●書下ろしサンプル
――何で、こんなことに。
南健太郎は、息苦しさの中で懸命に考えを巡らせた。強引に唇を合わせられ、条件反射のようにきつく瞼をつむっていたが、南の手は相手の胸や肩を押しやろうとしている。しかし、いかに彼が密着した体を引き剥がそうとしても、背や腰に回された相手の腕がそれを許さなかった。
「ん……っ」
息がうまく継げず、南の眉根がよる。だが、鼻での呼吸がままならないからといって、口を開くわけにもいかなかった。唇を、荒々しく舌が這う。唇を解けば、その舌を口中に招き入れるのではないかと、それを南は恐れた。
――ここ、学校なのに。
熱くなっていく頬とは正反対に、周囲の空気は冷え冷えとしていた。冬場の男子トイレなど、寒くて当然だろう。しかも、ここは下足場にまで空調が完備された新設の校舎ではなく、老朽化の目立つ旧校舎だった。
主な設備がほとんど新校舎に集まっているため、いまや生徒がこの建物に足を踏み入れることは稀になっている。ひと気がない代わりに暖気もなく、寒い中をわざわざ旧校舎まで足を伸ばすような人種は限られていた。よほどの物好きか、あるいは自主休講を決め込んだ輩が教師の目を逃れるためにここへ侵入するかだ。しかし、例外なのが南だった。物好きでもサボり魔でもない彼は、そのサボり魔を探しにやって来たのである。
――それが、何でこんなことに……!
強く抱きすくめられ、唇を食らうようなキスにさらされながら、南は混乱して伏せた睫毛を震わせた。
そもそもの発端は、そのサボり魔が授業が終わっても教室に戻ってこなかったということにある。
「え、亜久津、いないのか?」
終礼がすみ、帰り支度をして三年三組を訪れた南は、教室にいた千石清純から亜久津仁の不在を告げられた。
「うん。学校には来てるんだけど、そういや午後から姿見てなかったね。鞄とか置きっぱなしだから、まだ学校にはいると思うよ」
「しょうがない奴だな」
溜め息を吐いたものの、南に驚いた様子はない。亜久津の出席率の低さは知らぬ者もいない周知の事実で、授業の始まった教室で彼が着席していると、それを見た教師は却って仰天するほどである。中三の夏以降は亜久津もよく登校するようになったが、規定の出席日数や単位を稼ぎ終えた今、また適当に手を抜いているらしかった。
教室一番後ろにある亜久津の机には、確かに荷物が置き去りになっていた。その机の上に自分の制鞄を乗せ、南は中から携帯電話を取り出した。
「とりあえず、ケータイにかけてみるか」
だが、亜久津の電話番号を呼び出して発信したと同時に、南はこの試みがむだに終わったことを察した。彼が携帯のボタンを押すと、机脇にかけられた亜久津の鞄から、虫の羽音にも似た異音がかすかに立ったのだ。もしやと思い、南が指で触れれば、鞄の内側に震動し続けている物がある。手元の携帯の終了ボタンを押してみると、また時を同じくして震えもやんだ。
「亜久津、携帯持って行かなかったみたいだね」
千石が結論するのに、南は溜息と頷きを返した。
「もう授業終わってんだし、亜久津もじきに戻ってくるんじゃないの。何ならここで待ってたら?」
「ん〜……。いや、探してみるよ。あいつの行きそうな場所には心当たりあるし――つっ!」
いきなりことばを切って、南は口の端に指をやった。しゃべった拍子に、唇に引きつれるような痛みが小さく走ったのだ。指を見ても血は付いていなかったが、触れた唇は乾燥してかさついていた。
「あれ、南、リップ持ってないの?」
コートのポケットに手を入れ、冬服の胸を叩いては何かを探す南に、千石が声をかける。南は首をひねりつつ制鞄の中を覗き込んだ。
「持ってたはずなんだけど、どこへやったかな」
答えるのにも唇の乾きが気になり、南は無意識にそこを舌で湿した。
「あ、だめだよ南。舐めたら却って荒れちゃうよ。そうだ、これ」
千石は、自分の制服のポケットから小さなものを取り出した。平たくて薄い缶のような容器を、南に渡す。
