久しぶりに顔を合わせた為か賑やかな教室から、なかなか整った顔立ちながらそうと感じさせない乱雑な髪型をした男は逃げるように急ぎ足で出て行った。
廊下を歩いていてもそこら中から開放的な雰囲気が漂っていて、ともすれば自分自身もそれに浮かされてしまいそうだ。
所々固まって騒いでいる集団を避けつつ階段に向かう。学校に長居するような用事もあるわけじゃない。
このまま帰ってしまおう。そう思った。しかし階段まで来ると足が止まった。別に階段を人間と言う名の障害物で塞がれていたわけじゃない。
とりあえず急いで帰る必要は全くない。このあとの予定なんて物はまったく埋まっていないから。
なのにここまでどうしてあくせくと急いで来たのかわからない。だから下へ続く階段に向けるはずだった足を上へ続く階段へと向けた。
たいしてきつくない、されど不親切設計な12段の階段を登り、扉の前へと立つ。この扉を開ければ広い空が一面に広がって気分が良いだろう。
ゆっくりとノブに手をかけて回したが、ガチャッと音が鳴るだけそこから先に進めない。さすがに屋上への扉を開放したままにはしておかないのだろう。
けれどそんなことは度々ここを利用している人間には分かりきった事。持っていた鞄を地面に下ろし、制服のポケットから針金を取り出して鍵穴へと突っ込んで弄くる。すると鍵が開いた音がした。
針金を仕舞い鞄を手に取ってそこらにある扉よりも分厚い為少し重い扉を押し開ける。
鉄の音を立てながら開いたドアの向こう側から少しばかり風が吹きこみ、光が射し込んだ。
その先には人の姿を見ることは出来なかった。男は満足気に笑ってドアの敷居を跨いでノブから手を離す。後ろではドアの閉まる音がした。
風が目にかかる髪をさらい、暖かな日差しが射し込むのを邪魔をする物はない開放的な空間。どこか窮屈だった教室や廊下から受ける重圧から解放され、幾分気分が安らいだ。
この屋上を囲むフェンスは身の丈よりも高いぐらいの物で、乗り越えようと思えば乗り越えれない事も無い物だった。
男は傍らに鞄を投げ捨てるように置いてそのフェンスに背中を預けて座った。まだ少し冷たい風と自分を照らす春の暖かい日差しがちょうどいい。
その場にいては少し耳障りだった喧騒がこの場所では微かに聞こえるBGM、聞こえても気にするほどの物ではないレベルだった。
耳を澄ませてみると普段は聞くことのない優しい風の音を聞く事が出来た。
少ししてその音を壊すかのように屋上のドアが音を立てた。
「あれ? 誰か居ると思ったら・・・」
ドアが閉まると同時に聞こえたのは鈴を鳴らしたような声だった。
「やっほー、新村くん、元気?」
新村と呼ばれた男が入り口を見やると藤澤津音華が笑顔を浮かべて立っていた。その事に驚いて思わず言葉を忘れてしまった。
なんせ面識のない人物だ。面識が無いだけならまだ良いのだが相手はこの学年で可愛いと評判の人間で、そんな人間がまさか特に目立つ方でもない自分の名前なんかを知っているのだから。
「隣、いい?」
「え・・・あ、あぁ・・・」
何を言われたのか一瞬理解できなかったが、固まってしまっていた頭を解凍して返事をしたものの、なんだか非常に情けない返事になった。
それでも藤澤は気にした風もなく歩いて来て、隣に腰を下ろしてしまった。瞬間なんとも甘い、良い香りがふわりとやって来た。
その事を意識すると心臓が急に高鳴りだす。表面上は平静を装っているものの、内心は落ち着けるのに必死だ。
「ここで何してたの?」
新村の動揺なんか当然ながら全く気付いていないのだろう、肩が触れ合いそうな距離だというのに屈託無く笑顔を向けてくる。
可憐な笑みに魅入ってしまいそうになるのを必死で押し止める。
「い、いや、ただボーっとしていただけ。ただの暇潰し」
この言葉に偽りなんて物は一片もない。なんとなく気が向いてここにやって来て座っているだけ。だのに、何故言い訳めいてると思ってしまうのだろうか。
