有馬温泉 
金泉・銀泉で知られる有馬温泉は、あの太閤秀吉も足を運んだという、日本最古の名湯・全国屈指の湯治場として日本3名泉にも数えられる。
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目次

有馬の歴史概略 歴史細説(有馬観光協会) 古い写真(市民のグラフ)
外湯「金の湯」 外湯「銀の湯」 7つの泉源 瑞宝寺公園 有馬と文学
伝統工芸 イベント「入初式」
「桜祭り」
おみやげ 年表 有馬三山
有馬48滝 アリマウマノスズクサ
(ホソバウマノスズクサ

有馬の歴史(概要)
 有馬温泉の歴史は古く、神代の昔、大己貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)の二神が山峡有馬の里に温泉を発見したのが始まりだといわれ、道後、白浜と並び日本三古泉に数えられている。 日本書紀によると、舒明天皇が631年に有馬に入湯したと記録されている。すでに有馬は高貴な人々の保養地として広く知られていたようだ。 奈良時代に一時衰えていた有馬を再興したのが、僧・行基である。行基は温泉寺、菩提院などの諸寺を建立し、庶民にも温泉の効能を説いたと言われる。しかし、11世紀末に起こった山津波で、有馬は荒廃。以降、長年にわたって荒れ果てていた。
 鎌倉時代に吉野の僧・仁西が1191年、夢のお告げに従って有馬にやって来た。大洪水で荒廃した有馬温泉を再興し、薬師如来を守護する十二神にちなんで12の宿坊を建てた。有馬の旅館に「坊」の字が付くのは、この名残と言われている。
 さらに繁栄をもたらしたのが太閤秀吉。秀吉は12の宿坊を20に増やし、年に1~2度は湯治に訪れました。また、ねね千利休らとともに盛大な茶会を催した。また天正の大火や慶長大地震で被害を受けた際、手厚く復興を支援。その後の繁栄の基礎を築いた。
 江戸時代には、全国でも指折りの湯治場として数多くの人々が訪れ、その名湯ゆえ日本三名泉にも数えられるなど「有馬千軒」といわれるほどのにぎわいをみせた。
 千四百年の歴史を持つ有馬には、正月2日に古式ゆかしい伝統行事の入初式や11月2・3日の有馬大茶会などさまざまな催しが行われる。
 六甲山系に囲まれた自然の景観美も魅力で、春には桜やコブシ、ツツジの花が、秋には紅葉が山々を染め尽くす。雪の頃には雪見酒も楽しい。
 天満宮の湯けむりを上げる天神泉源では、地球の鼓動のような轟音が体験できる。
 その他、史跡・景勝・アミュズーメントなど観光スポットも多く、泉源めぐりなどとともに、関西の奥座敷
として訪れる人々を楽しませてくれる。 
 日本一の含鉄強食塩泉の赤い湯「金泉」とラジウム温泉「銀泉」の2種類の泉質の湯が湧出している。

有馬の歴史(細説
以下の
説明は「有馬観光協会」のホームページ(http://www.arima-onsen.com/topmenu.html)より

1.発見
 有馬温泉の守護神として名高い湯泉神社の縁起によれば、泉源を最初に発見したのは、神代の昔、大己貴命(おおなむちのみこと)小彦名命(すくなひこのなのみこと)の二人であったと記されています。この二神が有馬を訪れた時、三羽の傷ついたカラスが水たまりで水浴していました、ところが数日でその傷が治っており、その水たまりが温泉であったと伝えられています。
 温泉のありかを教えてくれたこの三羽のカラスだけが有馬に住むことを許されたと伝えられており、「有馬の三羽からす」と呼ばれています。
 有馬温泉の存在が知られるようになったのは、第34代舒明天皇(593~641年)、第36代孝徳天皇(596~654年)の頃からで両天皇の行幸がきっかけとなり有馬の名は一躍有名になりました。日本書紀の「舒明記」には、舒明3(631)年9月19日から12月13日までの86日間舒明天皇が摂津の国有馬(原文は有間)温湯宮に立ち寄り入浴を楽しんだという記述がありそれを裏付けています。
 釈日本紀によると、孝徳天皇も同じく有馬の湯を愛され、大化の改新から2年後の大化3(647)年10月11日から大晦日環幸までの82日間、左大臣(阿部倉梯麿)・右大臣(蘇我石川麿)をはじめとする要人達を多数おつれになり滞在されたとの記述があります。