「これは?」
「リップバームだよ。試供品でたくさんもらったからって、クラスの子が今日おれにもくれたんだ。ちょうどいいから、使ったら」
「悪いな」
礼を言って、南は自分の掌に乗った小さな容器を珍しげに見つめた。普段シンプルなスティックタイプのリップしか使っていなかった彼には、指で塗るこのようなバームは物慣れない。千石にこれをあげたクラスメートは、きっと女の子なのだろう。容器にプリントされた絵柄がいかにもかわいらしい。蓋を開けると、ピンクに着色された透明なペーストが入っていた。いつものミントの香りとは違う、果物のような甘い匂いが流れ出る。
「……」
――すげー女の子っぽいんだけど、これ。
内心では、このかわいらしいリップバームと大柄な男の自分に強烈なギャップを感じる南だが、背に腹は代えられないので今回はお世話になることにした。ハンカチで指を拭って千石にリップバームを返そうとすると、彼は首を横に振る。
「いいよ、これは南にあげる。リップないと不便だろうし、付けてるとこ結構面白かったからね」
長身の南がちまちまとバームを伸ばす姿が、千石には愉快だったらしい。南は千石を軽く睨んだが、もう蓋を開けてしまったものを突き返されても困るだろうと思い、手を引っ込めた。その柄にないかわいらしい容れ物を、自分のポケットに落とす。
「言い分はすっきりしないけど、もらっとく。ありがとう」
そうして、亜久津のダウンジャケットや荷物もまとめて掴むと三組の教室を出、下足場にそれらを置いてから南は新校舎を後にした。目的地は旧校舎だ。寒さが増して、さすがに吹きさらしの屋上が辛くなってからは、亜久津は利用者が少なく風の入らないそこの男子トイレを居場所にしていることが多かった。
南の読みは間違っていなかった。彼の予想通り、旧校舎の冷えた男子トイレで亜久津は煙突のように煙を上げていたのである。だが、彼を見つけてからのことが予想外だった。声をかけた南に近付いてきた亜久津は、不審を感じ取ったように顔をよせ、そして急激に機嫌を降下させて彼を個室に引っ張り込んだ。南が何事かと問おうとするのも待たず、強引に唇を合わせて今に至る。
亜久津の唐突なキスのわけがわからず、ひと気がないとはいえ校内で行為に及んでしまっている後ろめたさ、そしてもし誰か来たらという心配も合わさり、南は大混乱に陥っていた。何とか唇は解くまいと引き結んでいるが、そろそろ呼吸が怪しくなっている。
「んっ……んー!」
散々に尽力しても亜久津を押しやることができない。そう気付いた南は、別の実力行使に出た。上半身よりは自由の利く脚に望みをかけ、相手の足の上に自分の足裏を落とす。ためらいなく踏みつけにしてやると、ようやくきつかった拘束が緩んだ。
「……っは、はぁ。いきなり何すんだよ、お前! ここ学校だぞ!」
唇を解放され、息をつくなり南は一喝した。しかし、亜久津は反省した様子もないどころか、逆にコートを着込んだ南の喉元を押し開くように鼻先を突っ込んでくる。予期せぬ奇行に、南も反応しきれず固まった。亜久津は南の詰襟を開くことはしなかったが、ひとしきり首元や耳裏に顔をよせてからやっと離れた。
「な、な、な……」
衝撃覚めやらぬ南がことばも出ずにいるのに、制服から取り出した煙草に火を点けた亜久津が、一服の後にこう告げた。
「何でもねェ」
「何でもないわけあるか!」
さすがに、ここまでされて理由がなければ、南も納得できない。唇を拭うと、濡れた感触の生々しさに頬が赤くなった。
「学校で、こ、こういうことすんの、おれはヤなんだって知ってるだろ」
南は強い視線で亜久津を見据えた。身を離したとはいっても場所がトイレの個室では、互いの距離などないに等しい。向かい合った南からきつく睨まれたが、亜久津はそれでも口を割らず答える代わりに紫煙を上らせた。
南はどこか奇妙な印象を受けて、亜久津の顔を見直した。