「そう? 私には洗い流しに来てたように見えたけど」
「―――」
不思議な気分だった。自分自身ではただの暇潰しとしか考えていなかったのに、自分でない、ましてほとんど面識も無い人間に言われた言葉が心の内に染み入ってくるなんて。
「あ、もしかして当たり?」
自分では何とも感じていないような表情を作っていたつもりだけれど、どうも顔に出てしまっていたようだ。
「・・・何でそう思ったんだ?」
彼女の言葉には答えずに尋ねる。答えは暇潰しのはずなのだが、洗い流しに来たという言葉がぴったりとはまったから・・・からなんだと言うのだろう。別に暇潰しと答えてしまったからと言ってどこにも問題は無い。のに暇潰しとは答えられなかった。
「そうだねぇ・・・ここに私が来た時に、新村君がすごく安らいだ顔をしてたから、そうなんじゃないかなぁって」
確かにここで安らぎ、とまではいかないけれど落ち着きにきたのは事実だ。でもすごくと言われてしまうほど安らいでいたのだろうか。
「ふぅん・・・そういう自分は何でこんな所に来たんだ? 屋上には何もないのに」
彼女は軽く首を振って彼の言葉を否定した。
「ここには、風が吹いてるから。私が好きな風が」
そう呟いて瞳を閉じた彼女の肩まで伸びた髪を風がさらっていく。そんな光景が一つの水彩画になってしまったように心に刻み込まれたのを自覚してしまったから、つい彼女から目を逸らして頭上に広がる大空を眺めた。
「そっか・・・」
なんだか非常に味気の無い返答だと思う。ここで何故風が好きなのか尋ねればもう少し会話が続いただろうに、それをしなかった。
それから静寂が二人の間を支配したが、不思議な事にその間は新村にとって嫌なものではなかった。
しばらく何も話さずただ二人して空を眺めていたが、この状況を破ったのは今度も彼女だった。
「ねぇ、この空の向こう側には何があると思う?」
唐突に変な事を尋ねてきたものだと思う。普通に考えてもこの空の向こう側にあるのは・・・
「宇宙、じゃないのか?」
「ううん。・・・もー夢がないなー」
彼女の望む回答とは違ったようで呆れたように溜息をつかれてしまった。
「夢って言われてもなぁ・・・」
この空の向こうにあるのは間違いなく宇宙なのだ。その事実を差し置いて違う事をとっさに思いつけるほど彼は夢見てもいないし空想家でもない。
「・・・私はね、あの空の向こうには誰もが幸せになれる場所があるって思うの」
誰もが幸せになれる場所。そんな意味を持つ言葉を、以前に何度も聞いてきたし言っても来た。
「それって、天国じゃないのか」
彼の言葉に彼女はクスリと微笑ってまた首を振って否定した。
「知ってた? 天国って安らぎを得られる場所なんだけどね、酷く退屈で凄く空気の密度が薄いの」
そう言って彼女は微かに寂しさを伴った笑みを浮かべた。
「空気の密度が薄い?」
「そう。とっても儚くて、すぐにでも消えてしまいそうな寂しさが漂ってるの」
一際強い風が吹き付けて彼女の髪を揺らす。その際、横顔を覗いてみたが彼女の瞳は空を捉えているようで、実の所空の先にあるものを見ようとしているようだった。
「きっとその事に気付かずにいたなら寂しさなんかに侵されずに安らげたままだった・・・そう思うの」
掴み所のない不思議な空気を漂わせる彼女を眺めているうちに、ふとここにやって来た時と同じような気軽さで様々な生徒と話している彼女を思い出す。
「―――だから私は寂しさの付け入る隙間がないくらい、幸せな場所を見つけたい」
果たして今の彼女と普段の彼女、どっちが本来の彼女の姿なのだろうか。きっと問いかけても答えは返ってこない、そんな気がした。
「・・・って私ばっかり喋ってる。少しは喋ろうよー」
不思議な雰囲気を払拭して新村に話させようとする藤澤。まるで少し過ぎたおしゃべりを打ち消そうとしているのではないか、と思わせる。
