Jumbo Tsuruta
パーソナルデータ
本名鶴田友美
生年月日昭和26年3月25日
出身地日本・山梨県東山梨郡
身長196cm
体重127kg
ニックネーム完全無欠のエース、 怪物
得意技バックドロップ
デビュー戦昭和48年3月24日、対エル・タピア
主要タイトル歴インター・タッグ、UNヘビー級、インターナショナルヘビー級、AWA世界ヘビー級、PWFタッグ、世界タッグ、三冠ヘビー級
略歴
高校時代はバスケット選手であったが、大学からアマレスに転向、ミュンヘンオリンピックにグレコローマン100kg級に出場。
大学卒業後、全日本プロレスに生え抜きレスラー第1号として入門。入団会見での「全日本プロレスに就職します」という言葉は有名。デビューに向けて渡米、アマリロのファンクス道場に入門し、現地でデビュー戦を行なう。
帰国後、第三戦でいきなり師・ジャイアント馬場と組んでファンクスの持つインター・タッグに挑戦(73年10月9日)、全国に衝撃を与える。その後、リングネームをジャンボ鶴田とあらため、インター・タッグ奪取、試練の十番勝負、UNヘビー級奪取、世界最強タッグリーグ優勝、チャンピオンカーニバル優勝、とまさに全日本プロレスのエースとして大活躍する。
そして83年8月にはブルーザー・ブロディを破ってインターナショナルヘビー級を奪取、84年2月にはニック・ボックウィンクルを破り日本人として初のAWA世界ヘビー級を奪取する。
88年6月には初代世界タッグ王者に、また89年4月には初代三冠チャンピオンとなり、現在のベルト体制の礎を築く。また、長州力、天龍源一郎、三沢光晴といった日本人レスラーに対しては、日本人離れした体格を武器に圧倒的な力をしめしていた。
92年に内臓疾患で入院してからは第一線に復帰することはなく、99年3月6日に日本武道館にて引退セレモニーを行なう。2000年5月14日、フィリピン・マニラにて肝臓移植手術中に出血死。享年49歳。
週刊プロレス905号掲載インタビューのダイジェスト
(今の全日本プロレスは)あれは凄いです。進化するものなんですね。僕はできないですよ、あんな激しいのは。ハッハッハ。
僕は馬場さんと同じで、シュートを超えたものがプロレスだという考え方なんで。その根源にあるのは、シュートが強くないようだったら、絶対いいレスラーじゃないと。自分は強いぞというのも持ってて、プロレスができるのが凄いぞと。
前田日明選手の引退試合はうらやましかったですね。強い人とやって、最後に負けて…。
自分よりも強いなと思ったライバルは一人だけなんです。ブルーザー・ブロディ。武道館で負けた時は(88年3月27日、キングコングニーで敗れる)、天井のライト見ながら清々しい気分になりましたね。
ベストマッチはやっぱり(テレビでの)凱旋第一戦のファンクスとのインター・タッグ戦ですね。あれによって、鶴田友美からジャンボ鶴田になれたわけですから。
プロレスと純粋なスポーツの差は、ここまでが真剣勝負だよというハッキリした線がないことです。そのレスラーによっても違うし、いろんな人の考え方によっても違う。これがしっかりしない限り、純粋なスポーツとは言えないと思います。だけど、プロレスって素晴らしいスポーツです。それは、人間を感動させるスポーツだからです。
ブルーザー・ブロディについて
上にあるように、鶴田が最強のライバルとして挙げたのはブルーザー・ブロディでした。一方のブロディは鶴田のことを、
非常にタフで強い男だ。
鶴田との試合は、抜けない歯を強引に抜かれるような気分だ」
と評しています。
また、鶴田が体格からは考えられないほどスタミナを持っていたことから、それに対抗するために、ブロディは体重を落としていたと言われています。
ブロディにとっても、鶴田は最強のライバルだったのでしょう。





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