2.開創の行基

 「有馬温泉史話」によれば、舒明天皇・孝徳天皇の度重なる行幸により世間に名をしられるようになった有馬温泉ではありますが、その後徐々に衰退に向かっていったといわれます、これを再興し有馬温泉の基礎を開いたのが名僧行基です。
 行基は聖武天皇(701~756)の信任あつく、主に池を築き、溝を掘り、橋をかけ、お堂を築くことなどに力を発揮し大きな業績を残した高僧といわれています。
 行基が大坂平野の北、伊丹の昆陽に大池(昆陽池)を掘っていたときのこと、一人の人に会いました。その人は「私は体の中に悪いはれ物ができて、数年来苦しんでおります、聞くところによりますと、有馬の山間には温泉があり、病気にはたいそう良いそうです。私をそこへなんとか連れて行ってくださいませんか。」と頭を地に付けて懇願しました。哀れに感じた行基はその人の望みを叶えるため、有馬につれていき、さらにあれこれと望みごとを頼むその人のいうがままに願いをかなえてやると、不思議なことにその人は金色荘厳なみ仏の姿となり、紫雲に乗って東方へ飛び去ってしまいました。
 行基は感嘆のあまり、如法経を書写して泉底に埋め、等身大の薬師如来像を刻み、一宇の堂を建て、そこへ尊像を納めたといわれています。これは、行基の徳に感じた薬師如来が温泉を開かせ、有馬発展の基礎を行基に築かしめることとなったとされております、事実、行基がここに堂を建立して以来、約370年の間有馬は、相当な賑わいを見せたと伝えられています。
 平安時代に入ると、各種の文献にも散見されるようになり、多くの文人や天皇、またのの重臣たちも有馬を訪れたとされており、清少納言も枕草子のなかで「出湯は、ななくりの湯、有馬の湯、那須の湯、つかさの湯、ともに湯」と書いております、つまり、当時すでに、伊勢の榊原温泉とならんで有馬温泉が天下三大名湯の一つとして高い評価を受けていたわけです。

3.中興の仁西

 時代は流れて、承徳元(1097)年、天災が有馬を襲いました。「温泉寺縁起」によると、「堀川天皇の承徳元年、有馬に淫雨洪水があって、人家を押し流し、温泉も壊滅した」とあります。諸説はありますが、この大洪水以後95年間の有馬はほとんど壊滅状態のまま推移したものだと考えられています。
 荒廃しきっていた有馬を救ったのは、仁西(にんさい)という僧で、源平合戦で平家が滅亡した直後、いまでいうならの吉野からやってきた仁西が有馬の再興を果たすこととなりました。
 仁西は大和の国・吉野にあった高原寺の住僧でありましたが、ある時奇異の国・熊野権現に詣でた折、夢のお告げをうけました、それは「摂州有馬の山間に温泉がある。近頃、はなはだしく荒廃しているにつき、行って再興せよ」というものでありました。
 仁西は謹んで受けましたが、有馬への道筋がわかりませんでした、そこで熊野権現に訪ねてみたところ、「庭の木の葉にくもがいる。その糸のひくところに従っていけ」とのことであり、翌朝目覚めて庭にでてみると、確かに夢のお告げ通りで、仁西はくもの糸に従い、有馬へと向かいました。しかし、中野村の二本松まで来たところで、くもの糸を見失い途方にくれていると、突然老人が現れ仁西を山上まで案内し、一枚の木の葉を投げ「この葉が落ちたところが霊地である」と教えてくれました。
 さっそくその教えに従い葉の落ちたところを探してみると、そこには行基が開いた温泉があったということです。そこで、里人を集め、泉源をさらえ、承徳の洪水より一世紀に及ぶときを経て有馬温泉の復興に成功したのでありました。
 温泉の復活とともに、仁西は薬師寺を改修し、12の坊(僧侶の宿泊施設)を営みました。これは源頼朝が鎌倉幕府を開く1年前、すなわち建久2(1191)年のことと伝えられています。12の坊の管理は仁西が吉野からつれてきた川上、余田氏らの平家の残党であったといわれております。
 現在、有馬において「坊」の文字がつく宿が多いのは、このときの流れをくむか、あるいはそれにあやかってつけられたものとおもわれております。