「喋れって言われてもな・・・」
「どんな話でもいいよ。そうね・・・あの雲の行き着く先はどこでしょう?」
―――なんでも良いんじゃないのかよ。
心の中だけで苦笑いをしたつもりだったが、どうやら表情に出ていたらしい。
「なに、不満?」
「い、いやそんな事はないさ」
どうにも彼女のペースに巻き込まれてしまったようだった。彼女が来てから全く収まる様子のない心臓の鼓動がやけに耳につく。
「それじゃあ、あの雲は何処に行くと思う?」
「何処に行くか、ねぇ・・・・・・多分、何処にも行かないな」
「え?」
藤澤が少し驚いた顔をして新村を見る。その事に気付いていながらも藤澤の方を見ずに斜め上に広がっている空間の一点を見つめながら続けた。
「いんや、辿り着かねぇ、だな。あの雲は永遠を渡り歩く旅人だ。形は変わるけれど一箇所には留まらないでずーっと彷徨っちまうんだ」
一度喋りだした勢いで言い切ってしまったが、言い終えてみると少し恥ずかしかったのか落ち着かない様子で居る。
「―――そっか。・・・何だか哀しい」
「いーや、哀しくないさ。あいつらは誰に縛られるわけでもなく、何も考えず自分の気が向くままに歩いていくだけなんだからな」
彼女の方に視線を向けなくても驚いているらしいということは言葉にならない微かな呼気が伝えていた。
やがて大きく感嘆の溜息をついて言葉を繋げた。
「ビックリしたー、まさかそんなこと言うなんて・・・」
「・・・どうせキャラじゃないなんて思ってるんだろ」
少し拗ねた様子の新村に藤澤はクスリと微笑むと立ち上がって、座り込んでスカートについた汚れをはたいた。
「じゃ、そろそろ行くね」
「・・・わかった」
返事をするまでにできた少しの間が藤澤との時間が終わるのが名残惜しいと伝えていたが、彼女は気にした素振りを見せなかった。
しかし出口の前まで行くとふと立ち止まって新村の方へと振り返った。
「そうそう。さっきの言葉、どうせなら『何も考えず』じゃなくて『旅の終着点の事を夢想しながら』の方が良いと思うよ」
「は?」
「だって、何も考えないなんて楽かもしれないけれど楽しくないもの」
言い終わると彼女はドアを開けて校舎の中へと入ってしまった。
一人取り残され、彼女が去り際に発した言葉が頭に残る。
「楽しくない、か・・・」
何も考えないは自分なりに雲を表したつもりだったが、彼女はあの雲に自分をなぞらえたんじゃなかろうか。
けれどそんな事はどうでも良い事にすぎなかった。彼女がここに今も吹き付ける風のように新村の心に風を起こしたまま去って行ってしまった事に比べれば。
あの後学校の至る所で藤澤の姿を見つけることができた。でも新村は声をかける事をしなかった。
ほんの少しの勇気もなかったのだと言われればそうなのかもしれない。けれど時間が経って行くうちに彼女との思い出はあの僅かな時間だけで良いと思い出した。
日常から少しだけ乖離したみたいな時間が彼女に近付けば薄れていくように思った。
だから彼女に積極的に近付いて親しくなろうとはせずに、時折見かけたときにあの日の出来事が鮮やかな色を保った思い出としてよみがえり、それに浸った。
それから数ヵ月後に彼女の姿をぷっつりと見なくなった。話によれば転校をしたのではないか、という事だったが誰も彼女の詳しい行方を知らないようだ。
彼女の行方を知らなくても、それはそれでもいいと彼は思った。彼女がこの空の下、風に吹かれて旅をしているだろうから。
「おーっし!できたっ!」
パソコンに向かってキーボードをカチャカチャ鳴らしていた男が声を発しながら勢い良くEnterキーを叩いた。
「できたーって何が?」
男が座り込んでいる背後から女がひょっこりと顔を出してディスプレイを覗こうとする。
「おぉっと、なんでもないなんでもない」
