私はいつも通学に電車を利用している。
毎朝通勤ラッシュに巻き込まれて、身も心もヘトヘトになりながら通っている。
やってくる電車に押し込まれて身動きも取れないまま何十分も揺られる。
押し込まれた車内にはヘッドフォンから聞こえてくる音楽という雑音。
香りのキツイ香水の匂いや汗の匂い。
人の体が発している熱気。
この車内には不快になる要素がたくさん盛り込まれている。
そんな事を思うと、学校へ向かう足も鈍るというものだ。
でも近頃は毎朝、駅に向かうのが楽しみになっている。
電車を待っているわずかな時間に楽しみを見出したから。
その楽しみとは向かいのホームにいる、ある特定の人を眺めること。
その人の姿を一目見るだけで、なんだか少し胸がドキドキしてちょっぴり嬉しくなる。
今日も会えた、って思うだけで電車に揺られている時間もそんなに苦痛じゃなくなる。
嬉しいと思う反面、そう思う自分がおかしいんじゃないかって考えてしまう。
『会う』って言っても相手は私のことなんか知るはずも無い。そう、ただ私が『見る』だけなんだから。
そして・・・その見ている相手は女性なのだから。
電車が来るまでの時間を持て余して、何気なく向かいのホームを見まわしてる時にその人だけが何故か浮かび上がって見えた。
他のどんな物だってただの背景にしか見えず、ただその人にだけ視線が釘付けになった。
それは時間が止まった、と形容したいぐらいの出来事だった。
でもそのひとときはホームに滑り込んできた電車によってかき消されてしまった。
それ以来、毎朝改札を通って向かいのホームを見まわせるようになるとあの人を探してしまう自分がいた。
当然、駅にはたくさんの人が居るんだから、その中から一人だけを見つけ出すのはなかなか難しかった。
だからこそ見かけた時はその日一日、幸せな気分で過ごせた。
しばらくそんな日々を過ごしていると、はたと気がついた。
その人は毎日、同じ時刻、同じ場所で電車を待っている、という事に。
私は朝起きるのが少し遅くなったり、支度に時間が掛かってしまったりで、毎日同じ時刻の電車に乗っているわけじゃない。
その事に気付いた時、なんで自分は時間について考えなかったのだろう、と少し落ちこんだ。
でもそんな気分も、これからは毎日あの人を見る事が出来るんだ、なんて思うと吹っ飛んでしまった。・・・私ってなんて単純・・・。
そんな事を考えているうちに、もう駅に着いていた。鞄から定期入れを取り出していつもの通り改札を通り抜け、いつもの場所へ向かった。
電車はほんのちょっと前に出ていったばかりなので、ホームには人は多いものの電車を待つ人は少ない。
だから私はホームの最前列に陣取って、その人を眺める事が出来る。
少しばかり時間が経つとその人の姿が見えた。そして私の心拍数も少し上がったみたいだった。
その人はいつもの場所に立つと構内の時計を見たり、空を眺めてなにかを考えているようだった。
まったく、いつものとおりの風景。
なんだかその事が嬉しくて、ついつい顔がにやけそうになる。慌てて顔を引き締めていると構内にアナウンスが流れる。
なんてことはない。私の乗る電車が来ただけの話だ。
でも、このささややかな至福の時間が終わりというのは寂しい。
せめてあの人の顔を目に焼き付けようと食い入るように対面を見る。
あと少しで電車が私とあの人の間に割り込んでくるという時に、あの人が真正面を見た。
「―――えっ?」
私が漏らした驚きの呟きは電車が響かせるブレーキ音によってかき消された。
「―――今・・・私を見て笑った・・・?」
さっきまで空を眺めていた人が私の目を見るかのように前を見て、少し首を傾げてにこっと笑ったのだ。
幻覚でも錯覚でもなく、私を見て―――微笑んだ。
そう、微笑んでくれた。
その事実に、自然と笑みが抑えられなかった。
私を見て微笑んでくれた。その事が私にいつもより、幸せな気分をくれたのだった。