監督は三谷幸喜自身がしているのですが、この「ラヂオの時間」では、思いのほか登場人
物たちは動き回ります。
それが、もともと動き回る脚本なのか、動き回るように脚本をふくらませたのかは知りません。
しかし、ラジオ局の会議室、警備室、玄関、調整室といろいろな場所を使うことで、映画は演劇とは違う思わぬ効果をあげてしまいました。
それは、リアリティということです。
リアリティがあってなぜ悪い、という意見もあるかもしれません。
しかし、「十二人の優しい日本人」が「もし日本に陪審員制度があったら」という仮定を前提としているように、
三谷脚本の真骨頂は「よくできた嘘」にあります。
ところが、うかつな「ホンモノ」が目に付くと、それがかえって「嘘」の嘘ぶりを目立たせてしまうのです。
演劇というものの特権は、客入れの音楽がフェイドアウトして客電が落ち、舞台に灯りが
点いた瞬間、
もうその空間はかなり役者のというか、芝居の好き勝手にできる場所になっているというところがあります。
客は、そこにないものがあるつもりになったり、そうは見えないものでも見えたことにしながら楽しんでいきます。
ところが、映画は画面そのものが多くを語ります。
写したいものの後ろにあるいろんなものが、ついでにいろんな主張をしてしまうのです。
有名監督が画面の端に写る山を削らせたとか、家を壊したなどの伝説も多く残されているのも、そうしたことによるのでしょう。
したがって、画面のすみずみまでも一つの世界観で統一されていないと、
とたんに全体としてのリアリティが失われ、色褪せて見えてしまうのです。
話を戻せば、中原俊は三谷脚本の演劇的な特性を見て、
役者の後ろに会議室の壁しか映らない「演劇的空間」を映画の画面上につくりました。
ここに、この映画のポイントがあるように思うのです。
「ラヂオの時間」に関しては、映画的にしようとリアルなFMラジオ局を作ってしまったこと
がかえって逆効果になったようにも思います。(演劇版を見ていないので、なんともいえませんが)
演劇的空間を映画的リアリティで映像化した、というところでしょうか。
* 映画ファンの方の書いたこの映画の評を見ると、実は、大変細かく「12人の怒れる男」をコピーしているらしい。
だから、私が映画としての演出の上手
さと書いた部分の多くは、どうやら丹念になされたパロディであったようだ。
Wikipedia「12人の優しい日本人」ページ
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