4.再建の秀吉

 以後、数百年の泰平の日々が続き、室町から戦国時代にかけての混乱期にあっても、入湯に訪れる者はひきもきらず、世上の混乱も有馬の繁栄にはさして影響を与えることはなかったとされています。

 ところが仁西が有馬の再興に成功してから三百余年を経て、ふたたび平和な保養の地に動乱期がやってきました、享禄元(1528)年大火に見舞われ、有馬は焦土と化したのであります、また、天文14(1545)年には、善福寺後方の落葉山に城を構える三好宗三政長に対し、三木城主別所豊後守が大軍をひきいて攻めた折、有馬はその余波を受け大打撃をこうむりました、また、天正4(1576)年にも大火があり、有馬は立ち直る間もなく壊滅的なダメージをうけてしまいました。

 一方、明智光秀の軍を打ち破り、また柴田勝家、織田信孝などを次々と破って天下統一の地固めにもどうやら目途がついた天正11(1583)年、秀吉は有馬を訪れ、長らく続いた戦で疲れた心身を天下に名高い有馬の名湯で癒そうとしたものか、これが記録に残る秀吉入湯の最初であります。その後も秀吉は再三有馬を訪れており、有馬に対してさまざまな援助を行っています。
 秀吉の事蹟の特筆は、慶長2(1597)年に始まった大規模な改修工事です。この直接のきっかけは、前年に近畿一円を襲った慶長伏見地震でありました、建物の被害も甚大ではありましたが、さらなる問題としてこの地震の直後から温泉の温度が急上昇し熱湯となってしまったことでありました。湯治効果の大なることを熟知していた太閤は、文字通り英断をふるい有馬温泉の根本的な改修工事に着手することになりました。

 秀吉の工事以来350年間、有馬町(有馬町は明治29年に湯山町から有馬町に改称されました。)は一度も泉源の改修工事を行っておらずこの時の秀吉の英断がその後の有馬の繁栄に計り知れない影響を与えたことがわかります。しかし、工事が完成した慶長3年の5月に入湯の予定でありましたが、激しい風雨のため中止となり、その後まもなく床にふし同年の8月18日に没したため、秀吉はついにその成果をみることができませんでした。

5.江戸時代を経て

 その後、江戸時代にはいってからの有馬は、さらに繁栄の一途をたどり、江戸時代の有馬は幕府の直轄領でありました。

 しかし、同時は現在のように各旅館内に内湯があったわけではなく、町内に元湯がひとつあるだけで、湯治客はすべてこの元湯に出かけるシステムになっていました、また温泉の湧出量もさほど多くなく、秀吉の入湯、そして泉源の本格的な改修工事により温泉としての知名度が高まって訪れる人は増加したものの、当時の入湯の様子を調べてみると、現在の姿とはかなりことなっていたようでした。

 この頃の浴場は元湯として、南北に七間、東西に三間ほどの建物が1棟あったにすぎず、その中に設置されていた浴槽も、南北に2丈余り、東西1丈余りで中央に板仕切りがあり、一辺一丈の小さな正方形のものでしたその南側は「一の湯」北側は「二の湯」と呼ばれ、深さはいずれも三尺七、八寸であったと伝えられています。

 仁西が開いた12の坊は、秀吉が大改修工事をしたころには20坊に増えており、この20坊は純然たる旅館として機能しており、一の湯には十坊、二の湯に十坊が各々配属され各坊に2人の湯女が配属されておりました、その後も湯治客の増加にあわせて、坊の下に「小宿」と称する宿舎が作られるようになり、宿泊施設も充実していくととになりました。

以上の
説明は「有馬観光協会」のホームページ(http://www.arima-onsen.com/topmenu.html)より

古い写真
白黒の写真はすべて「市民のグラフ」より(市民のグラフ「こうべ」2001年12月号no.306号)
八ケ代信行コレクション(※)