それに気付いた男がノートパソコンのディスプレイを折りたたむとその上から覆いかぶさって阻止する。
「あーあ、今日も失敗」
失敗と言いつつもどこか楽しげに男の姿を眺める。まるで子供が大事な物を奪われないようにしているみたいで、思わず笑ってしまう。
「・・・なんだよ」
「別にぃ?」
女の笑みにあまり好ましくない物を感じたのかジト目で女を睨みつけるが、いっそう楽しそうに笑うだけだった。
「・・・まぁ、いいけど。で、さっきまで台所で何かやってたやつがなんだ?」
「むっ、台所でなにかするって言ったらごはん作るしかないじゃない。せーっかくお昼ごはん作ってあげたんだけどなぁ。もういいや、食べさせてあーげない」
クルリと回れ右をすると台所へと引っ込もうとする。
「まぁまあ、そんなこと言わずにせっかく作ったんだから、な?」
たいして焦った様子もなくスラスラと文言を連ねる男。女も本気で機嫌を損ねた様子じゃないのでただのじゃれ合いなのだろう。
「しょーがない、食べさせてあげよう」
少々えらそうに胸を張った後は笑顔を浮かべて軽やかな足取りで台所へと入って行く。結局自分の作った物を食べてくれる人がいるのが嬉しいようだ。
とにもかくにも昼食にありつけるって言うのならば、邪魔になるパソコンの電源を切りテーブルから下ろしておく。
「はい、おまちどーさま」
どこかの食堂のおばちゃんのような言葉と物腰でお盆の上に載せてある昼食を並べる。・・・のはいいのだが、それにはいささか問題があった。
その問題を口に出すべきか否か少しの間逡巡するが、意を決して机に並べられた昼食を指差して口を開いた。
「・・・あのさ」
「なによ? 嫌いな物だから食べたくないって言うなら張っ倒すからね」
よいしょ、と言って男の対面に座って冷えた麦茶を氷の入った2つのグラスに注いで片方を手渡す。受け取った麦茶を一口飲んで「冷たい麦茶だよな」と呟く。
「何にらめっこしてるの」
「いや・・・今ってさ、ジメジメとした日本特有の夏という季節だよな」
「そうだね」
現に男は額や首などがうっすらと汗ばんでいた。それは女も同様なのだがそれを気にした様子も無い。
「なのにさ・・・何コレ?」
黒っぽい汁に肉やらねぎやらとうもろこしや黄色い細長い物などが丼鉢に盛り付けられた物を示す。当然器からはもわもわと湯気なんて立っちゃってます。
「何コレってラーメンじゃない。ちゃんと栄養面も少しだけ考えて野菜をふんだんに使った」
「暑いのに?」
「暑いからこそ」
そう言って麺を少量箸で摘むとチュルチュルと啜る。咀嚼しながら頷いているところをみると十分に満足できる出来のようだ。
「年寄りか?」
「・・・」
男の余計な一言でこめかみに青筋が浮かび、手近にあったテレビのリモコンを掴み掲げる。
「ごめん、悪かった」
「わかればよろしい」
素直に謝るとリモコンをテーブルに置いた。やっぱり女性に年齢に関することはタブーのようだ。
「どうせ暑くなるならもっと生産的なことでなりたいものだ」
腕組みなんかして偉ぶりながら頷くが口の端に表れる本心は隠しきれず女の冷ややかな笑みが向けられる。
「それじゃ今すぐランニングにでも行って来れば?」
「そうじゃなくて・・・」
「行って来れば?」
「すいませんでした」
テーブルに両手と額をつけて誤る男を満足げに眺め、麺をまた一口啜る。
「いい加減に食べたら? 冷めちゃうよ」
「冷めた方が食べやすいんだけど・・・麺延びちまうから食うか」
お許しが出たので大人しく箸を手にとって一口、と行く前にスープを飲み、麺を黙々と啜る。
「どう?」
「さぁ、ね」
まともに感想を聞けない女はむーっと不満げな表情で男を睨みつけるが、黙々と食べ続けるだけで気にもしない。
「ふん、だ。もう作ってあげないからね」
少しばかり拗ねた風に顔を背けた。「おいしい」と言ってくれるのを期待しながら。