大正期に改築されて3階建てになった本温泉。※ 昭和29年の有馬温泉。戦後、泉源の発掘が盛んになり内湯を持つ旅館が増えていった。また、企業の保養所や宿泊所も設置されるようになった。 明治8年、外国人技師によって炭酸水と分析された炭酸泉源。19年に上屋が建てられ、あわせて周辺も整備された。また、この炭酸水を
瓶詰めにして販売する会社もでき、サイダー、ミネラルウォーターとして売り出された。現在、有馬鉱泉は販売されていない。※
昭和3年11月に神有電車(現:神戸電鉄有馬線)、湊川~有馬温泉が営業をスタート。当初の所要時間は約57分で、神戸の市街地からのアクセスが格段に便利になった。※ 昭和16年に建てられた初代の本温泉はハイカラな洋館だったが、24年に和風の平屋建てとなった。建物の横には「有馬標柱」が立っている。※ 明治~大正時代の温泉会館。湯治はまだ宿に温泉がひかれていなかったため、湯治客は本温泉へ入湯に行っていた。手ぬぐいを携えた写真の人々は、これから本温泉に入りにいくのだろうか。
大正12年に開業した曙タクシーの奥には、ビリヤード台を置いた玉突場があり、外国人たちも遊びに来た。 昭和3年に暗きょになるまえの滝川。中央の橋は当時、「太古橋」と呼ばれていた。橋の向こうにある日本建築は、明治32年の六甲山鳴動(地震)で温泉の湧出量が増えたため設置された「高等温泉」。現在は阪急バスの案内所になっている。※ 紅葉で名高い瑞宝寺公園は、明治6年に
廃寺となった瑞宝寺の跡地であり。※
有馬と三田を結ぶ有馬鉄道は、大正4年4月に開通した。これにより、三田経由で大阪まで約2時間となった。駅舎は中央に塔をあしらったモダンなデザインで、有馬の玄関口として利用された。大正8年に政府に買収されたが、昭和18年、戦争体制により営業を休止。線路などの資材供出を受け、事実上廃止された。 昭和13年の阪神大水害後、有馬川は治水のため、写真のように拡幅と護岸工事が行われた。温泉宿はまだどこも木造の日本家屋で、道路をゆったりと人が歩いている。※ 炭酸温泉場:この温泉場は現在の炭酸泉源公園の近くにあって、各旅館が交代で利用していた。
外湯「金の湯」
古来から有馬の元湯として歴史を刻んできた外湯。有馬温泉独特の赤湯と呼ばれる「金泉」(含鉄強塩泉)を利用した温泉。足湯や飲泉も楽しむことができる。
外湯「銀の湯」
「銀泉」と呼ばれる炭酸泉、ラジウム泉を利用した外湯。近隣には昔の有馬を偲ばせる神社仏閣の集まった寺町界隈など見所が点在している。
7つの泉源
天神泉源・炭酸泉源
妬(うわなり)泉源
有明泉源・御所泉源
極楽泉源

竹垣に囲まれた御所泉源:夜のライトアップも美しい。金泉.
左の写真はライトアップされた、夜の御所泉源
極楽泉源:「太閤の湯殿館」の南側にある極楽泉源は、94℃のお湯が噴き出す金泉。 妬(うわなり)泉源:「美しく化粧をした女性がそばに立つと、湯がしっとして吹き出した」という伝説から妬(うわなり)泉源と名付けられた。金泉.
太閤泉(銀泉):昭和41年に枯渇し廃止されましたが、阪神・淡路大震災後、再び湧出を開始した。 天神泉源:有馬を代表する泉源で、昭和27年に神戸市によって発掘された。98.2℃と高温の金泉がわき出る。 炭酸泉源:二酸化炭素を含む炭酸水はかつて「毒水」と人々に恐れられていたが明治8年の分析で飲めることが判明。砂糖を入れてサイダーとして販売されていた。戦後間もなく廃れてしまったが、炭酸水そのものは今も泉源で飲むことができる。銀泉.
有明泉源2号泉:天神泉源にほど近く、高いやぐらが目印。金泉。
瑞宝寺公園
秋の紅葉は見事の一言。太閤ゆかりの「日暮の庭」「石の碁盤」でも有名。明治6年に廃寺となった瑞宝寺の跡地。

太閤ゆかりの「石の碁盤」
左2枚は7月の緑の様子
有馬と文学
伝統工芸
人形筆:その歴史は1300年前。子供がないことを悩んでいた孝徳天皇の妃・后宝皇女が、有馬温泉に入湯してまもなく皇子(有馬皇子)を授かったことが始まり。筆を持つと勢いよく飛び出す人形は愛嬌があり、繊細な模様を見る楽しみもある。 現在も製造しているのは湯本坂にある「灰吹屋西田筆店」だけになった。1559(永禄2)年創業の歴史を誇るこの店舗では6代目の西田光子さんが細やかな手作業で絹糸を巻いている。
有馬籠:450年ほど前に、千利休が有馬の良質な竹を使って作らせたといわれる伝統工芸品。現在、製造販売を行っているのはこの店(くつわ)だけで、店内では製作の様子も見学できる。
有馬籠の歴史は非常に古く、十五世紀桃山時代・本願寺の「顕如上人貝塚御在所日記」を見ると、天正13年(1585年)9月13日、有馬へ入湯した顕如上人(光佐)は、有馬土産として、豊臣秀吉夫人「ねね」に有馬籠を贈ったと記されています。
 その後、江戸時代に入ると多くの著書や文献に紹介され、黒川道祐の「有馬地誌」また「日本山海名物図会」には、「有馬籠細工妙を得ていろいろの竹篭を作り出す。有馬籠とて著名な名産なり、入湯の人々、買い求めて家ずとす。」などと記せられていて、この時代では、有馬の町名も、籠屋町とか筆屋町とかにわかれていました。
 明治時代に入り、同6年、オーストリアのウィーン万国博覧会に出品し優秀賞を受賞し、その後、有馬籠は、次第に発展し大正年間には、従業者も七十余名に達し有馬籠の全盛時代でありました。このころ、九州の別府へも職人が行き、その技術を教えたものです。しかし、第二次世界対戦により壊滅的な打撃を受け廃業者が続出し完全に衰微してしまいました。
 近隣に新しい産業の誕生、竹細工職人として自立までの期間がかかるなどが衰微の原因と思われます。
 現在、国内では、有馬籠の偽物が氾濫し、有馬温泉に於いても、外国製品の輸入による竹製品を有馬籠と偽って販売する商店も多数伺えますが、を、製造・販売するのは、「轡 昭竹斎」を代表とする当店ただ一軒です。株式会社竹芸有馬籠くつわホームページより
イベント「入初式」
毎年正月2日「入初式」という古式豊かな行事が連綿と伝わっている。温泉神社のご神体と温泉寺の行基・仁西両師の御像・神官・僧侶・旅館の主人・有馬芸妓の湯女などによってとりおこなわれる。

「桜祭り」2004年4月4日
有馬温泉「入初式」
 日本最古の神霊泉といわれる「有馬温泉」には毎年正月二日「入初式」という古式豊かな行事が連綿と伝わっております。
 有馬温泉は御代の昔、
大己貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)の二神によって発見されたといわれております。それより後今からおよそ千二百余年前即ち神亀元年行基菩薩が薬師如来の霊告により、有馬の地に一寺三院を建立されると共に、温泉を浚渫(しゅんせつ)再興し、町は大いに繁栄しました。
 また六甲山の水害のために約三百年ほど潰滅(かいめつ)の状態となったことがありますが、建久2年、奈良吉野の僧、仁西上人が熊野権現のお告げによって有馬に来られ、温泉を再修し、薬師堂を再興される一方、薬師如来の十二神将にちなむ十二の坊舎を設けられ、有馬温泉は昔日の繁栄をとりもどしました。現在有馬の旅館に坊の名が多いのはこれによっております。
 このように行基菩薩・仁西上人の両師は有馬温泉にとって開祖・中興であり、忘れることが出来ない大恩人であります。このため有馬温泉では昔から両師の恩徳を偲び、温泉の弥栄を祈って毎年正月二日に「入初式」が挙行されているのであります。
 入初式は神・仏両式によって行われております。即ち湯泉神社の
大己貴命(おおなむちのみこと)の御神体と温泉寺に伝わる行基・仁西両師の御像を輿に乗せ、神官、僧侶、旅館の主人、有馬芸妓の扮する湯女等が古式豊かな練行列を組んで式場に向かい、式典が始まります。
 式は先ず初湯をもんで適温にさます湯もみ行事を白衣赤袴の湯女連が湯もみ太鼓の囃子で演じます。この湯もみを終わった初湯で行基・仁西両師の御像に沐浴をして頂くのであります。
 神・仏両様の儀式が終わると、「入初式の歌」を歌い、浄米を若松で白紙に掃き寄せる六根清浄の祓行事を行い、これで儀式を終わります。ふたたび行基・仁西両師の御像を乗せた輿は帰路につき温泉寺へと向かいます。途中路上に於いては湯女は帰り行く輿に向かって「戻せ 戻せ」と手招きでよびかけ、その都度、輿は行きつ戻りつすることを両三度ののち帰ってゆきます。これは慈悲深い上人を慕い、上人のお帰りを惜しむさまをあらわしたものと伝えられています。
 かくして、二つの輿は、しづしづとそれぞれ還御していくのであり、有馬温泉の新春は目出たく幕が開かれてゆくのであります。

入初式の歌
枝も栄ゆるわか緑 仰ぐにあかぬ御代ぞひさしき
滝の白糸いとしうてならぬ ゆるせ主あるわが片袂
落葉山こそ名所なり めでたし 々 打ちましょ 々          (「入初式」説明パンフより)
おみやげ
三ツ森本舗「よい湯(と)まんじゅう」
ねね橋の見える三ツ森本店。1個60円


炭酸煎餅考察

製造元 三津森本舗 平野屋本舗 有馬せんべい本舗 湯ノ花堂本舗 泉堂
缶のデザイン
内容枚数 2枚入り×11袋 6枚入り×5袋 5枚入り×6袋 5枚入り×6袋 6枚入り×5袋
煎餅表面の文字 ARIMAMEISAN
TANSANSENBEI
有馬名産
タンサン
ARIMAMEISANN
MIYUKISENNBEI
炭酸御幸煎餅
TANSANSENBEI
TANSANSENBEI
炭酸泉
TANSANSENBEI
TANSANSENBEI
名産 タンサン
ARIMAMEISAN
TANSANSENBEI
有馬名産
タンサン水
炭酸煎餅
煎餅表面の絵 炭酸泉源神社 桜&紅葉 温泉マーク なし
煎餅の裏は 裏にも文字 へこんでいる へこんでいる 平坦 平坦

年表

時代 西暦 日本の出来事 有馬の出来事
・大和朝廷が日本の統一を進める ・有馬温泉の起源だと伝えられる「三羽烏」の話、
(大己貴命の伝説はこのころ)
飛鳥時代 604
607
631
645

647
・聖徳太子が十七条の憲法をつくる
・法隆寺建立


・大化の改新


・34代舒明天皇が有馬に入湯される

・36代孝徳天皇が有馬に入湯される
(杉が谷行宮の話はこのころ)
奈良時代 710 ・平城京遷都 ・45代聖武天皇の頃、行基が有馬温泉を再興する
・奈良平安時代には多くの人が有馬に入湯する
平安時代 794 ・平安京遷都 ・藤原道長有馬に入湯する
・大洪水、山津波で有馬温泉は荒廃する
・仁西上人が有馬温泉を再興する
鎌倉時代 1192 ・源頼朝が鎌倉幕府を開く ・藤原定家、有馬温泉に入湯する
・室町時代の終わり頃まで300年の間、天皇をはじめ、有名な人々が有馬温泉を訪れてにぎわう
室町時代 1338 ・足利尊氏が室町幕府を開く
安土桃山 1573 ・織田信長が室町幕府を滅ぼす ・有馬、大火災に遭い荒廃する
・豊臣秀吉有馬温泉を修復する
・秀吉、千利休と共に入湯し茶会を行う。その後秀吉はたびたび有馬を訪れる
・近畿大地震により温泉場全壊する
・温泉場を修復し再興する
江戸時代 1603 ・徳川家康が江戸幕府を開く 江戸年間著名な人々が数多く入湯、特に文化・文政の頃は有馬温泉の全盛期で大変にぎわう
明治時代 1868
1873
明元年
明治6
・明治新政府ができる


・戸長梶木源治郎、有馬炭酸水を発見する
1874 明治7 ・神戸大阪間鉄道開通 ・鉄道の開通により入湯者増える
・有馬郵便局できる
・六甲越芦屋道路が完成する
1883 明治16 ・温泉浴場二階建洋館が落成する
・有馬・生瀬間の道路が改修され、入湯者は人力車で往来する
1894 明治27 ・日清戦争始まる
1896 明治29 ・湯山町を有馬町と改める
1899 明治32 ・阪鶴鉄道大阪生瀬間開通
・阪鶴鉄道生瀬三田間開通
1904 明治37 ・日露戦争始まる
1905 明治38 ・三田有馬間に乗合自動車開業
大正時代 1914 大3 ・第一次世界大戦が始まる
1915 大正4 ・三田有馬間に鉄道が開通する
・ラジウム泉が発見される
1925 大正14 ・有馬宝塚間にバスが開通する
昭和時代 1928 昭和3 ・神戸電鉄(湊川~有馬)開通
1931
1937
昭和6
昭和12
・満州事変
・日中戦争
1938 昭和13 ・阪神大水害 ・阪神大水害、有馬も大水害に遭う
1941 昭和16 ・太平洋戦争始まる
1942 昭和17 ・有明泉1号を掘る
1943 昭和18 ・国鉄有馬線廃線
1945
1946
昭和20
昭和21
・終戦
・日本国憲法公布
1947 昭和22 ・銀泉を掘る
・神戸市に合併する
1949 昭和24 ・有馬大茶会はじまる
1950 昭和25 ・天神泉を掘る
1953 昭和28 ・極楽泉・有明泉2号を掘る
1955 昭和30 ・いwなり湯を掘る
1960 昭和35 ・芦有自動車道路開通
1962 昭和37 ・有馬・三宮間の直通バス開通
・裏六甲ドライブウェー開通
・芦有バス開通
1964 昭和39 ・東海道新幹線開通
・東京オリンピック開催
1965 昭和40 ・旅館案内所ができる
1967 昭和42 ・六甲トンネル開通
・上水道に千苅水源地の水が入る
1970 昭和45 ・大阪万国博覧会開催 ・六甲有馬ロープウェー開通
1973 昭和47 ・神戸市北区となる
平成時代 1989 平成元 ・有馬公民館・地域福祉センターができる
1995 平成7 ・阪神淡路大震災 ・有馬も大きな被害を受ける

有馬三山(落葉山、灰方山、湯槽山)

落葉山
522.5m

裏六甲縦走路へ

落葉山山頂の妙見寺

灰形山

湯槽谷山801m

有馬48滝

鼓ヶ滝 蟇滝 七曲滝 川上ノ滝(船坂谷) 猪ノ鼻滝(逢山峡) 百間滝(上部)
百間滝(下部) 似位滝 白石滝 太鼓滝 猪ノ鼻下滝? 猪ノ鼻下の下滝?
白石滝の上の滝1 白竜滝 白竜滝の上段部分 大安想滝の手前の滝1 大安想滝の手前の滝2
大安想滝 白石滝の上の滝2

アリマウマノスズクサ(ホソバウマノスズクサ)

アリマウマノスズクサ(ホソバウマノスズクサ)
学名:Aristolochia kaempferi
ウマノスズクサ科
近畿以西から九州の山地に自生する落葉藤木で、牧野富太郎氏によって六甲山で発見されました。
花期は5~6月。
花と葉に特徴があり、葉は広卵形から披針形、三つに分かれ側片が丸くなることもあります。
花期には小ぶりながら、楽器のサックスか食虫植物のウツボカズラのような花をつけ、茶褐色の三つに開いた舷部とその中に見える黄色い内筒がとても不思議で印象的です。
以上8枚は2004.6.6撮影(湯槽谷山付近)
 六甲山地にはアリマウマノスズクサが生えています。仲間の植物の中でも特異なもので、六甲山を特徴づける植物です。
 また、アリマウマノスズクサの葉は、ジャコウアゲハというアゲハチョウ科のチョウの食草となっています。
以上22枚は2004.6.13撮影(六甲最高峰付近)